クリス
王政国家、絶対君主制を敷くフィランデル国が誇る、歴代随一の王――それが、イシュラ・シランドリア。
長い歴史の中で、十二歳で次期王候補に指名され、十七歳で王冠を戴いた統治者はただ一人。国中が歓喜に沸き、昼夜を問わず祝宴が続いたと記録に残る、希代の名君。
努力の過程を見せず、迷いも弱さも苛立ちすら表に出さない。ただ結果だけを積み上げる、完璧な人。
『高貴さは義務を伴う』
身分や地位の高い者は、それに見合う責任と義務を果たすべきだと。それは導く為のものではなく、ただ最初から決まっている前提条件。
それなら、義務を果たす為に必要な能力を備えていればいい。
知識も技量も優秀で、欠点のない王子として完璧に振る舞い、民から愛され、貴族達からは後押しされる、イシュラ・シランドリアの再来と称される第一王子。
事実としてそうなり、その立場においてクリス・シランドリア以上の存在はどこにもない。同年代の子供たちでは比較にすらならず、求められる基準を満たすのではなく、常に上回り続けてきた。
だから、次期王候補に指名されるのは必然で、他に選択肢はないと、そう考えていた。
けれど、現国王が指名された十二歳になっても、クリスが次期王候補に指名されることはなかった。
理由は示されず、説明もない。ただ指名されなかったという結果だけが残った。
すると皆、決まって同じような顔をした。
気の毒そうな、あるいは慰めるような、どれもこれも不愉快なもの。
『まだ早いのだと思う。焦る必要はないよ。父上ほどの王が統治しているのだから、急ぐ理由もないしね』
そう言っておけば、安心したように頷く。同情を向けてくる者達に対して最も無難で、最も期待される返答。本心ではなく、必要だから選んだ言葉だ。
クリスにとって重要なのは、皆を納得させることで、慰められることではない。
――何も、問題などない筈だった。
『今日も、ソレイルは授業をさぼっているんだね』
木剣を片手に裏庭に駆けて行くソレイル。侍従が慌てて後を追い、必死に呼び止めていた。
授業をさぼっても仕方がないと許容され、叱咤されても気にした様子もない。
自由気ままに過ごすソレイルを見かけるたびに、クリスの胸の奥で黒いもやが渦巻いた。
(疲れたな……)
気付かないうちに積み重なっていた重圧が、少しずつ形を持ち始めた頃、メリア・アッセンと出会った。
王妃の手駒として動く男爵家の娘。従順で、判断力に欠け、愚かなほど素直な子。状況を自分で考えることは出来ないが、指示を与えればその通りに動く。
首脳陣の子息や子女を集めた社交クラブで、メリアが起こす揉め事を解決するだけで、クリスの評判は簡単に上がっていく。
クリス自身が愛想笑いを浮かべて場を取り繕う必要はなく、メリアが問題を起こしクリスがそれを収める。たったそれだけで、クリスが努力するまでもなく周囲が勝手に持ち上げる。
楽だった、あまりにもつまらないほどに。
そんなクリスの人生に亀裂を入れたのは、たった一人の、本物の妹だった。
『これは俺の娘だ』
あの晩餐の席で、国王が宣言した言葉。執務室から出てこない人が晩餐の席に現れ、粗末な少女を抱き上げ連れて行った。
『母上、人目があります』
恐ろしいほど顔を歪ませていた王妃に一声かけ、クリスはすぐに優しい兄を演じ、ソレイルとメリアを連れて席を離れた。
(リスティア?妹?あれが……?)
あんな粗末な少女など、害にもならない。
それでも王妃は、異様なほどリスティアに執着していた。
だからその晩、クリスは王子宮へ戻ると王妃の侍女を密かに呼び出し、全てを話させた。
「生意気だよね」
優しく忠告してあげたのに、それを無視して王族籍に入り、王子宮殿にまで入り込んできた異物。
「王女殿下のことですか?」
「うん……それに」
何か、奇妙な違和感があるのだ。
ずっと平民として育ったと聞いていたけれど、リスティアには平民らしさがまるでない。長く平民として暮らしていれば、言葉遣いにも所作にも粗さが出るものだ。下級貴族でさえ教育が行き届かず、礼儀作法は形だけで会話も稚拙だというのに……。
「おかしいよね」
マナーの基礎は身についているようだったし、言葉の選び方も妙に洗練されている。
それに、クリスに対して臆することなく対等に嫌味を返してくるのだ。
あれを、没落したとはいえ伯爵家の子だから、という理由では到底説明がつかない。
「まるで、誰かに徹底的に仕込まれてきたみたいだ」
変な子だと笑えば、ノクトがクリスの顔を覗き込む。
「どうにかしますか?」
クリスの言葉にだけ従い、クリスが望むことを事前に察して動く、優秀な侍従。
「まだいいよ。指示したことは?」
「王子宮の者達には、王女殿下の情報を逐一報告するよう伝えてあります」
「全員に?」
「はい。何をして、何を食べ、誰と会い、何を好み、何を嫌うのか……全てです」
「ありがとう、ノクト。リスティアは祖母と母を失った、身寄りのない可哀想な子だからね。僕が兄として、気にかけておいてあげないと、だろう?」
「第一王子殿下は、本当にお優しいと皆が言っていました」
ノクトの言葉にふわりと笑い視線を前へ向けると、小さな人影がこちらに歩いてくるのが見えた。揺れる茶色の長い髪と、落ち着きなく周囲を見回す仕草で、誰だか分かった。
「メリア」
そう声をかけると、クリスに気付いたメリアが小走りに駆け寄ってくる。
「クリス……!」
息を弾ませながら、嬉しさを隠しきれない顔でクリスの前に立つ。その従順さは滑稽なほど幼く見え、喉の奥で小さく笑う。
「どうしてここに?母上の下で淑女教育を受けていた筈だよね?」
「あのね、王妃様とは暫く会えませんって、そう侍女に言われたの。だからクリスに会いに来たんだけど」
「ソレイルにではなく、僕に……?」
「うん。ソレイルとは少し距離を置きなさいって、王妃様に言われたから」
「そう……」
それなのに王子宮に来たということは、行き場を失ってどうしていいか分からなくなったのだろう。
「でも、ソレイルはメリアに会いたがっていたよ」
「え……!」
「母上との授業はなくなったのだから、ソレイルと遊んでもいいんじゃないかな」
「そうかな?でも私、まだ立派な淑女になれていないけど……」
「立派な淑女になるまで会ってはいけない、とは言われていないよね」
「う、うん」
「大丈夫だよ、メリア」
クリスは戸惑っているメリアの肩に優しく手を置き、にっこりと微笑む。
「途中の成果も見せてくれた方が、ソレイルも嬉しい筈だよ。メリアだって頑張っているところを見せたいよね?」
「……うん。あのね、私、最近はね」
「ごめん、メリア。僕はこれから授業なんだ」
パッと顔を上げ、嬉しそうに身を乗り出し話し始めたメリアの言葉を、クリスはやんわりと遮り眉根を下げた。
「僕はいいから、ソレイルに色々と教えてあげて」
「わかったわ!またね、クリス」
宮殿内へ向かって駆けていくメリアを見送り、軽く溜息を吐く。
「母上の所為で、最近知恵がついてきたね……面倒だな」
「何かに使うつもりでしょうか?」
「さあ、母上が何を考えているのか僕には分からないから」
今、王子宮にはリスティアもいる。
メリアがリスティアと鉢合わせ揉め事を起こさないわけがない。
「メリアとソレイルに遊んでもらうといいよ」
クリスの口元は自然と緩み、胸の奥にあった不快さがスッと消えていった。




