腹を固めます
侯爵令嬢、孤児、どちらのときも他者との関係は希薄だった。
親の愛情を求めながら婚約者に依存し、自身の存在意義を求めた日々。
初めから愛情など求めず全て拒絶し、心の痛みを誤魔化し続けた日々。
身近な人達に裏切られ、傷つけられ、捨てられ、そうした記憶が根強く私の中に残っている。
何の成果もなく、役に立たなければ、私には価値なんてないのだと。
庭仕事をする母や家事をする祖母の隣に立って手伝い、見様見真似で家の柵や壁の補修をするようになったのは、いくつのときだっただろうか。
『子供は遊んで育つものよ。好きでやりたいというのなら止めはしないわ。でもそうでないのなら、それをする必要はないの』
そう言ってギュッと痛いくらい抱き締めてくれたのは、母だった。
『リスティアはまだこんなに小さいのだから、早く大人になろうとしなくていいのよ』
母が亡くなったあと、祖母はそう言いながら涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった私の顔を拭ってくれた。
役に立たないただの子供である私を慈しみ、惜しみなく愛情を注いでくれた母と祖母。
三度目の人生で、叶うことがないと諦めていた、本当に欲しかったものがようやく手に入ったのに、それはあっという間に消えてしまった。
短い間だったけれど、とても幸せだった日々。
もしかしたらこの先も、何か幸せなことが待っているかもしれないと幻想を抱けた。
だからリオルガが初めて私の前に現れた日、私には父親がいると知ってほんの少しだけ期待したのだ。迎えを寄越すくらい、私に会いたいと思ってくれているのではないかと。
けれどその期待は直ぐに裏切られ、王宮に着いてからも自称父親は減点なことばかり。
『王宮で、王女として暮らす気はあるか?』
今更だと吐き捨てた私を、一月も側に引き留めた。
危険だからと逃がしたのに、その危険な王宮で暮らせと言うイシュラ王。彼が何を考え、どうしようとしているのかなどどうでもよくて、私はただ深く関わって傷つくのが嫌で一刻も早く側を離れたかった。
私に残ったものは、母と祖母との大切な思い出と、私と母を捨てたと思っていた父親だけだから。
でもそろそろ腹を固めるときがきたのかもしれない。
生命が脅かされそうになっている今、傷つくのが怖いなどと言ってはいられない。
統括宮の通路に座ってそんなことを考えながら、私の反応を待つクリスへ顔を向ける。
取り敢えず目の前の問題から片付けよう。
「王族だから、王宮内だからといって安全というわけではない。政治的な理由で危害を加えられる恐れだってある。だから誰に従い、媚びへつらうかは、とても大切なことなんだ。今のリスティアは平民で、王族籍もない。そんな子が父上の子だからと言って皆に認められるわけがない」
トン……と私の額を指で押したクリスは、「ここで生きていくのは大変だ」と愉快そうに笑う。
「消えてくれって」
「君の為に言ったんだよ。もう怖い思いをしないようにと」
「どうしてそれを私に言うのですか?」
「……は?」
怖い目に遭ったばかりの子供なら、少し脅せば泣いて逃げ出すとでも思っていたのだろう。
確かに怖かった。人に殺意を抱かれるほど恨まれた経験などなく、自分は大丈夫だという安易な考えが何をもたらすか身を以て知ったのだから。
「だから、どうして私に言うのかと訊いているんです」
虚を衝かれたような顔をしているクリスは、私が言い返してくるとは想像もしていなかったらしい。私がどういった性格なのか、あの晩餐の席で見ていただろうに……。
「……何を」
「私は、国王陛下が態々迎えを寄越して王宮へ来いと言うから来たんです。それなのにここから消えろと言うのであれば、それを第一王子殿下が直接国王様に言ってください」
私に言うのは見当はずれですよね?と小首を傾げれば、笑みを消したクリスは苛立ちを見せた。これで引いてくれればと思ったが、どうやらそうはいかないらしい。
「人のものを欲しがるところは、母親にそっくりだ」
こうして態と人の逆鱗に触れるところは、貴方もお母様にそっくりですよ。
「人のものを欲しがったことなど、母も私もありません」
「父上を懐柔して側室になり、王妃である母上から何もかも奪ったのが君の母親だ。そんな人と同じように君も様々なものを享受し、身の程をわきまえずクラウディスタ家に触手を伸ばしただろう?」
「国王陛下は、そう簡単に誰かに懐柔されるような人なのですか?」
「……」
「側室のことも、王妃様から奪ったと言われるようなことも、全て国王陛下の考えや思いでしたことかと。それと同じように、私が享受していると言われるものも、クラウディスタ家の子息と懇意にしていることも、全て国王陛下のご意思です」
そう言ってにっこりとクリスに笑いかけたあと、だから文句があるのであれば国王陛下に直訴してくださいと続けた。
「……君が簡単に手に入れているものを、僕がどれだけ欲しているか分からないのだろう」
「簡単に手に入れていると思っているのであれば、それは間違いです。母が必死の覚悟で行動した結果が今なだけです」
「忠告はした」
「ご忠告、どうもありがとうございました」
お互いゆっくりと立ち上がり、バチバチと見えない火花を散らして睨み合っていると、閉められていた統括宮の扉が開く音が聞こえた。
「……リスティア様!」
「あっ、リオルガ……うぐっ!?」
扉から入って来たリオルガにここだと小さく手を振ると、すぐさま駆け寄って来たリオルガに頬を両手で覆われた。
「顔色は……あまりよくはありませんね。眩暈や吐き気といったものはありませんか?」
「うん、大丈夫」
「そうですか……」
深く息を吐き安堵するリオルガを見て、自分がどれほど愚かだったか思い知らされる。
母親のように慈しんでくれる存在と、厳しいことを口にしながらも助言してくれる友のような存在。人と深く繋がったことのない私がそんな存在を初めて得て、浮かれ思い上がり判断を間違えてしまった。
(友達の助けになってあげたかったから……)
その結果、助けになるどころか余計なことをして事態を大きくしただけで。
これは後でしっかり謝罪しなくてはと反省している横で、リオルガがクリスに「お待たせしました」と声をかけた。
「それほど待ってはいない。何かあったみたいだから、リスティアを避難させておいたのだけれど」
「ありがとうございます。扉の外に王子宮の騎士が来ておりますので、もう出られても構いません」
「それならもう行くよ。リスティアは、しっかりと休むように」
猫を被るとは正しくこれのこと。
さっきまで散々人のことを悪く言っていたクリスは、妹を心配する兄のような顔をして統括宮を出て行く。
シリルがクリスは自分と似ていると言うだけあると思いながら、王宮には狐だけでなく猫もいるのかと遠くを見つめる。
「リオルガ。夕食の後に話がしたいって、イシュラ王に伝言をお願いします」
傷つくのが怖いからと逃げずに、次は失敗しないように。
この先、私が生きていく為に何をするべきか話し合わなくては。