表通りで立つ女(ひと)へ
私は少々追い詰められていた。
私は沙夜。とある港町にある美術系大学に通う大学生だ。大学入学の時から住んでいるアパートで男と同棲していたのだが、度重なる喧嘩の末にアパートから追い出してしまった。清々したと思ったのも束の間、男と折半していたアパートの家賃などを丸々負担しなくてはいけなくなったので、生活費に困ることになってしまったのだ。
私は平日、学校が終わった後に近所のスーパーでレジ打ちのアルバイトをしているのだが、家賃、生活費の他に学校で使う画材の購入費などを考えるとやはり足りない。このままだと食費などを切りつめても二~三ヶ月後にはアパートの家賃が払えなくなってしまいそうだった。
私が大慌てでスーパー以外の時間帯に働けるアルバイトを探したところ、アパートからは少し遠いが土日に午後から働けるアルバイトを探している喫茶店が見つかった。
その喫茶店は大通り沿いの角地にあった。お店に入ると少しレトロな雰囲気で、ここが港町だからか店内は海を連想させるインテリアでまとめられていた。
清潔な雰囲気の白い天井と壁、海月の形をしたシーリングライト。砂浜を思わせるアイボリー調のフローリングの床。ホールのテーブルと椅子は天然木と青い帆布の組み合わせで統一されていた。正面の大きな窓には波を思わせる青い柄のカーテン。壁には舵をかたどった大きな壁掛け時計。カウンターにはかわいいイルカの置物……。
「はぁ……。こんなお洒落な喫茶店、初めて入った……」
私はそんな独り言を言ってしまう。
個人経営らしいその喫茶店のご主人は、頭に白いものが混じる真面目で優しそうな男性だった。
「週末シフトの子が今年は受験だからって辞めちゃうところでね。喫茶店で働いた経験とかある?」
「はい。高校生の時、大手チェーンのカフェでホール係のアルバイトをやっていたことがあります」
私がそう答えると、ご主人が嬉しそうに言う。
「おお! それは頼もしい。それじゃ、早速次の土日から頼むよ。よろしくね」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
私は差し当たりアパートを追い出されずに済みそうでホッとしながら、同時にこれからの生活を思ってため息をついた。学校から帰ってきたらスーパーのレジ打ちをして、土日は午後から喫茶店のアルバイトか……。
「あー……、そういや課題の絵を進めておかなきゃ……」
実は何をテーマに描くかも決まっていない。勤労学生は辛うござんす……。
そうしてその週の土曜日、私はその喫茶店へ初出勤した。
仕事着のご主人は、黒のスラックスにウィングカラーシャツ、蝶ネクタイ。腰にはダークブラウンの前掛けを巻いていた。そのご主人に、もう一人のアルバイトの女の子を紹介される。
「この子は私の姪っ子でね。土日は朝イチから夕方の忙しい時間帯くらいまで入ってくれてるんだ」
「どうも初めまして、杏子です。よろしくね! よかったぁ、すぐ人が見つかって……。私一人だったらどうしようかって思ってたんです。どうぞ、お近づきの印に」
杏子と名乗ったその女の子は、にっこり笑ってアイスコーヒーの入ったグラスを渡してくれながら言った。
杏子ちゃんはお店の物らしい制服を着ていた。細身の黒いジャンパースカートに丸襟の白シャツ、首元には控えめなエンジ色のリボン。よかった、落ち着いた感じの制服で……。私がお礼を言ってグラスを受け取ると、ご主人が笑って言う。
「コーヒーか紅茶だったら、好きに飲んでいいからね。そのくらいの特権はあるよ」
カランと音がして、お店の扉が開く。
「ほらお客さんだ。杏子ちゃん? 沙夜ちゃんを更衣室へ連れて行ってあげて」
ご主人がそう言うと、杏子ちゃんがお店の奥にある更衣室へ連れて行ってくれた。
「沙夜ちゃんなら……Mでいいかな? 合わないようなら叔父さんに言っとくから、遠慮しないでね。髪は纏めた方がいいかな。着替え終わったらお店の方に来てね」
そう言って杏子ちゃんは更衣室から出て行った。
私は杏子ちゃんが置いていってくれた制服に袖を通してからカバンに入っていたシュシュで髪を纏め、鏡で自分の制服姿を確かめた。まあMで大丈夫なようだ。
お店に出てきた私を見て杏子ちゃんが言う。
「かわいい! 沙夜ちゃん制服似合うね。サイズは大丈夫そう? まずは私とホールやろっか。今のうちにメニュー見て覚えておくといいよ。あ、あと冷タンに氷入れておいてくれる?」
杏子ちゃんは私にあれこれ言いながら、ホールの仕事をこなしていた。慣れているということもあるのだろうが、要領のいい賢い子だと思った。年齢は私と同じくらいかと思ったが、もしかしたら少し年上なのかもしれない。
少しして私も注文を取ったり、ご主人が出してくるコーヒーやサンドイッチをテーブルのお客さんに運んだりしたが、見ているとお店の混み具合を見て杏子ちゃんもカウンターの中に入って飲み物を作ったりしている。
「沙夜ちゃん! ブレンドとアイスレモンティー、持って行ってくれる? あ、叔父さん! 次のBサンド二つは私が作るから!」
こりゃ頼りになるわ……。私は初めてのお店なのに、安心してホールで立ち回ることができた。
「落ち着いたね。お疲れ様! カウンターに入ってアイスコーヒーでもどうぞ?」
お客さんの流れが切れる夕方の時間帯になってから、杏子ちゃんがそんなことを言ってくれた。いや疲れた……。久しぶりのホール係の割によく動けていたとは思うが、やっぱり慣れてないと気疲れがひどい。
「あー……、色々失敗した……」
私は注文の取り違えを二つやっていた。それにお釣りの渡し忘れが一つと、冷タン……お冷のタンブラーで冷タンと言うのだ……を落っことしたのが一回……。
くすくす笑いながら杏子ちゃんが言う。
「ごめんごめん、いきなり沢山お願いしちゃったからね。やっぱり経験者は違うよねぇ。つい色々お願いしちゃったけど、すごくよく動けてたと思うよ!」
「ありがとう……」
私は何とか笑顔を作りながら、杏子ちゃんの淹れてくれたアイスコーヒーに口を付けた。ああ、おいしい……。忙しさに追われた後では格別だ。
ホッと一息ついて何気なくお店正面の大窓から外を見ると、大通りを挟んだ向こう側の街灯のそばに女の人が立っているのが見えた。
私は……その女の人から目が離せなくなってしまった。
細身で背は高くない。レトロな雰囲気の真白のフォーマルなドレスにレースの長手袋という身なり。髪は美しく纏められていた。手には上品な小ぶりのハンドバッグ。そして白粉をはたいた顔に鮮やかな赤い口紅。
それだけでも充分すぎるくらいに目を引くのだが、私が目が離せなかった理由は恐らく違った。その女の年齢は七十をとうに越え、背が高くないように見えたのは、腰を屈めているからのようだったのだ……。
「どうしたの? ……ああ、マリリンさん?」
ぼうっと窓の外を見つめる私を見て、一瞬不思議そうな顔をした杏子ちゃんが教えてくれた。
「マリリンさん? あの女の人、マリリンさんて言うの? 外国の人なんだ?」
そんなことを言う私に杏子ちゃんが苦笑いしながら言う。
「違う違う! 日本の人だよ。マリリンさんっていうのは何て言うか……あだ名みたいなものなの。この大通りでは有名人で知らない人はいないと思う。叔父さんが時々コーヒーを渡しに行ってるみたいだから、気になるならお店が終わった後にでも聞いてみるといいよ」
マリリンさん……。なぜだろう、見ていると胸がきゅうっと苦しくなる……。
杏子ちゃんは夕方までのシフトだったので、それからの時間帯はご主人と私だけでお店を回さなくてはいけなかった。そうしてバタバタしているうちに、マリリンさんの姿は見えなくなってしまった。
お店が閉まってから照明を落とした店内で、ご主人が淹れてくれたホットコーヒーを飲みながらマリリンさんのことを教えてもらった。
「あれは……もう五十年くらい前のことになるのかな」
「五十年?!」
驚く私に、ご主人はコーヒーを啜ってから説明してくれる。
「このお店ができるずっと前のことなんだけどね。当時は外国で戦争をやっていて、この港にも軍艦が寄港したりしてたんだよね。私はその頃中学生くらいで、よく軍艦を見に港へ来ていたんだ」
その戦争のことは学校で習った。早く終わるという世界中の予想に反して、戦争は長引いたという。
ご主人は話を続ける。
「一度すごく大きな軍艦……空母ってやつだね。割と長い間寄港していたそれが出港するっていうんで、軍関係の人や船に乗る軍人さんの家族なんかで港がごった返してたんだ。それでもう少しで船が出るっていう時になって、あの女が恋人らしい軍服を着た背の高い外国の男の人と連れ立って現れたんだ。二人とも背が高くって美男美女だったから、すごく目立ってねぇ……。でも二人とも周囲の視線なんてものともしないで、ぎゅうっと抱き合ってから熱いキスを交わしたんだ」
私はご主人の語り口に引き込まれて聞き入ってしまった。
「それで二人はどうなったんですか?!」
ご主人が教えてくれる。
「二人はゆっくりと体を離して、男の方はそのまま船に乗って行っちゃったんだよね……。あの女は船が汽笛を鳴らして出港した後もしばらく港で海を見つめていたっけ……。まるで映画みたいだったよ」
「はぁー……」
私はため息をついてしまった。まるで別世界のお話のようだった。
「それじゃあマリリンさん……あの女は、その軍人さんが帰ってくるのをずっと待っているっていうんですか? この大通りで?」
「その辺りのことを知っている人は誰もいないよ。マリリンさんって呼び名だって誰が言い出したかもはっきりしない。でも気が付いたら、毎日のようにあの女が大通りの人目につく場所で立っているのが噂になってたんだ。私がそのことを知ったのは随分後だったけど、もうあの女は有名人になってて、この大通りじゃ知らない人はいなくなってたんだ」
ご主人はそう言って、またコーヒーを啜った。
私は改めてご主人に聞く。
「ご主人がここにお店を出したのは、マリリンさん……あの女に関係あるんですか?」
ご主人は照れ笑いをしながら答える。
「ああ……実はそうなんだ。私は昔、営業職のサラリーマンだったんだけど、向いてなかったのか精神的に参っててね。ちょうどここが売りに出ているのが見えたから、この場所で喫茶店でも始めてみようかって思ったんだ。この場所ならあの女がよく見えるからね」
「ご主人は時々あの女にコーヒーを渡しに行ってるって聞きましたけど……」
私がそう聞くと、ご主人が頷いて言う。
「うん……。時々って言うか、ある時期からあの人を見かける度に毎回ね。最初は受け取ってもらえなかったんだ。『頂く義理も理由もございませんので』って……。それで『あなたのような美しい女にお店の近くにいていただくだけで、店の売り上げがよいものですから、せめてものお礼です』って言ったら、『お外でこういうものをいただくのはお行儀が悪いかもしれませんけれど、きちんと理由のあるご厚意を無下にするのも何でございますから、いただきましょう』って、その時だけはベンチに座って私が渡したテイクアウトのコーヒーを飲んでくれるようになったんだ」
私は胸のつまるような思いで尋ねる。
「誇り高い、ということなのでしょうか……」
「そう思うね。私もいい年だが、未だにあの女には子ども扱いされている気がするよ」
ご主人は笑いながらそう言った。
その日の夜、私はまた学校の課題に取り組もうとしていた。まだ何をテーマに描くか決まっていなかった。
「あの女をテーマに描きたいな……」
描きたいとは思うのだが、今の私にあの女を描くことができるだろうか……。
私はそうして平日は学校とスーパーのレジ打ち、土日は午後から喫茶店のホール係をこなしながら、学校の課題に取り組む毎日を送るようになった。慣れないうちは体が悲鳴を上げているようだったが、それも半年もすると慣れてきたのかそれ程負担には感じなくなってきた。
「やっぱり若さだよねぇ」
喫茶店のご主人が笑いながら言う。
「ご主人は相変わらず、ずっとあの女にコーヒーを持って行っているんですか?」
私がそう聞くと、ご主人は少し照れながら言う。
「うん。この店の売り上げに貢献してもらってるのは、多分本当だからね」
にやっと笑って杏子ちゃんが言う。
「そんなこと言って……本当はあの女とお近づきになりたいんじゃないの?」
ご主人は一瞬驚いたような顔をしてから、少し俯いて言う。
「そんなこと……。いや少しあるかな。ずっと憧れの女ではあったからね」
「そうなんですか? それならアタックしてみればいいのに」
こういう恋バナは大好きだ! 私は是非ともご主人を応援したかった。
「そう思うよねぇ? 私の父は叔父さんのお兄さんなんだけど、父がお見合いの話を持ってきても叔父さんは全部断っちゃうんだって。そうまで好きならアタックすればいいのにって父も言ってたんだよ」
杏子ちゃんがにやにやしながら言うのだが、ご主人は首を振って言う。
「勘弁してくれよ。私こそあの女の恋を応援したいんだ。ずっと待っているのなら、その気持ちを尊重したいんだよ」
杏子ちゃんは口を尖らせて言う。
「そんなこと言ったって……、もう五十年も来てくれない男の人なんて放っておいていいと思いますけど……。沙夜ちゃんどう思う?」
私は鼻息を荒くして言う。
「そうですね! 私としては、どっちも応援したいですね!」
「何それ!」
杏子ちゃんはカラカラと笑った。
そんなこんなで数か月がたったが、私の課題はあまり進まなかった。港町の大通りに佇む一人の女性。きれいな服を着て、お化粧もしっかりして、来ないかもしれない男の人を待っている……。そんなイメージで描いてみたのだが、今一つ何かが足りない感じだった。
「これはこれで悪くないとは思うけど……何か足りないような?」
それが何かがわからない……。もう寝なきゃ。勤労学生は辛うござんすよ……。
季節は夏を迎えかけていた。私が喫茶店へ行くと、あの女が日傘をさして佇んでいるのが見えた。私の胸は相変わらずあの女を見る度にきゅうっとなるのだが、それを表現する方法がわからないでいた。
もしかしたら私もあの女にコーヒーでも持って行ったらそれが何かわかるかもしれないとか、そんなことを思い始めていた頃、それは起こった。
あの女の前に、将校らしい軍服を着た若い男性が立っているのが見える。その男性は白い肌に金髪で、遠目でも外国の人だとわかる。
あの女は持っていた日傘を落とし、レースの長手袋をした両手の平で口を覆っていた。とても驚いた顔をして、目に涙を浮かべているようだった。
あの背の高い男性が、ずっと待っていた男の人だというのだろうか。しかし……不自然なほど若すぎる。私は考える間もなくお店を飛び出して、あの女のところまで駆け寄ってしまった。
「……?」
近づいて来た私を見て、その男性は不思議そうな顔をする。あの女は、眼に涙を浮かべながら男性を見つめたままだった。私には気が付いていないらしい。
私はハッとして何か言わなくてはと必死に考えた。
「あの! ……外は暑いですから、よろしければ店内へどうぞ。冷たいものでもお出しします」
私は喫茶店の方へ片手を広げて言った。我ながら頑張ったと思う……。
あー! 日本語だった!
その外国の人らしい男性は、にっこりと笑って言う。
「素晴らしいアイデアですね。失礼ですが、ミス? よろしければ、あちらのお店で冷たいものでも奢らせていただけませんか?」
流暢な日本語だった。助かった……。
あの女は片足を後ろに下げ、もう片足を少し屈めて言う。
「ありがとう存じます。ご馳走になりますわ」
あ……! これカーテシーって奴だ! 眼に涙を浮かべて男性への敬意を現したあの女の笑顔は、とても美しかった。
その男性とあの女は連れ立って喫茶店に入り、一番奥の席に座った。
「ご注文は?」
ご主人が二人に注文を聞くと、二人はアイスコーヒーを頼んだ。ご主人は二人にアイスコーヒーを持って行ったあと、カウンターに入ってコーヒーを淹れたりサンドイッチを作ったりしながら二人の様子を見守っている様だった。私と杏子ちゃんはご主人と同じようにお店の仕事をこなしながら、ご主人と二人を交互に見守っていた。
二人は向かい合って座り、長いこと何かを話しているようだった。あの女はもう泣いていなかった。静かできれいな笑顔を浮かべながら、男性の話していることに頷きながら聞いているようだった。
二人が店を出るとき、ご主人が見送った。私もこっそり便乗してそばにいる。ごめん杏子ちゃん! ちょっとの間お店をお願い……。
ご主人が尋ねる。
「あの……お二人は……」
男性がはにかんだような笑顔を浮かべて言う。
「この方は私の祖父の想い人だった方です。……私は軍人ではないのですが、祖父に借りた軍服を着て、この方に会いに来ました」
ご主人はためらいながら訪ねる。
「お爺様は……?」
男性は俯いて答える。
「……もう永くないのです。それでどうしても昔の想い人だったこの方のことが知りたいと私に願ったのです。私は祖父が当時駐留していた場所のことを調べ始めて、すぐにこの方のことを知ることができました。この方はこの港では有名でしたから……」
「私はこの方と一緒に、あの人の祖国へ参ります」
あの女が初めて自分からご主人に話しかけた。
「あなたは私に随分ご親切にしてくださいましたから、お話ししますね。私の好きだったあの人は、私と別れた後に祖国へ帰ってご結婚されたそうです。でも奥様に先立たれて、今は小麦畑を営んでいらっしゃるご自宅で療養されているそうです。私はあの人にまたお会いして、一言お礼を申し上げたいのです」
「お礼を……?」
ご主人はあの女の言っていることがわからなくて尋ねる。
「はい。私の人生を豊かにしてくださってありがとうと……」
その時のあの女の笑顔は、痺れるように美しかった。ああ……きっとこれだ、私が足りないと思っていたのは……。
それから数カ月後、私の課題はようやくできあがった。先生からの評判はよかったが、皆私が付けた絵のタイトルに首をひねった。
「……いいね。すごくいいよ。黄金色の小麦畑で佇む男女……。特に女の人の笑顔が素晴らしいな。……でもなんでこの絵のタイトルが『表通りで立つ女へ』なの?」
そして私は、にやっと笑って言うのだ。
「ナイショです」
End.
読んでくださってありがとうございます!
皆様に幸多からんことを!




