有終之美
「あっ! 妖精さん! お茶しませんか?」
図書館職員のローシャに呼び止められ、セツは足を止める。苦笑いをしながら、セツは『はい、喜んで』と返事をした。
この王立図書館は、国内で発行された本が集められる国会図書館のようなものだ。研究施設も併設されており、セツはそのうちの一つに所属している。ただ、名簿に名はない。その研究所の名簿自体がないのだ。貴重・機密な文書を扱う研究所で、その研究所自体も隠されている。と、いっても、すべてが秘密裏に行われているわけではない。表立っては公開されている研究所の所員を装って図書館内の文献を探すこともある。顔見知りの職員もいるのだ。
ローシャは顔見知りになった一般職員だ。遭遇するたびにサロンに誘ってくれる。お互いに休憩の口実にしているのだ。
「ローシャさん、三十過ぎたおじさんに、妖精さんはやめませんか?」
「えぇ~? ユキさん、三十過ぎてるとか嘘ですよ」
「嘘じゃないですよぉ……」
十年出られない部屋に閉じ込められていたため、メンタルの成長があまりない自覚はあるが、ローシャは妖精扱いをしてくるのだ。何から何まで年齢不詳だと。
「今日はいいものがあるんです。先にサロンに行って、お茶だけ用意しておいてください。すぐに行きます!」
「あんまり急ぐと危ないですよ」
走っていく背中に声をかける。
「ユキさんこそ、消えたりしないでくださいねー!」
ローシャいわく、セツは儚く消えそうらしい。少女と例えられ、妖精扱いされ、一般的な三十代男性は何一つ嬉しいことはなかった。
なお、ユキはセツの偽名である。デルウィンから逃げるための。
そっとため息をつき、サロンへ足を向ける。セツが隠れるように生活しているのは、逃げてきたからだ。
セツがこの世界に飛ばされた理由も原因も、何もわからないままだ。何の因果か、この世界に突然飛ばされ、落ちた先は強固な密室の中。一度死にかけたことはあるが、時限式の密室が密室でなくなるまでの10年、どうにか生きてこられた。開放されて、めでたしめでたしと締めるわけにもいかず、それからの生活のために就職先を斡旋してもらい、逃げた。
もし、これがなにかの物語であるならば、王子様の寵愛を受けて幸せに暮らしましたとさ、となっていたであろう。セツにはそれを享受する度量はなかった。ただ、矮小な臆病者でしかなかったのだ。
王子、あるいは王になる者は、五歳の段階ですでに基盤が作られるものらしい。そこから成長も目の当たりにした。生きるステージが違うのだと突きつけられるばかりだった。指先まで洗練された身のこなし、ほんの少しもスキのない気高さ。
己が矮小で臆病などと卑屈な言葉で片付けられるほど単純なものではない。ただ庇護下におかれ、しなくていい心労ばかりかけさせ、自分がいないほうがいいと思うには十分だった。
情はある。怖くて名前もつけず、分類もできない“情”が。離れがたいとその情は訴えるが、同時に離れるべきだとも訴えかけてきた。ただの庶民に、“王子様”は荷が重すぎたのだ。
今、セツが所属している研究所の研究は、国のためにもなっている。庶民らしく、この国の片隅で貢献するくらいがちょうどいいのだ。
職員用の食堂は、昼食後も開放されている。セルフサービスだが、お茶は好きなように飲んでいい。ポットに茶葉を淹れ、湯の出るサーバから湯を注ぐ。この世界には、セツの知る茶樹にあたるものがなく、お茶といえば乾燥させたハーブを煎じたものだ。お湯の出るサーバも、魔法によって湯を沸かしているらしい。魔法の存在にも、もうすっかり慣れた。
適当な席につき、茶を蒸らしながらローシャを待つ。ローシャは一般公開されている書架で働いている。年はデルウィンと同じだと言っていた。本が好きで、この職場は楽園だ、とのことだ。小説をよく読んでおり、“妖精”という語彙も物語を読むゆえ出てきた言葉なのだろう。
頃合いかとポットからカップに茶を注いでいると、『お待たせしました』とローシャが駆けてきた。
「おいしそうって思って買ってきちゃったんですよ」
両手ほどの大きな缶がテーブルに置かれる。開けると、クッキーがパズルのように詰まっていた。
「ユキさんも読みましたか? “王子様と休日を”。私のよく知ってるお店も載ってて、すごくうれしかったんですよ」
取り出したのは、一冊の本。王子様──デルウィンが学生のころに街なかで遊んだ際に立ち寄った店や、公務で訪れた土地の思い出をまとめたものである。ガイドブックのように活用され、人気に火がついた店も少なくないらしい。
「聞いてはいるんですが、まだ読んだことがないですね。ちょっと見せてもらっていいですか?」
「はい、どうぞ。気になるお店があったら一緒に行きませんか? その本、沢山の人に読んでもらいたいからあえて安価な作りにしているそうです。王子が自ら検品してるなんて噂もあるんですよ。とてつもない情熱を感じますね」
ローシャの本にはすでに付箋が何枚も貼られていた。
“いつか、大切な人と巡ってみたいと書き留めていた記録です。”
冒頭の言葉に、少し胸が痛む。その大切な人が、セツであっても、そうでなくても。
ふと、ひらりと何かが落ちたような気がした。
「あれ?」
膝の上、足元を見る。それらしいものは落ちていない。
「ごめんなさい、挟んでいた何かと落としてしまったかもしれないです」
「落ちるならその目印くらいですよ。まだ全力で読み込んでないから、一箇所くらいはがれてもまた貼ります、たぶん。気になるところ、ありますか? どこに行きましょうか?」
「僕なんかを誘わず、仲のいい友人でも誘ってください」
「えー? 私、ユキさんと仲良しのつもりなんですけど。じゃあ、ユキさんの蒸しパン食べたいです」
「ふふっ、機会があれば」
セツは本を返した。
デルウィンの“完全なる私室”から出て一年ほどたつ。かつてのセツは、貧乏学生らしく、詰め込み気味のアルバイトはしていたが、職を得て働いたことはなかった。社会人として働くことはこのようなものかと思いながら、日々を過ごしている。
図書館の隠し通路、とはいかないが、限られたものしか入れない地下の部屋で黙々と翻訳を行う。食事や休憩で外に出て、時々顔見知りになった職員(よく会うのはローシャだ)と話をする。夕食を食べて帰宅して、家事や読書をして眠る。休日にはでかけることもある。あまり起伏のない日々だ。
セツの翻訳技能は、異世界転移の際に付与されたもので、意識せず使うことができる。どうしても直訳したような翻訳になってしまうため、その国の、その時代の文化を調べるようになったのだが、セツの中の翻訳技能がアップデートされていくようで、仕事に翻訳の精度が上がるのだ。
その日も、古代と言われる時代の資料を求めて一般書架をふらついていた。途中でローシャと会い、どの書架を探せばいいのか教えてもらった。
「約束通り、蒸しパンを持ってきましたよ。だいたいいつもの時間に、サロンで」
「やったあ!」
貧乏学生のころ、どうしても甘いものが食べたいと思った時におやつを作ることがあった。自炊もしていたので、最低限の料理はできていると思っている。混ぜるもので食事にもなった蒸しパンはよく作っていたので、城にいたころも作っていた。今も時々作っておやつにしている。ローシャに食べてみたいと言われて、分けた。気に入られて、時々作ってきて一緒に食べるようになっていたのだ。
「あ、でも今日は王子様が視察にくるとかで、サロンが使えない時間があるようなお知らせがありましたよ。どの時間帯かな?」
「王子様の視察?」
「お知らせ見てませんか? この時期だったかな? 年に一度くらいの頻度で王族の方が見に来るんですよ。今回はデルウィン様がいらっしゃるようですよ」
「そうなんですか。いつもの時間にサロンに行ってダメだったら、別のところで食べましょう」
「えぇ、そうですね。では、また後ほど」
「はい! ふふ~、妖精さんの蒸しパン~」
ローシャは軽やかなステップで仕事に戻っていった。
デルウィンが図書館にやってくるのが偶然だとして、会いたくはない。本心を言えば会いたい。しかし、逃げてしまった臆病者には、合わせる顔がないのだ。
サロンが使えない時間帯は、おそらくデルウィンが使用するからだろう。ますます近づきたくないのだが、少し欲が出た。ローシャとの約束がちょうどいい言い訳になってしまったのだ。
名前もつけず、分類もせずにいる、デルウィンに対する“情”は間違いなく──。
うつむくと目の前を遮る前髪がゆらゆら揺れた。
前髪は時々自分で切っていたが(目元のあざを隠すため長いけれど)、それ以外は伸ばしっぱなしだ。城を出る際に、セバスに頼んで切ってもらったが、この国の(あるいはこの世界の)住人と髪質がちがうようで、切りにくいと言われてしまったのだ。そのため、散髪はためらっていたのだが、そろそろ考えねばなるまい。何故か王妃がスキンケアセットとヘアケアセットを定期的に送ってくれるので、荒れてはいないのだが。
今日が何事もなく終わってくれるといいのだが。セツは何度目かのため息をついた。
いつもの時間にサロンに行くと、ちょっとした人だかりができていた。
「妖精さん、やっぱりこの時間帯だったみたいです」
「そうみたいですね」
中に入らないようにと、入口に人が立っていた。
「じゃあ、中庭にでも行きましょうか。今日は天気もいいですから、外も気持ちいいでしょう」
「そうですね。ユキさんは先に行っててください。私、ちょっと王子様見たいので。ユキさんも見ていきますか?」
「いえ、僕は遠慮しておきます」
どうやらまだサロンにはきていないらしい。
次代の王として期待されているデルウィンは、成人して本格的に公務に関わるようになった。まだ一年経っていないというのに、目覚ましい成果を上げていると聞いている。もちろん、都合のいいニュースばかり流すという情報操作が行われている可能性もあるが。いくらかデルウィンを知る者としては、本当だろうと思っていた。国内外の情勢や災害など、外部要因で国の平穏を揺るがすものはあれど、デルウィンの失策で国が揺らぐことは起こるまい。
「先に行ってますね」
軽く手を振って離れる。ローシャも手を振り返してくれたので、向かう方へ気が向いていなかった。
「わ、」
角を曲がってきた女性と危うくぶつかりそうになるのを避ける。
「すみません」
「大丈夫ですよ」
受付や広報を担っている女性職員だ。横に避けようとして、別の方向からぐいと強く引っ張られた。
「へびゃ」
正面から壁のようなものに押し付けられ、肺から空気が逃げた。
「セツ、やっと……」
聞き覚えのある声が耳に流し込まれた。
デルウィンがまだサロンにきていないということは、これからくるということなのである。
引き寄せられた力が少し弱まった。つぶれた肺に空気を送り込む。顔を上げる。覗き込まれた目は、深くまで澄んだ湖のような青。白磁の肌、白銀の髪。絵画の中から出てきたような美貌には、懐かしい少年の面影がまだ残ってた。一年前よりいっそう大人びてはいるが。
「セツ……」
「ひっ!」
緩んだ腕から、自分でも驚くほどの身のこなしで抜け出る。
「人違いです!」
セツは踵を返し、無駄なあがきとわかりつつ脇目を振らず走り出した。
人は避けてくれた。
「妖精さん! 王子様、なんで!?」
ローシャが並走していた。
「いろいろあったんです!」
他に言いようがなかった。
「私と! 逃げましょうか!?」
「それはごめんなさい!」
「なんでぇ!?」
なお、普通に無駄な悪あがきだった。
セツと、並走したローシャはサロンに連行された。蒸しパンはデルウィンの抱擁でつぶれてしまったが、ローシャは食欲たくましく潰れた蒸しパンを食べてくれた。『ふわふわもちもちのふわがない』と言いつつ。
「久しぶりだな、セツ。セツは、いつまでも変わらない」
「お久しぶりです。デルウィン様はますます麗しくなられましたね」
何を言っても白々しく思えて目をそらす。
「……そうか。セツは、もう市井で恋人を作ってしまったのだな」
「え? いませんよ。何故そう思ったのですか?」
「セツは“妖精”なのだろう?」
「はい……? 三十過ぎたおじさんにそれはないですよね。っていう話ではないですね。……あ、もしかして恋人の呼び方とかですか?」
ローシャを見やる。すっと目をそらされた。
「ユキさん、知らなかったみたいなので、周りへの牽制に……はい、わざとです……」
セツの感覚で言うところの、“マイハニー”とか“マイスイート”とかに該当する言葉らしい。
「セツにその気はあるのか?」
「ローシャさんにですか? まさか、親子ほども離れた年下の子ですよ。元気で一生懸命で、よく食べてかわいいな、とは思っていますけど」
「私は本気なんですけど! ユキさん、三十過ぎてるとか嘘ですよね!?」
「言いたいことはわかる」
「なんでわかるんですか、デルウィン様」
「セツは十年前から変わらず、まだ少女のような清らかさと瑞々しさを保ったままだ。その点は妖精と言いたくなる気持ちもわかる」
「わからないでください。どれも三十こえたおじさんに言う言葉じゃないです。こっちの世界ではもう人生折り返してるくらいなんですよね?」
「僭越ながら、私もセツ殿はこの十年変わっていないバケ……妖精かと思います」
「セバスさんまで何言ってるんですか」
そもそも、この世界においてはセツが異分子なのだ。彼らの価値観ではそうなのだと言うならば、飲み込まねばなるまい。
「セツ」
「ひゃ、はい?」
「親子ほども年の離れた彼女にそんな気にはならないと言っていたが、私もそうなのか?」
包み込むように手を握られた。デルウィンの手は少し冷たい。セツは温めるように手をなでる。
「そうですよ。当たり前じゃないですか」
と、言ってみるものの、口先だけだ。一瞬で顔に血がのぼった。鏡を見なくてもわかるくらい頬が熱い。顔から火が出そうとは、このことだ。
「私のときと反応違いすぎません? 王子と私、同い年なのに」
案の定、指摘された。
「デルウィン様とは、複雑な事情があるんです。十年も一緒に過ごせば、情の一つや二つ湧きます。僕はただ、デルウィン様には健やかに幸福であってほしいと思っているだけです。そこにしなくていい心労を掛けさせてしまった僕の存在は、不要です」
“完全なる私室”での生活は、何不自由なくと言うには不便ではあったが、楽しくはあった。
不安はあった。前例も経験もなかったために。それでも悲観的にならなかったのは、デルウィンが手を尽くしてくれたからだ。ただ、その点だけが引っかかっていた。いらぬ心労をかけてしまった、と。
教科書の中でしか知らない王政は、今もまだセツにはピンとこない。それでも、デルウィンは凛とした王子そのものだった。継ぐのであれば、王らしい王になるだろうことは、想像に難くない。その“王様”の絵に、自分は不要だと、セツは思ったのだ。デルウィンに愛していると告げられた時に、強く。
怖くなった。デルウィンが愛すべきは己ではないとわかっていても、その一途で強い想いが震えるほど嬉しかったことが。ただ、その手を取ることは駆け落ちを承諾するようなものだ。臆病者は、“逃げる”という選択しか取れなかった。
「僕は、貴方にはふさわしくない。あまりにも、不釣り合いです」
「普通に王子様は荷が重いですよね」
ローシャがポツリもらす。端的に言えばそういうことなのだが、もっとマイルドに言ってほしかった。
「セバス、王子はどうやったら辞められる?」
「……出家ですかね」
「やめてくださいやめてください、未来の稀代の王様」
セツにとって君主制は教科書の中の話だ。身分制度なども当たり前のようにこの国にはあるが、市井で過ごした一年、こぼれてしまう者はいるものの、基本的に平和だ。まだ平時しか知らないから言えることなのかもしれないが、民主制になったとして、今ある問題が解決するわけでもない。現在の王をはじめ、政治を担うものが優秀であれば、国は滞りなく運用される。王に必要な素質というものが何か、セツは知らないが、次代の王を期待されているデルウィンは容姿端麗頭脳明晰でセツの耳にも良き王になるだろうと聞こえてくる。
「そんな一時の気の迷いで未来の国政まで捨てようとしないでください」
完全に外部との接触が断たれたわけではないが、十年間密室に閉じ込められ、やっと市民となったひよっこだ。この国の平均寿命ではすでに人生を折り返している程度におじさんになってしまったセツには、良き未来を投げ出させるほどのものはなにもない。
「一時の気の迷いだったとして、十年続けばもう一時ではない。十年続けば、気の迷いでもないだろう。セツは私がそんなに浅はかだと思っているのか?」
「思ってないです。五歳のときからとても聡明で思慮深い方だと思っています」
「私は本気だ。なんの他意もない。本気だと言ったら本気なんだ。不満も不服も不安も後で聞く。すべてを解決する。私は、セツの気持ちが聞きたいんだ」
捕らえられる。真っ直ぐな青い瞳に。もうそれだけで、言い訳は封印されてしまった。
「──そんなの決まってるじゃないですか。貴方に幸せであってほしいのは、貴方を愛しく思っているからです。誰よりも、何よりも」
声を絞り出す。
「あぁ……それが、聞きたかった」
デルウィンのほほえみは、くらくらするくらい美しかった。
「親子ほども年が離れているんですけど」
「些細なことだ」
「王族っていうからには世襲制なんじゃないですか? 世継ぎ作れませんよ」
「先日、姉が妊娠した。妹の婿探しも本格的になる。父上と母上も、また子をもうけたいと言っていた」
「お、お元気そうで何よりです。あの、木端な僕としては、本当に荷が勝ちすぎて……」
「ユキくん!」
「ひゃい!?」
突然の呼びかけに、声がひっくり返る。
ずかずか鬼の形相で歩み寄ってきたのは、セツの今の上司にあたるショーンである。休憩時間を過ぎてしまったのか、冷や汗が吹き出る。
「王子に口説かれていると聞いて飛んできた、どういうことだ?」
「えーっと、何故か大体あってます」
くわっと目を見開く鬼の形相はデルウィンに向いた。
「殿下、無礼を失礼します。ユキは我が研究所の要です。先日も、長年解読されていなかった文書が読み解かれたと聞いているでしょう。ユキの貢献あってこそです。そう簡単に連れて行かせるわけにはいきません!」
ショーンは遮るようにセツとデルウィンの間に立った。
「セツ、木端ではないではないか」
「いやぁ、この能力がすごいことはわかってるんですけど、自力でない気がして」
「ユキくん、自分を過小評価するのはよくないと言っているだろう。能力を活かすことができなくなる。私は君を息子と思ってこの一年育ててきた。それを悪くいうものは私が許さないぞ!」
「息子って、十も離れてないのに、言い過ぎでしょう」
「本当のことを言えない事情があると聞いている。今まで言ってこなかったが、三十を超えているのは嘘だろう流石に」
「あっ、それを聞くの今日二回目ですね。そこは嘘じゃないです」
乾いた笑いしか出てこなかった。
「私もこれを言うのは二回目ですが、彼、十年前と髪の長さ程度しか変わっていません……んふっ……」
セバスがこらえきれず、笑いを漏らしていた。
「おとうさん、私が息子さんを幸せにします! 私の幸せには息子さんが必要なんです! 息子さんの幸せが、私の幸せであるために! 研究にセツが必要なことも理解しています。城にも貴重な資料や書物がある。城にも分室を作ればいい。認めてもらえないだろうか?」
「研究を続けてくれるなら問題ないです」
「この世界でもそういう茶番劇あるんですね」
「おとうさんから許可はもらった。木端でないという証言も得た。私の幸せにはセツが必要だ。セツが私の幸せを願うと言うならば、自ずと答えは決まってくる」
「人の感情は、そう論理で組み立てられるものではないですよ。でも、観念しました。僕の、この広義の“愛情”が、デルウィン様の望むものであればいいのですが」
「些末なことだ。愛している、セツ。私の安寧、私の妖精」
「へびゃ!」
“妖精”の意味を知ったばかりのセツは押しつぶされたような悲鳴を上げた。
ひっそりこっそりいきていく予定だったセツは、(人の制限はされていたが)公衆の面前で王子から愛の告白をされて注目されないはずがない。安全を考慮して、セツは城に連れてこられてしまった。一年ほど前に出奔した場所である。とりあえず連れてこらえたのはティールームだった。茶を出され、すぐに戻るといいおいてデルウィンはいってしまった。忙しいのだろう。落ち着かないが、仕方なく心地よいソファに身を沈めた。
ティールームで待っている間に、王妃とも少し話をした。『セツが息子になるのね』と言われて血の気が引いた。デルウィンがセツを娶る(娶った)気でいることを明確に言葉にしたのだから。王妃はとくに困った様子もなく当たり前のように受け入れていた。この世界ではよくあることなのだろうか。王とあまり年の変わらないセツは、つまり王妃ともあまり年は変わらない。しかし、誰が反対しているわけでもなく、受け入れられている空気を感じる。この世界ではそういうものなのだろうか? 生まれて二十年ほど培われてきた価値観は、十年そこそこではなかなか覆らないらしい。
世話をしにきたセバスにも聞いてみたが、『珍しいことですけど、なくはないですね』とのことだった。不文律だからこそ、気にしているのはセツばかりのように思えてくる。己の感覚が信じられないのだ。
この国ではすでに成人しているデルウィンだ。公務で忙しくしていたことは、城を離れてからもよく聞こえていた。デルウィンはもうすっかり大人なのだ。周りの反応から考えるに、大の大人が言っても支障のないことだったのだろう。思いつつも、だがしかしと、うんうん唸ってしまう。まだ、この世界での価値かんや常識に追いついていないために。
(十年、何やってきたんだろ……)
「セツ、待たせたな」
「ひゃい!」
己の成長のなさを反省しているうちにずいぶん時間がたっていたらしい。寝支度までしてそのまま考え込んでおり、湯上がりの温かさはすっかり消えていた。
元“完全なる私室”は、結界はなく、デルウィン個人の部屋として使われているらしい。調度品の入れ替えは一部あるものの、慣れた部屋だろうと、そこに案内されたのだ。
デルウィンも今日を終えられるようにか、人前には出ないゆったりとした部屋着を着ていた。
「お忙しいようでしたら、ひゃわ!」
ソファに座っていたセツは、軽々とデルウィンに抱えられていた。そのままストンとデルウィンがソファに座り、セツは膝の上へ。ペットのような扱いだと思った。デルウィンはただセツを抱きしめる。セツの存在を堪能するように。逃げた身としては、セツは拒むことができなかった。
「ずっと、悔やんでいた。ずっと、いつもここにいてくれたから、いつでもその気になればいいと思っていた。やっと、抱きしめられる。セツは、温かいな……」
入浴分の温かさはもうないが、セツは体温が高い。特に末端が冷えることは少なく、寒空の下の素手でも何度か手を握ればすぐに指先まで血が通った。という自覚はあるものの、温かさの理由はそれだけではないだろう。
デルウィンはセツのことを“安寧”と言った。いつでもそこにいた温もりは、安寧になりうるだろう。デルウィンの求めるものが安寧の温もりならば、それを受け入れていいと思えた。
セツが初めてあったデルウィンは当時五歳だった。セツの知る五歳児の幼さはなく、すでに王に連なるものとして尊厳を持って自立した精神を持っていた。高貴な人物だった。子ども扱いも失礼かと、子どもと思わずに接していたつもりだ。幼い子に接するように甘やかしたことがないわけではないが、十年のうちで数えられるほどしかない。もっと、甘やかしてもよかったのかもしれない。思いつつ、セツはデルウィンに腕をまわした。
「もしかして、ずっと我慢してきましたか? デルウィン様はその立場にふさわしく厳格です。出会ったときから、一秒のスキもなく。そんな貴方の安寧になれるのであれば、僕はいくらでも抱きしめますよ」
「セツ……」
「デルウィン様は我慢のしすぎでわがまま行使ポイントを溜め込みすぎています。僕にできることは多くないですけど、僕にできることであればいくらでもポイントを使ってください」
より強く抱きしめられた。セツもよしよしとデルウィンの銀糸をなでる。
「では、わがままを聞いてほしい」
「はい、僕にできることであればいくらでも。我慢しなければいけないことはありますけど、我慢しすぎるのはよくないですよね……っ、と」
デルウィンはセツを腕に抱えたまま、難なく立ち上がった。そのまま安定した足取りでセツを運んでいく。
ベッドに降ろされ、覆われるようにのしかかられた。そこでやっとセツの脳裏に“初夜”の文字がよぎった。
「それは想定していな──」
残念ながら、抗議は伝わることなくデルウィンの口内に消えていった。
かたや十年強制的に引きこもり、開放されて後も研究所に引きこもるような生活をしていたセツ(三十代)。かたや日々訓練を欠かさないデルウィン(十代)。結果は語るまでもないだろう。
いわく、
「今までで一番死ぬかと思った」
とか。
翌日、セツは普通に寝込んだ。
******
「一つ、気になってるんですけど。あの日図書館にいらっしゃったのは偶然なんですか? 一年に一度くらい視察があるということは聞いていたんですけど、タイミングがよすぎると思ったんです」
尋ねてみると、デルウィンは何か得意げな笑みを浮かべていた。
「偶然では、運命だというのも悪くないが、理由あってのことだ。セツはここを出ていく時、髪を残していっただろう?」
「えぇ。セバスさんに処分を頼みました」
呪毒をいざという時、髪に逃がして切除できるように伸ばしていたが、“完全なる私室”を出る際に決別として切り落としていったのだ。残していったというより、捨てていったという方が正しい。
「その髪から、セツを識別できる魔力の型を抽出した。それに反応する魔法を仕込んだ本を市中にまわしたのだ」
「本……あぁ、ガイドブックのことですか。たしかに、数日前に見せてもらいましたね」
「すがるような気持ちだった。発行してからその日まで反応はなく、読んでくれなかったのかとずっと思っていた。反応はあくまで場所しかわからない。偶然そこにいただけかもしれない。そんな気持ちで図書館の視察を申し出た。セツを見つけた時、今までにないほど神に感謝したとも」
「へぇ、そんなめんどくさ……てっきり王妃様経由でバレたのかと思いましたけど、秘密はちゃんと守ってくださっていたんですね」
「……なぜ、母上のことが出てくる?」
「ただの一市民になってからも、ヘアケア用品とスキンケア用品を送ってくださっていたんです。先日、王妃様とお話しましたけど、ちょっと突かれたらバラしたかもしれないなんておっしゃっていましたけどね」
確認した際、秘密は守ったが、そもそも探り自体がなかったと言っていた。本当に独自の方法でセツにたどり着いたらしい。
「母上が知っていた……?」
「えぇ。研究所のことは、王様が紹介してくださいました。僕もカピカピになるのは嫌なので、教えてもいいかと確認された際には了承しました。おかげで今のところ乾燥には負けていません。……もしかして、年相応に見られていないのって、それもあるんでしょうか?」
視線をデルウィンに戻すと、デルウィンは塩をかけたようにしょんぼりしていた。
「私の苦労は……」
「えっ、そんなに大変なことでしたか? まあ、そうですよね。本を作って、魔法をしこんで、市中に流通させるって。本、大ヒットだそうですね。おめでとうございます……なのかな?」
「あぁ、ありがとう」
“おめでとう”で正解だったらしい。
「甘いもの食べますか? あぁ、デルウィン様の召し上がるものは対呪毒室を通さないとダメですね」
「自分で食べる物のチェックくらいできる」
「わかりました。僕のおやつの蒸しパン、一緒に食べましょう」
「ムシパンとは何だ?」
「発酵ではなく、ふくらし粉でふわふわにするパンです。蒸して作ります」
素朴なその蒸しパンは、デルウィンの機嫌を一時的によくするには十分であった。
それからデルウィンのスケジュールの中に“おやつ”なる時間が組み込まれるようになった。ティータイムといえばそれと変わらないのだが、デルウィンがセツのいう“おやつ”という響きを気に入ったらしい。
適当に混ぜて焼いたり蒸したりするくらいしかできないと言いつつ、セツはせっせと“おやつ”を作り続けた。
デルウィンに口に入るということで、対呪毒室のチェックが入るのだが、“おやつ”の時間にまざることになるため、室長であるサウェリンか、何も気にしないロバーツくらいしかチェックしたがらない。
「セツ殿、一度くらい呪毒しこんでくれてもいいんですよ?」
「しませんよ!」
元“完全なる私室”は、セツの部屋にもなった。デルウィンとセツの婚姻は公表され、つまり二人は新婚であった。そのため、“おやつ”のことも含めて、甘い部屋だと囁かれているらしい。
「これがホントのスイートルーム! 綴り違うけど!」
そのつぶやきの意味がわかるのは、この異世界において唯一セツだけであった。
ここからまだ二人の話は続くのだが、いったんおとぎ話のように、二人は幸せに暮らしましたとさ、と締めくくることにしよう──。