9
静かに座っていると、かすかに祭囃子が聞こえてくる。
聞こえるほどには近く、霞むくらいには遠く。
夏の大三角を探して諦めた僕は、適当な星を三つ繋いでよしとする。視線を外してから戻してみると、もうどれだか分からなくなっていた。
雨宮は僕の隣に腰を下ろして、空になったラムネをゆらゆらと揺らしていた。中のビー玉が転がる音に耳を傾けているようだった。
まだ季節にはあっていないように思える長袖のパーカーの腕をまくって、膝までのズボンにサンダル。洒落っ気の「し」の字もなかったけれど、それがかえってプライベートを覗き見してしまっているようで、なんだか僕は雨宮の方を見ることができなかった。
「お祭り」と独り言のように雨宮が零した。「来てたの?」
雨宮が僕に聞いた。黙っていることに飽きたから、といった風情で。
沈黙は僕らにとってあまり苦しいものではなかった。いや、少なくとも僕にとっては。そして多分、雨宮にとっても。
「うん」
僕の返事は宵闇に落ちる。「雨宮さんは?」
「私はたまたま」
遠い声だった。「たまたま」という四文字に込められた様々な事柄が、雨宮滴にとっては重たいのだろう。僕は言葉の表面をまぬけなペンギンのように滑っていくだけだ。「散歩してたら、お祭りやってて」と雨宮は言った。この場所は、多分、散歩するには遠すぎる。
「ラムネ買って、ここまで来て――」
雨宮が僕の方をちらっと窺った。閉じ込めておけなかった寂しさが、涙の代わりに瞳を濡らしているようだった。「――君に会った」
運命という言葉が、今日のこの邂逅に何かの意味を付け足すだろうか、と僕は考えた。いいや、と僕は答えた。もし、この出会いに意味が生まれるとしても、それはこれが記憶になった後の話だ。――何かあったの? そう問いかけるための勇気を探している。
街灯に羽虫が群れていた。蛍でも飛び交っていればまだ雰囲気もあったろうが、生憎飛び騒いでいるのは蛾の類だけだった。加えて耳元で蚊が唸っている。けれど、腕に留まった一匹を、僕は潰したりしなかった。記憶以外にこの想い出を留めて置ける何かがあるのなら、それが虫刺されのようなくだらない何かでも構わなかった。
「ねえ、ラムネ、好き?」
「ん」突然の問いかけに少し詰まる。「まあ、結構」
「あー」
それほど残念な風にも感じさせない気の抜けた声で、雨宮は残念がった。
「居森くんとここで会うって知ってたら、飲まなかったのに」
「炭酸、嫌いなんだ」と笑う。ビー玉がコロンと歌った。
「炭酸苦手なのに、ラムネ買ったの?」
「うん」
「どうして?」
「……ビー玉が好きだから」
雨宮はラムネの蓋を回して取っ払うと、漏れ防止のゴムを外した。そして指先で掴んだ瓶を傾ける。閉じ込められていたガラス玉が、雨宮の白い手の中に零れ落ちてくる。
一緒に滴ったラムネを、君はぺろりと舐めた。
雨宮は立ち上がって二歩三歩と歩くと、人差し指と親指で摘まんだガラス玉を掲げる。
「ビー玉を透かして見るとさ、景色が逆さに見えるんだよ」
知ってた? と雨宮は振り向く。
「ねえ、居森くんはどっちを信じたい?」
「え?」
「右眼の世界か左眼の世界」
雨宮は、右の眼にビー玉を重ねてみせた。雨宮の見ている逆さの僕も、そうでない僕も、間抜けさ加減でいえばどっこいだろう。
「どっちって。……それは見え方の問題であって結局は同じ世界だろう?」
「ガラス玉の中でなら、私たち空を飛べるかも」
だって空の中に立ってるんだから。
真顔でそう言って、それから、君は、ぷっと吹き出す。
「ごめん。気にしないで。変だよね、私」
「いや――」
「自分でもわかってるんだ。いつも、そんなくだらないことばっかり思いつくから」
雨宮滴はいつになく饒舌な様子だった。僕は少し不安になる。雨宮は展望で何をしていたんだろう。
「意味もない、価値もない、実用性も、合理性も、必要性もない」そんな言葉を放つ間も、雨宮は笑顔だった。「そんなこと、言われなくてもわかってるのにね」
「でもさ、」
雨宮は付け足した。ビー玉を両手に弄んで。まるでこころの中ではもう何回も繰り返している「ごめんなさい」が、どうしても出てこない幼児のようだった。
意味を失くしたまま、価値を持たないまま、それでも、どうしようもなく生きている。そのことに対してこみあげる「ごめんなさい」。罪悪感。でもそれは、裏をかえせば許されたいという祈りでもあって。
雨宮は、罪悪感を手放せないままそれでも言葉を続ける。逆接の形で。――でもさ。
そうするしかないから。誰に「ごめんなさい」と言えばいいのか分からないから。謝る代わりに、逆接をくっつけて、虚勢を張る。
僕にはその気持ちが分かる気がした。分かってあげたいと願っているだけなのかもしれないにしても。――でもさ。
「時々は、本気でそう思ってた。ビー玉の中に踏み出してみたいって」
「……」
「まあ、飛べたとして、最後は地面でぺちゃんこだろうけど」
「……そのまま飛んでいけるんじゃないの? ビー玉の中でなら」
「駄目」
「どうして?」
「それが雨の降る理由だから」
空の中に立っていられるのは、ガラス玉の外側から覗いている間だけ。踏み出してしまえば、ビー玉の世界に飛び込んでしまえば、後は落ちるしかない。雨はいつも、自らの重みに耐えかねて、地面に落ちてくるものだ。
結局、雨宮が空を飛べるのは、それを夢見ている間だけ。
雨宮がビー玉を高く放り投げた。夜空に紛れたガラス玉は、星になれずに落ちてきた。雨宮は、それをキャッチしようとして失敗した。地面で何度か弾んだそれは、ころころと転がってどこかに消えた。
雨宮はそれを追わなかった。しばらく夜の底を眺めた後、ベンチに戻ってきた。
「そういえば」
君は言った。
「歌、歌ってたよね。さっき。なんて歌?」
「あー、えっと」
僕は答えに詰まった。まさかそこに話の矛先が向くとは、露とも思っていなかったから。僕は困って、ちらりと雨宮を見る。目が合った。穏やかな目だった。少なくとも、もう空を見つめてはいなかった。
「適当に歌ってただけなんだ」
「へー、作曲ってこと? ギターとか、ピアノとか、やってるの?」
「ん。ギターを始めたばっかり。だから作曲なんてもんじゃないよ。適当に思いついたメロディを口に出しただけ」
「すごいじゃん。聞かせてよ。――『いつか』さ」
「……下手くそだから」
僕は雨宮から「いつか」と言う言葉を聞いて、自分でも驚くほど安らかな心地になった。それと同時に、「いつか」という言葉の不明瞭さに、少し眩暈がするようだった。それが果たされるべき約束としての「いつか」なのか、それとも機会を半永久的に保留するための言い訳に過ぎなかったのか、雨宮の涼やかな横顔から窺い知ることは叶わなかった。
雨宮滴は微笑んだ。上手い言い訳を思いついた子どもみたいに。
「上手な歌が聞きたいならさ、今時、動画でも何でも見ればいいんだから」
雨宮は黒髪を耳にかけた。柔らかく滑らかな耳の形がよく見えた。
「その歌に意味があるとすれば、それは誰が誰に歌ったかじゃないの」雨宮は肩を竦めた。「音楽に疎い人間がこんなこと言うと、怒られるのかな」
僕が雨宮に歌ったら、そこにどんな意味が生まれるんだろう。
聞いてみようか、と思った。でもやめた。左手の指先が熱くなった。
代わりに、「蝉の歌には意味があるのかな?」と僕は聞いた。
雨宮は少し驚いたみたいだった。
それからちょっと考えた。
「どうだろ」と微かに笑う。