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蝉の雨  作者: 深空 一縷
8/11

 


 列車ががたんごとんと揺れている。

 まばらな乗客の中に、浴衣の姿をちらりほらりと見かけるのは今日が夏祭りだから。自分の服装を見下ろしてみて少し後悔する。僕はいつも通りの普段着だった。


 駅について列車が徐行する。扉が開く。

 僕は車窓が切り取っていた薄紫色の空の下に、ちんまりした駅の中に、下りた。


「あ、居森くん」


 駅の出入り口で、佐山が待っていた。

 白地の浴衣には青い紫陽花が散り、葉っぱをモチーフにした髪留めで左耳の後ろにさらりと髪を流している。露わになった頬の稜線が、軒先にぶら下がった行燈の灯りに(あか)く映えていた。思わずドキッとする。

 いつものからりとした溌剌さは鳴りを潜めて、雨上がりの木立から射し込む光のように、無造作に作られた笑顔からほのかに立ち昇る色香があった。


「ね、どう?」


 両腕を軽く持ち上げて袖を垂らすと、僕の前でくるりと回って見せる。

 褒めるにしてもそのタイミングを掴めないでいた僕は、佐山のその振舞いに助けられた心地がして思わず微笑んだ。


「すごく、綺麗だと思う」

「ほんと?」

「うん」

「えー、お世辞っぽいなあ。下手な読書感想文みたい」

「……嘘を吐くのは苦手なんだ」


「そうなの?」と佐山が首を傾げる。僕は頷いた。「ほんと、すぐにバレちゃうんだ。前に一回だけ寝坊で遅刻したことがあったんだけど、『腹痛で』って言ったら何故かそっこーでバレたよ」


「あ、私それ覚えてる。クラス替えしてから割とすぐでしょ」

「あー、そうそう」

「いや、だって、あれはめちゃくちゃ言い淀んでたもん」


 思い出してツボに入ったのか、佐山は笑い出した。


「でも、そっか。嘘吐こうとすると、ああなっちゃうんだ」


 僕は佐山がそんなことを覚えていたのに驚いて、しげしげと彼女の貌を見つめてしまった。佐山はそんな僕を見返して「じゃ、行こっか」と言った。


 そうして向かった寺社の境内はすでに大いに賑わっていて、参道の脇を所狭しと並んだ出店が道行く人々を呼ばわって姦しい。遠く、奥の方に見える階段の上では本殿において神事が執り行われているはずだが、菓子目当ての童子や昼酒を食らって極楽気分の酔漢たちは専らその関心を焼きそばやチョコバナナに向けていて、疎らな人影からその不人気ぶりを察することができた。ただ、漏れ聞こえてくる奏楽が人々のお祭り気分に興を添えているのは確かなことのようだった。


 近所といっても電車に揺られることしばし。誘われなければ絶対に行かないような割に規模の大きなお祭りは、僕の気分を思いのほか高揚させた。


「まあ、いきなりそんなこと言われても困るよね」


 あの日、固まった僕に佐山は言葉を続けた。


「今度、近所の夏祭りに一緒に行ってくれないかな? 返事は、その後でいいから」


 ――(ひぐらし)が宵を呼び、晩夏のじわりと広がる暑さの底から、吹く風の中に秋の気配を感じる。祭囃子の笛の音、太鼓の拍にも、それが鳴り止んだ時の残響を感じてしまうのは、僕のひねくれた性格のせいなんだろう。

 人の群れの中ではぐれないように、僕らは手を繋いだ。

 佐山が差し出した手に、取り残されないよう縋りついたみたいに。


「居森くん、ギター弾くの?」

「ん、どうして?」

「指先、皮が硬くなってるから。従兄弟もやってて、同じになってんだ」


 佐山は焼きそばをもぐもぐしながら、僕に聞いた。さっきまで繋いでいた左手の指先が、つんと痛んだ気がする。


「こないだ始めたばっかりだけどね」

「へえ! 今度聞かせてよ」


 無邪気に僕を見上げる佐山の顔を見返す。「下手くそだから」


「そっかー。残念」


 そう言って笑おうとした佐山は、ぱっと顔を伏せた。


「ん、どうしたの」

「青のりついとるかも知らん」


 耳を赤くして口元を隠した佐山のもう一方の手に握られた焼きそばのパックは、きれいに空になっていた。左手の指先は、今度は確かに痛かった。

 僕がパックを受け取ると、「水あめ食べたい」と言う佐山の要望に合わせて、僕らはもう一度人混みの中を急流の木っ端みたいに流れていった。


「水あめってそんな入口に近いところにあったっけ?」と佐山。


「りんご飴舐めてる小っちゃい子見て『かわいい!』ってはしゃいでたのどちら様だっけ?」

「そうじゃん! 忘れてた」


 そんな風にはしゃいでいた佐山が、不意に僕の服の裾を掴んだのは、人並みの先に「みずあめ」の文字が目にちらりと入る頃合い。


「あー、やっぱ水あめ、いいや」


 佐山の目が泳いだ。


「え、でももう少しで――」

「あっちの焼きとうもろこしの方が気になってきた」

「ぜんぜん趣が違うけど」

「ほらほら、行こ」


 佐山はぐい、と指針を変えようとしたものの、混雑はそんな方向転換を許さない。すると僕らに後ろから声がかかった。


「あれ? 陽菜?」


 振り返ってみると、同じ学校の連中数人が水あめを手に僕らを見つけたところだった。


「どうしたん、居森となんて。珍しい組み合わせだし」


 かなり無遠慮な視線でじろじろと眺められる。向こうは僕のことも知っているようだった。生憎、僕の方は彼らの名前を知らない。顔は見たことがある、と言う程度の認識だ。


「あー、いや、えっと――」


 佐山が笑顔を引きつらせていたので、僕が助け舟を出してやる。


「……たまたま会ったから、話してただけだよ」


「それじゃ、また学校で」と捨て台詞を残しておけば、かなり「らしく」見えたと思う。


「あ」と、佐山が呼吸を食べる音が、耳たぶに触れた気がする。


 我ながらなかなかの役者っぷりだったと回想して、特設のゴミ箱に空のパックを捨てた。できればこみあげてくる感情たちも一緒にパックに詰めて捨ててしまいたかった。まあ、それが叶ったところでやっぱりパックは空に見えたに違いないけれども。


 夕暮れは、もう昼の終わりというよりは夜の始まりへと移っていて、提灯の灯りの下で祭りはますます華やかだった。僕は喧騒の中に一人残されていた。一人ぽっちだった。


 佐山にしてみれば、僕と彼らが出会うことは不都合だったろう。学校という場所で佐山が果たしている役割は、皆を束ねるムードメーカーであり、教員の覚えめでたい優等生であって、そこに僕はいない。必要ない。僕が居るのは彼女にとってはいわば舞台袖。案山子みたいに佐山を出迎える人間、裏世界の住人。それが僕。

 分かってはいた。一流品だけを身に着けていなければならない佐山の舞台上に、僕を連れていけないことくらい。

 分かってはいたものの、なんとなく哀しかった。

 それから腹が立った。

 そして最後に、こんな風に佐山の事情を勘案しながらなおも腹を立てている自分を、彼女を許してやれない己の狭量を、ぶん殴ってやりたい気持ちだった。


 ――帰ろう。


 こんな場所に一人でいると、まるで一人でいることが罪であるかのような心持ちになってくる。羞恥が足を急かして、階段を一段飛ばしで下って行った。なんとなく、駅に足が向かなくて、人通りの少ない脇道に逸れる。そこには祭りの行燈もなく、ただひっそりと名前も知らない場所に続いていくだけの道があった。

 進んでいくと、僕にもだんだんと位置が掴めてきた。このまま行けば、寺の裏手の山に突っ込んでしまう。離れているつもりで、ぐるりと大回りして戻ってきたのだ。引き返そうか迷ったとき、ふと秋の虫が鳴いているのに気が付いた。凛と、強く。


 夏が終わるんだ。

 ――雨宮、夏が終わる。


 そうか。時間は過ぎていく。そして世界も過ぎていく。変わらないでと叫んでも、終わらないでと願っても。だから、案山子みたいにそこに留まっているために、僕だって本当は必死に動いている。進めない僕は、変われない僕は、本当は走っている。取り残されないように、置き去りにされないように、歯を食いしばって走ってる。世界よりも速く走れる誰かには、きっと気付かれないにしても。

 雨宮にも、教えてあげたいと思った。メモに残すには気恥ずかしく、メモに残さなければ明日には忘れてしまう、こんな思いつきを。


 裏山は自然公園として整備されていて、僕の足は山の中腹に開かれた展望に辿りついた。寺のちょうど反対にあたり、見果てる景色にも祭りの気配はない。閑散とした住宅街の頼りない灯りが、夜の中に星を真似て光っている。僕は鼻歌を歌いながら、欄干に腕を預けて頬に風が来ないかな、なんて思っていた。

 展望デッキの中央には、大した景観でもないくせに何をそんなに見晴らしを良くしたいのか甚だ疑問な高台が用意されていて、大袈裟に言ってしまえば塔のように聳えていた。僕が慌てたのは、その高台から人が下りてきたからだった。人に聞かせるには不細工すぎる鼻唄を聞かれたかもしれない。

 それとなく視線を逸らした方から、けれど声がして振り返る。


「居森くん?」


 高台から下りてきたのは、雨宮滴だった。




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