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久しぶりに文化祭の準備に行ったのは、佐山陽菜から「おさぼり厳禁」と連絡が来たからだった。別に僕一人が来なかったところで何も変わらないだろう、と思いながら、わざわざ連絡をもらったにも関わらずそれを無視するような豪胆さに欠けていたので、僕はいそいそと支度を終えて出かけた。
それに、雨宮のことも気になっていたから。
教室にはかなりの人数が作業していて、恐らくは教員に掛け合ったのだろう、冷房が稼働していて涼しかった。段ボール製の大掛かりな城門を組み立てていた佐山が振り返った。
「あ、居森くん」
駆け寄ってきた彼女は少し日に焼けていた。ショートの髪を揺らして僕を見上げた瞳には屋外プールの底から見上げた陽の光があった。女子の使う制汗剤と日焼け止めクリームのあの柔らかくも頑なな香りがして、僕は半歩だけ後ろに下がった。
「ちょうどよかった! 買い出し、行こ」
「え、何で僕な――」
「私と居森くんだけが自転車通学なんだ」
そんなことないだろう、と教室を見回したけれど、なるほど確かに自転車置き場で顔を合わせる面子は見当たらない。何か用事でもあったのだろう。呼び出しを食らったのはそういうわけか、と納得して、仕方なく僕に声をかけたのだろうな、なんて邪推が唇を曲げた。
教室を見回すと、片隅で雨宮滴が作業しているのが見えた。この部屋はまだ、雨宮を閉じ込めておけるのだ。僕はほっと息を吐くと、ポケットに手を突っ込んでまだ収められたばかりの鍵に触れた。
ただ、教室を出る直前、閉じられた窓と投げ交わされる談笑とが蝉の歌をこの空間から追い出していることに気が付いた。
雨宿りみたいだな、と思う。
雨宿りと同じ。皆、晴れ間が来るのを待つように、このうだるような暑さ、空から降り注ぐ酷暑が過ぎ去るのを待っている。夏の内側で、夏じゃない場所に居る。
雨宮も同じように待っているのだろうか。蝉の声の途絶えるいつかに、焦がれているのだろうか。
「で、何を買うの」
「色々!」
それじゃあ答えになってないだろ。佐山のその言葉は無思慮というよりはむしろ幼さからくる無垢を感じさせた。僕が苦笑すると、佐山陽菜は「ついてきて」と言って笑った。
佐山はシルバーの古い自転車に跨っていた。それはあまり彼女に似合っていなかった。
僕を導くように佐山は自転車をこいだ。誰かの背中を追いかけてペダルを漕ぐなんていう経験に乏しい僕は、そのちぐはぐなスピード感というのか、独特の歯痒さというのか、そんなものに戸惑っていた。
坂道で追い抜いたときの佐山の悲鳴のような笑い声。てっぺんで待つためにかけたブレーキの抵抗。後ろを振り向いた時に吹いたぬるい風が、こめかみを伝う汗にやけに染みたこと。
僕一人では空白になるはずだったフィルムの一つ一つに、水彩の景色が描き込まれていくような、そんな感覚だった。
「とうちゃーく」
そうして、佐山陽菜が自転車を止めたのは隣町のスーパーだった。
「なんだってこんなところに」
「まあまあ、いいからいいから」
佐山は勝手知ったる素振りで店内を闊歩していくと、従業員のための扉を開けてさらに進んでいった。
「ちょ!?」
僕は一人狼狽えて、それからあわてて中に飛び込んだ。
「神部さーん、佐山です。頼んでいたやつ、取りに来ました」
「ああ、陽菜ちゃん。そこにあるよ」
彼女は眼鏡をかけた中年の男性と親しそうに話している。店の名前のロゴが入ったエプロンを身に着けていた。男性が示した先には、ランタンのようなものが置かれている。佐山陽菜が近付いて行って何やら操作すると、案の定、明かりが灯った。光が揺らめいて、炎のように見える。
「オッケーです! ありがとうございます!」
「ああ、それから発注ミスの総菜パンがあるんだけど、良かったら持ってってよ。かさばるから、無理にとは言わないけど」
「わあ、やった! 持ってきます持ってきます」
「ほい、じゃあ居森くんはこれ持って」と佐山に言われるままに両手に一つづつランタンをぶら下げる。小ぶりな見た目の割にずっしりとくる。佐山は一抱えのパンを受け取って、満面の笑み。僕たちはそのまま店を出た。
僕は自転車の前で立ち止まる。
「ええと――」
「ハロウィンとかのイベントでたまに使ったりするんだ。で、借りられないか頼んでみたわけ」
状況の説明を求めようとした僕の心境を慮ったのか、佐山は言葉に言葉を重ねてきた。総菜パンが籠に積まれる。
「私さ、ここで働いてんだ」
皆には内緒ね、と佐山は人差し指を唇に当てて僕を見上げる。もう一方の手で回した自転車の鍵が自転車の束縛を解いて、かちゃんと音を立てた。
別にアルバイトが珍しいわけではない。けれど、その単語と佐山陽菜という人物との結びつきがにわかには想像できずに、僕は多分、少しとぼけた貌をしていたと思う。佐山はバドミントン部のエースだったし、将来的には都会の大学に進学を希望して塾にまで通っているというのが専らの噂だったから、バイトにかける時間があるとは思えなかったのだ。
「そっか。大変だね」
かろうじてそれだけ言うと、僕は自転車に跨った。すると、佐山が思わずという風に笑った。
「ふつー、何で、とか聞かない? 興味ないの?」
「え」
バイトをする理由なんて、金が欲しい以外には思いつかないから、聞かなかっただけだ。どうして金が欲しいのかってさらに問いかけることだってできるけど、それは佐山陽菜という女の子のプライベートなわけで、そこに土足で踏み込んでいくための勇気が僕には欠けているのだ。
「いや、興味がないわけではないけど」
「そうなの?」
「意思疎通っていうのが苦手なんだよ。その人が嬉しそうなら一緒に笑うし、悲しそうなら慰めたり励ましたりできる。僕だってそれくらいできるし、したいと思う。でも、踏み込んでいってその人が隠してるものを探り当てて何かできるほど、器用になれない」
「……ふーん」
「自分の感情を押し付けるのが怖いんだよ。臆病なんだ。それだけだよ。興味がないとか、そういうんじゃないんだ」
僕が言うと、佐山は何かを考える風にして、それから自転車にもう一度鍵をかけた。にっと悪戯小僧の笑みを浮かべ、佐山は僕を振り返った。
「ね、向こうに河川敷があるんだ。ちょっと行かない?」
そうして辿り着いた場所は幅の広い川がゆったりと流れていくのを間近に見る遊歩道で、太陽光の反射を除けばその流動を感じることはほとんどできないように見える。ゆっくり、ゆっくり、でも見かけよりはずっと強く、川は流れていく。
遠く、架け渡された橋を真昼の列車が過ぎていくのが小さく見えた。
「うわ、気持ちいい!」
靴を脱ぎ捨て、でも靴下はちゃんと畳んでその上に置くという妙な律義さで、佐山は素足になって水に足を浸けていた。「前から一回こうしてみたかったんだよね」
「ね、居森くんもやらんの」
「遠慮しとく」
犬を散歩に連れていく人やジョギングをする人が、僕らを横目に過ぎていく。
問1,僕と佐山との距離を直径とする円があるとして、僕らを結ぶ半円の弧の長さは幾つか? ふ、とそんなくだらないことを思いつく。
いや、佐山だったら、むしろ直径の長さを求めようとするのだろうか。
というか、そもそも、円ですらないのかもしれない。対岸で釣り糸を垂らしている男性と遠ざかりつつある間抜けな顔のパグを含めた歪な四角形が、僕らの世界かもしれない。あー、動くなよ点P。応用は苦手なんだ。
数学の宿題は、つい昨日終えたばかりだった。復習ばかりだったけど、簡単ではなかった。
真っ白な雲が地平線から青い空の果てを目指しているのが見えて、学校に居るはずの雨宮滴と僕の距離はどれくらいになるだろうか、と思う。僕にしては粘り強く考えてはみたものの、結局、伸ばした直線の先に君がいるのかどうかさえ、頭の悪い僕には分からなかった。
「ねえ、居森くんってさ――」
「ん」
不意に、佐山陽菜が僕に話しかけてきた。もう水から上がって、柔らかな芝草の上で、濡れてきらきらと光る端正な裸足を乗せている。
「案山子みたいだね」
「は?」
「いやいや! 馬鹿にしてるわけじゃないんだけどさ」
どう考えても揶揄っているようにしか思えなかったが、なるほど、呆と突っ立ている僕を案山子に例えるのは表現としては適切なのかもしれない。
「確かに、向かってきてくれるわけじゃないかもしれないけどさ。動けないってことは、会いに行ったらちゃんとそこにいるってことでしょ? きっとそこにいてくれるってことでしょ?」
「いや、そんな風に、考えたことはなかったな」
どこにも行けない僕は、どこにも行かない。近づけない代わりに、遠ざかることもない。そんな風に考えてみても良いものだろうか。こころが軽くなるような感覚と一緒に、やっぱり痛みに似た何かが、小骨のように心臓をつついていた。それは血の道を伝って、いつしか左手の指先に溜まっていく。昨夜、ギターの弦が食い破った部分。
「ねえ、一年の時の冬、覚えてる?」
「冬?」
「ミルクティー」
「ああ、覚えてるよ」
それは珍しく雪が降った日で、僕は誰にも踏み荒らされていない雪を見たくて立ち入り禁止の屋上に続く階段に足を向けたのだった。そして、そこで泣いている佐山に出会った。そのときの僕の動揺をどんな風に言い表したらいいだろう。
僕は慌てた。泣いている人を見るのは初めてだったから。いや、それじゃ語弊がある。僕の乏しい経験の中では、泣いている人のそばにはいつも慰めている人や一緒に泣いている人が居るのが普通で、「ひとりぼっちで」泣いている人を見るのが初めてだった。
僕は階段を駆け下りて自動販売機で温かいミルクティーを買うと、引き返した。戻ってくると、まさか帰ってくるとは思わなかったのか、佐山はきょとん、と僕を見た。正直、そこで初めてその女の子が佐山陽菜だってことに気が付いた。とにかく、もう紅茶をどうにかすることで頭が一杯だった僕は「あの、これ。寒いから」とかなんとか言って、逃げ出したはずだ。以来、目立った接触は、僕らの間にはない。
「疲れてたんだよねー。あのときは」
「……ああ」
「ありがとね。ミルクティー。それが言いたくて」
「いや、別に大したことじゃないから」
なんだか逃げ出したいようなとどまっていたいような、そんな心地だ。夏の湿気にやられたのか、言葉がやけに重たいような気がする。熱い。
「ああー、もう!」
佐山が叫んだ。
「違う。それが言いたかったんじゃなくて、いや、もちろん嬉しかったんだけど、そうじゃなくて――」
佐山が、夏の空を吸った。
「居森くん、私と」
佐山が僕を見た。瞳は景色を反射して驚くほど輝いている。ねえ、佐山。佐山は僕の中に何を見てるの? 僕という人間を見つめるには、その目は多分、あまりに綺麗すぎるように思える。
自分に向けられた希望を感じると、僕はまずそれを失うときのことを考えて不安になる。この感情を、佐山だったらなんて名付けるだろう。
いずれにせよ、うじうじと悩んで前に進めないくらいなら、そんなものは捨てて踏み出すべきだって、佐山は大人びているから言うかもしれない。でも、きっと、この臆病さそのものが「僕」なんだ。多分、どうしようもなく。
「私と付き合ってくれませんか」
蝉はまだ鳴いている。