6
朝、目が覚めると耳を澄ますのが習慣になっていた。
僕の部屋にはエアコンがない。窓は開けっぱなして網戸だけ。カーテンの隙間から零れる光に照らされて、微風の扇風機がぬるい部屋の空気を小動させている。遠く、遠く、蝉の声が聞こえる。
僕は起き上がると、カーテンを引いて朝と出会う。
あの日以来、僕は文化祭の準備には行っていない。ただ耳を澄ましているだけだ。
母親が、掃除機をかけている。
階段を下りて、朝ご飯を食べて、荷物を背負って出掛ける。「あれ、どこ行くん?」「図書館」。
強烈な日差しに焼かれて汗が吹き出す。鞄に詰め込まれているのは夏休みの宿題と参考書。肩にずっしりと重たい。問題集を解き終えたとしてもこの重さは変わんないだろうな、と、意味もないことを考える。たとえ空欄を埋めたとしても。
電車で駅二つ分。
図書館までの道のりの途中で、蝉が転がっているのを見つける。お馴染みの光景だけれど、どうしてかもの悲しく感じてしまうのは、雨宮滴のせいだろう。近づいてみると、「ヂ、ヂ、ヂ」と羽をばたつかせて暴れた。死んでなかった。驚いた僕が声を上げて後退ったところで、サラリーマン風の男性が僕を追い抜かして歩いて行った。なんか恥ずい。
助けてやろうか、と一瞬考えたけれど、やめた。
僕は図書館で勉強をした。勉強そのものは嫌いではない。やった分だけ成果がでるし、正解と間違いが明確で、逸脱を恐れる僕のような人間にとってはそれだけで安心できるものだ。
数学と英語のワークを黙々と解いていくと、時間が滑るように進んでいく。
応用問題は難しい。仕方なしに答えの解説を見てみても、なるほど、理解はできるけれども、まあ、無理でしょ、と思う。どういう頭の構造をしていたら思いつくんだ? 僕にはわからない。多分、わかる必要もない。
伸びをすると、窓の外が暗くなっているのに気付いた。机の上の勉強道具をしまうと、僕は外に出た。湿気がすごい。汗をかいた人に抱きつかれるような嫌悪感が、この大気に対してこみあげる。
今から帰るという旨を連絡しながら歩く。携帯から顔を上げると、ふと、行きの道で見つけた蝉のことが思い出された。足を止める。
気まぐれ、というのはまさにこういうことなんだろうと思う。僕は、まだそこに倒れていたら助けてやろう、という気になって、わざわざ道を戻った。曲がり角を折れればすぐのところだったのもある。もし、もうちょっと駅に近付いていたら、自分の酔狂を鼻で笑ってやめてしまっていただろう。とにもかくにも、僕は道を引き返した。
「あ」
蝉はいた。
車に轢かれてぺちゃんこになっていた。
身体は粉々になってしまっているのに、圧し潰されているから、完全な蝉の形を残している。それはむしろ、蝉の痕跡とでも言った方がしっくりくる代物だった。
死んでいる。いや、死というリアリティーさえ、そこには感じられなかった。もう蝉は消え去っていた。僕が見ているのはある種の残像なのだ。
夜は街灯に照らされて、厚ぼったい雲が惰性で動いていくのが見える。コンビニ、塾の看板、自動車のライト。蝉の亡骸は、その白々しい照明たちが輝かせる薄闇の端にかろうじて引っかかって揺れている。世界はこんなに明るいのに、誰も、気付かない。
いや、そりゃ、そうだろ。蝉は死ぬ。皆、知っている。わざわざ騒ぐことでもない。
「遅かったじゃん。帰るって言うから晩御飯温めておいたのに」
「あー、ごめん」
「あれ、あんた、それどうしたの?」
「……買った」
家に帰った僕は、中身の詰まったギターケースを持っていた。