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蝉の雨  作者: 深空 一縷
3/11

 

 それから、僕は当番でもないのに毎日学校に文化祭の準備をしに行くようになった。さすがに遅々として進まない準備を尻目に「じゃ、次の当番の日には忘れずに来るね」などととぼけることは憚られた。代わりに、クラスのみんなに「手伝ってくれ」と連絡を入れる勇気もなかったけれども。


 クラスの連中は、やっぱり準備に顔を出すことはなかった。文化祭の存在が頭から抜け落ちているんだろうか。春や秋や冬のように、時の流れに身を任せていれば文化祭はやってくるけれども、僕らの方から歩み寄らなければ、その中に「僕たちのお化け屋敷」は存在できない。そんな単純な足し算引き算を、僕らは結構、忘れがちだ。


「ねえ、絵、描くの、得意だったりする?」


 集めてきた段ボールの塗装が終わって、一息ついたときに雨宮滴が僕に言った。


「いや、全然」

「そっか」


 彼女はロッカーの上に置いてあった、巨大な、筒状の白い紙を、床に広げようとしていた。一隅を膝で押さえて、もう一隅を白い手で押さえて、でも、極端な猫背が直らないみたいに、紙はしゅるる、と丸まろうとする。


「ね、」


 雨宮は四つん這いの姿勢のまま、僕を振り返った。「そっち、押さえて」


「了解」

「筆箱を重石にしとこうか」

「そうだな」

「そこにわたしの落っこちてるから、拾ってよ」

「ああ」

「ちょ、手ぇ離したら、丸まっちゃうでしょう」


 雨宮滴は、無防備に開かれた襟元から、白い、滑らかな鎖骨を覗かせながら、笑った。クラスでも目立つタイプではなかったけれども、こうして見ると、だいぶ整った顔付きをしているのがよく分かる。

 男子の一人、二人が「実は美人だよな」なんて噂していてもおかしくないはずなのに、てんでそんな話は聞かない。事実、僕だってこうして文化祭の準備なんてものが無ければ、彼女を知らなかったかもしれない。少なくとも、日直日誌の中の人どまりだ。


 それで、ふと気が付く。


 雨宮は、だれとも喋らない。登下校のときも、休み時間も。あの日直日誌のように、空欄だらけの人。

 彼女は、まるで雨の最初みたいだ。それは、例えば誰かが傘をさす、とか、雨が落ちる音、だとか、窓に貼り付く水滴、だとか、そういった類の痕跡で後になってから気付く。そのはじめの一滴は、それが空を舞う姿を誰も知らない。


 それがどうしたって文化祭のクラス委員なんてやってるんだか。くじ引きだったろうか? 記憶は定かではない。まあ、僕は労務の多寡と責任の軽重を鑑みて、月に一度の定例会を除いて司書さんに仕事を丸投げすることのできる図書委員の座を手中に収め、のほほんとしていたのだから、覚えていないのも当然だった。


 雨宮滴は教卓の下にある小物入れから油性の色ペン一式を取り出した。


 雨宮が絵を描きだしたので、僕は足りなくなった段ボールを都合するべく、近所の量販店を巡ってみることにする。


「段ボール、探してくる」

「ん」


 雨宮は集中しているのか、茶色のペンでごしごしと紙面を擦っている。


 僕はポケットに自転車の鍵を探りながら、教室の扉を開けた。光一面。うええ、熱い。いや、別に、教室も空調を効かせているわけではないけれど、日向と日陰じゃ、体感温度は段違いだ。


「あ、居森くん」


 振り向くと、雨宮滴が身体を起こしてこっちを見ていた。


「ありがとう。いってらっしゃい」


 自転車の鍵につけている鈴のストラップがちりん、と鳴った。


「ん。いってきます」


 なんとなく、そう返事をして、扉を閉めた。


 下駄箱から外に出ると、水泳部がプールで練習をしているのがわかった。フェンスで覆われているから、覗き込みでもしないかぎり中の詳しい様子は知れないけれど、跳ねる水のきらきらとした瞬きや、顧問のメガホンから繰り出される怒声が、ぼやけた輪郭のままで、僕の表面まで届く。「頑張ってる」なぁ、って感じる。


「自己ベストだぞ! 良太!」


 側を横切るとき、そんな声が聞こえた。


 競い合うこと。自分自身と。ライバルと。


 そういうことから逃げたのは、僕だった。競争が苦手な平和主義者ってわけじゃない。どちらかと言えば、勝てない勝負はしない兵法家の心理に近い。必死に努力して、自分の全てを費やして、結局、その道のプロになるわけでもなし。


 自転車置き場は体育館脇にある。


 室内履きのきゅっきゅ、という特有の高い音が響いてくる。ああ、「頑張ってる」なあ。いや、別に、馬鹿にしているわけじゃなくて、単純に、熱いでしょ。夏の体育館って。


 校門まではけっこう急斜面だから、僕は立ち漕ぎをする。




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