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蝉の雨  作者: 深空 一縷
2/11

 

 夏休みに入り、部活動に参加していない僕は、ただ夏の憂鬱に閉じ込められながらだらだらと時を過ごすだけの軟体動物に成り下がり、すでに身体の一部と化したベッドで防護幕を形成することで、「無為な時間の浪費」による精神攻撃から身を守ろうと日々画策していた。


 その防護幕こそが空疎な時の浪費を生み出している元凶であるとは薄々ながら分かっているのだが、いざ何かをやるとすると「じゃあ、無為ではない過ごし方って?」という疑問が脳の髄液に気泡となって浮かび上がり、紆余曲折の末に自らの内に行動のきっかけを設定できずに挫折し、うだる。


 そんなとき、僕はふと、文化祭の準備のために、クラスの各人が日割りで教室に集まることになっていたのを思い出した。

 僕のクラスの出し物はお化け屋敷で、それなりの準備を要する。夏休み明けすぐに文化祭なので、準備は自然、夏休みの間に実行されなければならないわけだ。


 僕は嫌な予感とともに事前に決められていた割り振りを確認すると、案の定、僕の一回目の当番は、二日前になっていた。


「やっべ」


 焦った拍子に、部屋の隅に積み上げられた不要物の山に手が触れて、塔が崩れ落ちた。底にちんまりと沈んでいた『初心者のためのギター入門!』がうっすらと顔を覗かせた。


 自転車の滑走で、夏の薄皮を何枚もぶち破っていくと、だんだん不思議な心地になっていく。上り坂のペダル、灼けたアスファルト、掠めていく車の排気ガス。河では小学生が遊んでいて、水面に光が群れている。学校に着くと、校庭を囲む林は蝉の合唱で満ちていた。母親に差し入れとして持たされたアイスは溶けかけていて、僕は急いで階段を駆け上がっていく。


 教室の扉を開ける。


 女の子が一人、段ボールに黒いペンキを塗っているところだった。乾かしているのだろうか。似たような黒染めの段ボールが床に並んでいる。少女が顔を上げて僕を見た。

 頬に弾けたペンキが黒い。汗の滲んだ額を手の甲で擦ると、彼女の体表に纏わった夏が罅割れる。


「雨宮さん」

「……居森くん、今日、当番だったっけ?」


 雨宮滴は小首を傾げる。


 疑問の形式で放たれた言葉は、その実「当番だろうか、いや、当番じゃない」という反語の意を明確に宿しており、そのささやかな拒絶が、僕の内に帰宅の衝動を駆り立てる。が、それではここまで来た労力が報われない。僕は努めて冷静に表情を取り繕う。


「いや、この前来るの忘れてたから。他の皆は?」


 僕が聞くと、雨宮滴は微笑する。


「さあ? 居森くんが初めてだよ。この教室に来たの」

「え?」


 確かに、文化祭の準備は今日で五日目に突入しているはずで、それにしては作業の進みがあまりに遅い。つまり、雨宮の言葉を信じるならば、ここまでの準備は全て雨宮滴一人が担ってきたということだ。


「当番は決めてあったはずだろう」

「居森くんだって忘れてたくせに」


 どうやら、雨宮は人の急所を見抜く目と、そこを躊躇わずに狙うだけの狡猾さを併せ持っているようだ。ほとんど初めて口を利く相手に対して鋭い指摘を厭わない。

 ただ、それにしては口調に険がないから、それはラムネのような一撃で。きりっと曲がった口角は悪戯を思いついた午後の猫を連想させる。僕は己の非を認めて笑うしかない。


「当番って言っても、別に義務じゃないわけだから。皆忙しいんでしょ」


 雨宮滴は、耳に蓋をしていた長い黒髪を掻きあげる。「なんたって夏休みだし」。


 そう。夏休みだ。潮の匂い。沢を渡る風。夜空に弾ける光が刹那だけ人々の顔を染める。けれど、その下で誰と誰が手を繋いでいるかは、分からない。


「夏休み」から始まる連想ゲームに、残念ながら僕の名前はない。


 それから雨宮は手をずいと突き出した。意図が分からず、僕が呆としていると、雨宮は苦笑した。


「アイス。溶けちゃうよ」



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