白村江 炎上
第十話 ヌカタから額田王
安曇は、蝦夷には、囚われてしまったが、今まで長く世話になったと思っている。生かさせてもらった、数々の蝦夷に義理があるのだろう。そして離れ難いのであろうと思われる。
安曇は、村長のオンガをはじめ、蝦夷の皆を愛おしそうに眺めた。
その中でヌカタが寂しそうな顔をしている。彼女は、宮廷での暮らしが懐かしいのであろう。早く戻りたいのである。都が恋しいのであろう。
安曇には、妹、ヌカタの気持ちが痛いほど分かっている。
中大兄皇子は、
「我々は、・・・大変言いにくいのであるが、日本全国を制圧する。そのために・・・」
やや小声になって、
「これより北の蝦夷をも制圧しなくては、大和朝廷の威厳を示せない。」
そして、さらに小声になり、
「どうだ?都に来て、朝廷に仕官してくれぬか?」
中大兄皇子も、大海人皇子も、そして阿倍臣も、懇願するように、安曇をのぞき込む。
ヌカタは、ず~っと下を向いている。悲しそうに俯いている。
安曇は、また皆の気持ちを察して、提案する。
「この先、北に行くのであれば、ワシが、仲間を連れて大和朝廷軍の水先案内をすることは出来ます。しかし、都とかに我々は住めないし、ここからあまり遠く西に行く気もない・・・」
安曇は、力強く言うと、続けて小声で中大兄皇子に願い出た。
「あのな、お願いがあるんやけど」
と、一旦切って、静かに
「妹の額田を、女官として宮で使こうてもらえへんか?お袋様も、まだ、宮中に女官として勤めてんやろ?」
その提案に、中大兄皇子、大海人皇子、阿倍比羅夫将軍、三人は、喜んで、頷き顔を見合わせた。
中大兄皇子は、喜んで、大きく頷いた。そして、安曇に提案した。
「そうしたら、阿倍臣の軍は、こちらの村の西ではあるが、近くであるから、安曇殿は、その軍に入ってくれれば有難い。将軍となって、阿倍臣の海軍の補佐をお願いしたい」
「先ほども言われたように、北に向かう水先案内も願えればありがたい」
「そして、」
と、中大兄皇子は一息ついて、静かに、
「額田殿については、飛鳥の宮、大和の都、宮中に住んで頂き、母君と女官として、朝廷に仕えて頂ければと思うが、いかがであろう?」
と、安曇の顔を覗き込んだ。
「決まりじゃ、それが良い」
と、安倍臣。
「決まりじゃ」
と、大海人皇子。
「決まりじゃ、それでよい」
と、一同。安曇も中大兄皇子も、そして、大海人皇子もヌカタを見る。何も知らないヌカタは、何のことか分からないが、皆に笑顔をみせる。ヌカタにはまだ何のことが話し合われたのか?窺い知ることも出来ないでいる。
皆がなぜか、自分を笑顔でみているのか?
皆が何のことに合意して笑っているのか?
安曇は、中大兄皇子に対して二度、笑顔で強く頷いた。そして、安曇は、真剣な様相で、村長のオンガに今の中大兄皇子からの提案を命令として説明をする。
オンガは、安曇の話を聞きながら、時々、中大兄皇子や、阿倍比羅夫を不審げに睨んでいる。
安曇は、二人に念を押した。
「ワシが、皆を案内はするけど、成敗とか、高圧的に攻撃などしたらあかんぞ!あくまでも友好、交易のためやからな」
そして、続けて、
「制圧とか征伐とかは、いかん!」
安曇は、強い口調でもう一度、念を押した。そして、オンガにもあくまでも友好、交易のためだと伝えた。
中大兄皇子も阿倍比羅夫も、オンガに力強く頷き、約束した。
オンガも納得してくれたようで、強く頷く。
オンガは安曇を見つめて頷いた。
安曇は、オンガと、中大兄皇子と、大海人皇子と、阿倍比羅夫に順番に深く頭を下げた。そして妹、ヌカタを手招きしてこちらに呼び寄せたのだった。
ヌカタが、深刻な顔をして、下を向いて、皆のいる方に近づいて来る。安曇は笑顔もなく、真剣な眼差しで、ヌカタに言った。
「ヌカタ、悪いけどな、お前、蝦夷の側の人質になったんやねん。宮中に行ってお母ちゃんと働いて来い」
そして、安曇はヌカタの意見は聞かないていで
「み~んな、それで納得した。ハイ、おしまい‼」
安曇は、笑顔で、皆を眺めた。
ヌカタの顔が輝いた。
ヌカタは、まずはオンガに抱き着いた。そして礼を言った。
「ありがとう。ありがとね」
ヌカタは、オンガに何度も、抱き着いたまま、礼を言った。そしてオンガから離れて、ヌカタは、オンガと安曇二人に深く礼をした。
そして、安曇に向かっては、
「お兄ちゃん、ありがとうね、今まで、ありがとね」
そして矢継ぎ早に
「お母ちゃんのところ、連れて帰ってくれるってね」
ヌカタは泣けてきた。
その涙を見て、オンガも、安曇も涙が、頬を濡らす。そして、何度も頷く。
オンガは、安曇を眺めた。
(こいつは、どうする気だろう?我々に気兼ねして、此処に残ろうとしているのではないのだろうか?ヌカタと、一緒に帰りたいだろうに・・・)
と考えるのであった。
安曇は、オンガが、まじまじと自分を見ていることに気が付いた。
「え?ワシ?」
安曇は、オンガと目を合わせた。オンガは深く頷いた。
蝦夷のことばで、二人が会話を始めた。オンガは渋い顔をして、深く考え込んでいる。東北行きの件であろう。安曇は、しゃべり続ける。猛烈な勢いで。そして、オンガは、二、三度、頷き、手の甲を安曇に振った。分かった、分かった、好きにしろ、とでもいう感じである。
オンガ村長は、大和の役人として皆のために自分が何をすべきかを良く分かっていた。出来る限り手の届く範囲で、村のみんなを守った。朝廷の役人としてではなく、オンガは、この集落を、周辺民族を守るために自分は何をなすべきか、を考えた。
このころの、大和朝廷と蝦夷の関係は、非常に良く、好戦的でも、高圧的でもなかった。
蝦夷の役人は、朝廷からの多大な頂き物を皆に配り、自分達の地域の特産品を皆から集めて、朝廷に献上していたのだった。
蝦夷の役人は、大和朝廷に支配された地の役人というよりは、あくまでも、朝廷との交易の仲介人として、勤めた。
安曇とヌカタが、皆に教えたことだ。
安曇は、阿倍の軍とともに蝦夷の村の近くの港にいた。それで、このころの両者の関係は、非常に友好的な交易関係であった。
安曇は、阿倍臣の補佐として、海軍の将軍となっていくのである。オンガから、若い男、百数十人を借り受け、阿倍と自分の船団の水先案内人とした。大和朝廷軍の中枢の一部以外には、彼らは捕虜ということにしてあるらしい。
安曇は、彼らを、自分の部下としても使った。彼らの待遇もすこぶる良くしたのだった。当時の捕虜とか奴隷扱いなどは決してさせなかった。
その後、阿倍比羅夫は、現在の北海道の地まで、蝦夷を征服、制圧することとなる。しかしながら実際に戦いが行われたとの記録が無いに等しいのである。
大和朝廷と、蝦夷の戦いは、後の、桓武天皇の時代、蝦夷地を平定したという征夷大将軍である坂上田村麻呂などが登場する時だ。
桓武天皇の時代、二十年にも及ぶ長い間に蝦夷と対峙し、三度、軍を派遣し、全て完敗に終わっている。その戦いにおいては坂上田村麻呂の遠征が大変有名である。
蝦夷の英雄アテルイとの闘いである。蝦夷の英雄アテルイは、蝦夷の集団を結束させ、制圧に乗り出す朝廷軍と果敢に戦い、歴史的勝利を収めたとされています。そのあたりから両者の関係は、交易目的から領土支配、交流から対立へと移り変っていったのではないかと思われているのです。
大化の改新当時の朝廷は、蝦夷との戦いに、懐柔策を主体にした王化策を試みたとみられます。阿倍比羅夫の遠征の目的は、征服ではなく蝦夷の文化生活を調査し、朝廷への服属と朝貢を促すことが目的であったと考えられていました。そして、大化の改新時点での、中国に対する軍事強化の成果を試してみるつもりもあったのではないだろうか?と、言われております。
この時点で、大陸、中国では、西暦六一八年から、隋にかわって、唐王朝が隋の部下の反乱というカタチで、成立したのでした。唐は、中国の主だった都市を支配しており、その国内で国力の充実に力を注ぐとともに、朝鮮半島の三国、西に東に、対外的に圧力をかけ始めたのである。
まずは、日本とかかわりの深い、朝鮮半島の百済、高句麗に侵攻し始めたのであった。
この阿倍、安曇の大和朝廷の蝦夷遠征後、都に蝦夷と一緒に捕虜も連れて戻っているという記録もあるので、大和朝廷と蝦夷の間には多少の戦闘はあったようだ。
まったくの交戦なし、と言う訳ではなかったようです。そして大和朝廷は、中央集権国家を強力に進める大化の改新策を実施します。その一方、列島全域を統治するための軍事行動も敢行します。
大和朝廷は、大陸の中国の動静に臆することなく、また太刀打ちすべく、一気に国家形成に動き始めたのである。
大兄皇子、大海皇子、阿倍比羅夫は、齶田(あぎた;後の秋田市)から大群をひきあげ、安曇、ヌカタとともに、飛鳥、岡本の宮に戻り、斉明天皇(前皇極上皇、中大兄皇子たちの母)に朝見いたしました。
ここに集う者すべてが、日本創生、激動の時代に突入して行くことになる。
朝見した天皇は、蝦夷の持ってきた貢物が、獣の物が多いのと、蝦夷に攫われていたという、安曇の衣装が毛皮であるのをご覧になって ギョ! とされました。しかし、ヌカタの革の裏地を利用して製作された、袍と裳の下の襞飾には、いたく女性のファッションとして魅かれていたのです。
「あら、すてきね、それ。私にも作っていただきたいわ」
と、気に入っていた。
斉明天皇は、
「ところで、」
と、安曇達、とくにヌカタにむかって問われた。
「そちらの母君が、この宮に出仕されているとか?」
と、天皇は、あたりの女官を見渡して、言われた。お付きの女官達は、互いの顔を見ながら、首をかしげた。誰も分からないようである。
それではと、天皇は、
「私とともに、これら、子の皇子の世話も母上と供に頼みます」
と言われ、席を立たれたのでした。
事前に、皇子たちから、ある程度のことは、伝えてあるのだろう。
ヌカタが女官として、宮中に住まい、王家に仕えること。宮中で流行りの歌詠みが、得意であること。天皇は、この歌詠みが上手というところに、非常に関心があった。
その後、天皇は、おおいにヌカタの、その詩才を愛でられていた。
また、皇子二人が、非常にヌカタのことを好んでいる、というのも、感心と興味があったのである。
安曇という蝦夷の奴隷、実際には奴隷ではなく、飛鳥の里の人である彼が、阿倍比羅夫の軍に入るとかは、天皇は、まったく興味がない。政務は、中大兄皇子に任せている。どうでも良いことでしかなかった。
「ハイハイ」
と事前にあっさりと承諾されている。
ここで、安曇とヌカタの兄妹の宮仕えは、決定された。
安曇は、阿倍比羅夫将軍の軍、港に戻り、ヌカタは母のもとに、宮中に住むこととなったのであった。
安曇は、天皇への謁見の後、宮を去る前にヌカタとともに早々に自分達の母の元を訪れた。母は、二人の無事に身を伏せて泣き続けた。二人も泣けてきた。
十数年もの間、自分達のことを心配していて下れていたのであろう。
母は、最初はいきなりの、二人の毛皮の服装姿に目を見張って驚いた。短刀を構えるほど、驚き警戒したのだ。しかし、そこは親子である。姿カタチが、異なっていても、直ぐに我子であることが分かった。
そして、母は、二人のために、宮廷の衣服を揃えて来て、二人に渡した。
二人は、母が持ってきて下れた宮仕えの衣装に着替えた。この後、安曇は、阿倍比羅夫に従い、北の国の軍港に帰って行ったのである。そして、今度は、朝廷軍として、更に北の蝦夷のもとへ、船団を案内することとなる。
北陸をめぐる前に、安曇は、秋田の蝦夷の村のオンガには、必ず挨拶に行った。そして、自分達が、これから、行うことを詳細に伝えた。そのまま、オンガが他の蝦夷に情報を洩らせば、自分達、大和朝廷軍が危うくなるのは当然であったが、長年の付き合いというか、強い信頼関係がある。安曇は、オンガには自分達朝廷軍の計画を不自然に隠すことなく、全てを打ち明けていた。オンガも、それが分かっていたので、信頼に応えるべく、様々《さまざま》な助言を安曇に与えて下れたのである。
蝦夷は、大体の者は、元もと、大和の民と戦う意思がないこと。
他の蝦夷の村長たちは、このオンガの村に従い、自分達も同じ立場にならないものか?と考えている。そういう状況もオンガから安曇に伝えられた。
こうして、大した戦闘もなく、安全無事に航海し、交易をして、安倍臣も、安曇も、東北、北の民と地域を制圧するという朝廷での職務を全うしたのである。しかし、その後、二人はどえらい海外戦に巻き込まれてゆくのである。
阿倍比羅夫将軍
安曇比羅夫将軍
の倭軍、二大将軍としてであった。
交渉によって、平和解決をしようと試みるすべも、何もない。
最初から敗戦するであろうと考えられた戦い。ただ、殺し合い、戦うのみ‼
ヌカタは、あれから、宮中姿で、宮仕えをするようになったのである。一応、ヌカタの仕事は、きれいな服を着てはいるが、家事手伝いのお手伝いさんのようなもの。
食事を造ったり、運んだり、
布団をしいたり、しまったり、
灯りをつけたり、そして消したり、
と、朝から晩まで、大忙しである。
そのうち、ヌカタは仕事を母に任せることが多くなった。もともと、村娘とはいえ お嬢様育ち ではある。宮中で歌会が開かれる度に、詩に聞き入っている。
ぼーっ とする。そして、自分でも、歌を詠む。
夢心地なのであろう。
忙しく働く母に、叱責されることが、日に日に多くなる。
「全く、あんたは昔と全然変わらないね~、ノー天気もいいとこだ!」
と母は、小言が長くなる。
「お兄ちゃん、あんなに、げっそり痩せこけてたのに、あんたは、どこ行っても、雅ですね、その頭の中。やはり、私、基本的に育て方をまちがえたかしら?」
と母は、ヌカタを揶揄するのであった。
斉明天皇は、宮中を移動する際、そのヌカタ達の光景を遠く、遠目に微笑ましく眺めながら、歌詠みの会へとむかわれます。また、ヌカタの歌った詩を歌詠みの会で、口ずさんだりしています。
ヌカタとしては、早く、皆のように大人の愛の歌を詠みたいのであるが、ヌカタの頭の中に、誰も恋愛対象の適当な男性が浮かんでこないのである。
歌詠みの会に来ていた、高貴な殿方、詩を読む声が裏返っていて、変!
高貴なお方をイメージしようにも、変な奴しか出てこない。そして、このころヌカタは、大海人皇子の猛烈な求愛に会うのである。
ヌカタは、
(あのクソガキ、発情期か?)
と迷惑そうに思っても、
(そういえば、あのおかたは私ヌカタより一歳上であった。それに皇子であった⁉)
と思うのである。
これには、ヌカタだけではなく、中大兄皇子も困惑気味ではあった。
中大兄皇子もヌカタのことが幼き日より好きで、最愛の妹のように思っていたのである。
しかし、自分には、既に二人以上の妻がいる。
一人は、石川麻呂の娘・遠智娘で、そして、もう一人も、またしても石川麻呂の娘、姪娘が中大兄皇子の妃だったのだ。
倉山田石川麻呂の、クーデターへの参加の交換条件、報酬は、中大兄皇子が石川麻呂の娘と結婚するという約束であった。中大兄皇子は、弟、大海人皇子が、ご婦人方に、特に無茶な態度をしている訳でもないので、皇子の兄としては、特に注意することもない、と思った。
嫉妬⁉
中大兄皇子は、自身が幼い時から、そして、村に遊びに行く以前から、ヌカタが、幼子で、母の影に寄り添っているときから大好きなのである。
母、斉明天皇が、二人の皇子の想いを面白がって、大海人皇子を挑発した観がある。もちろん、天皇は、天皇で、ヌカタがエラク気に入っていた。斉明天皇は最近はやりの歌詠みの会によく呼ばれるのだ。詩のことはチンプン、カンプンで判定するにも、歌詠みするにも、ヌカタの助けを必要としたのであった。
斉明天皇はヌカタの助けのお陰で、
「天皇は、歌詠みの天才ではないか!」
とまで評判となり、教えを乞う者まで出てきたほどだ。それで、頻繁に歌詠みの会が開かれるようになったのでした。
しかし、そこは天皇である。
「自分の詩ではない」
ということは、隠しに隠さねばなりません。
二人羽織の要領で、ヌカタをどこか近くに潜ませるのでした。どこかに隠すかというと、床下、しょうぎ裏に忍ばせるとか、色々手を尽くすのでした。ヌカタは、女帝の側にあって、大いにその詩才を愛でられていました。
そして、額田王として、「万葉集」随一の女流歌人として、ひろく知られるようになります。
大和朝廷の朝鮮出兵時の詩
「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」
は、斉明天皇の代作として詠んだものとされています。
しかし、天皇も中大兄皇子も、ヌカタのことを表では、分け隔てなく、接しているかに思えますが、実際のところ、ヌカタを女官の娘ということで見下しておりました。
大海人皇子の后を宮中の他の高貴な生まれの娘の中から選ぼうとしていたとか。ヌカタには、差別的な目を向けられていたようです。
おふたりは、大海人皇子には、
「もっと自分の立場と、身分を考えなさい。女中と恋におちるなんて、なんて、恥知らずなことをしている・・・」
とか、
「何が、私は、あなたの為に生まれて来ただ?馬鹿をいうな。それを言うなら、彼女は、あなたの女中として生まれて来たんだ、だろ?」
「身分を考えろ。王族から、何人も后候補が、いるだろう?このままであれば、私たちが、決めてしまうぞ!」
と、裏で何を言っているか、分かったものではありませんが、ヌカタは、王家の出ではないにしろ、もとは、高貴な生まれのはずなのです。天皇家をはじめ、有力者は、権力を持ってしまうと、周りがいいことばかり言い寄る人だけになってしまうので、人の価値、本音が、みえなくなるのでしょう。
前にもありましたが、聖徳太子の、十七条の憲法で、
六条 六曰。懲悪勧善。古之良典。
是以无匿人善。見悪必匡。其諂詐者。則為覆国家之利器。為絶人民之鋒釼。亦侫媚者対上則好説下過。逢下則誹謗上失。其如此人皆无忠於君。无仁於民。是大乱之本也。
六曰。懲悪勧善。・・・
六にいわく。あしきをこらしめ よきをすすめる。・・・
六、悪ことを注意して、善いことを勧める。それは昔から良きこととされてます。これで人の善い行いが隠されることが無くなります。悪いおこないを見たら必ず正しなさい。上にへつらい人を欺く者は、国家を覆す鋭い凶器です。人民をほろぼす鋭い釼。
上の者にへつらい媚びる者は、天子には、部下の過ちを良く頻繁に告げ口ばかりします。その一方、部下には天子の悪口を、また、その態度をそしり悪口を言う。この様な人は天子に忠誠が無く、民衆に対して慈しみの心が無い。これは大きく世の中が乱れる原因です。
と言われております。
太古の昔から、権力者には、良い人の悪口を言って、良い人をダメにしてしまう人が多く仕えているので、権力者は常に自分を律せねばならないのです。ということでしょうか?
ヌカタは、薄々感づいてはいました。しかし、中大兄皇子は、自分に恋しているかのようにも以前から思えてならなかったため、身分などと言うことは、忘れておりました。それに、大海人皇子の求愛があっても、請けない。無視することとしていました。
大海人皇子のヌカタへの想いは、周囲に反対されれば されるほど高まるばかりなのでした。そしてヌカタは、ドンドンと大海人皇子を避けようとするようになってしまいました。
大海人皇子は、大海人皇子で、ヌカタへの思いがつのります。
我々は、斑鳩の里で、出会うべくして生まれて来たのであろう。
誰も口を挟むことなど出来る筈もない。
大海人皇子は、ヌカタであれば、この気持ちを、詩で詠めるのであろうと思う。しかし、悔しいかな、自分に歌詠みの才能はない。ロマンチックには、ほど遠い。
気持ちを隠さず、心を広く大きく持って、ヌカタに伝えたい。
悪口を言いたい人たちには、言わせておけばよい。
二人で、この時を突き進んでいきたい。
とそんなふうに思っている。
大海皇子は、とにかく、誰が何と言おうと、ヌカタを后にするつもりなのである。
(王族の皇子の身分を捨てようとも、構わない)
そう考えている。
そして、なんやかやでヌカタは大海人皇子にとって最初の妻になったのでした。
ヌカタのそれからの人生、中国の楊貴妃になぞらえ、魔性の女などと、言われることとなるのでした。しかしながら、それは額田王の女性的な魅力もあったのでしょうが、気さくな人柄にみんなが魅かれたということです。性的な計算されたものではないのでした。 そのうえ、詩を詠むと、これがまた素晴らしく、ロマンチックでしたので、みんなが、魅了されたのでした。
中大兄皇子などは、ヌカタのことが忘れられず、弟の大海人皇子の后となっても、自分の近くにいることが耐え難かったのでした。その後のことですが、中大兄皇子は彼女を忘れられず、ついに自分の弟の妻であるにもかかわらず、略奪してしまうのでした。自分の娘を、弟に四人も嫁がせて、ヌカタをその交換条件のように、奪いとったのでした。
大海人皇子と額田王の夫婦は、大変、仲睦まじかったようです。二人の間には娘(十市皇女(とおちのひめみこ 大友皇子(弘文天皇)の正妃。)も授かり、大変仲睦まじく周りの誰もが羨むような仲だったのです。
そんな二人の仲を引き裂くかのように、天智天皇(中大兄皇子)は、額田王を譲るように弟の大海人皇子に話を持ちかけてきたのでした。
誰もがご存知じの通り、天智天皇(中大兄皇子)と、大海人皇子は、血のつながる兄弟です。しかし、大海人皇子は、恐れておりました。兄に反抗でもしてみすれば、自分だけではなく、
親族にまで害を及ぼす、何をしてくるか分からない人物です。
兄の天智天皇(中大兄皇子)といえば、欲しいと思うものはどんな事をしてでも手に入れる人物です。あれだけ力を持っていた蘇我氏をクーデターで一掃し、自らの母をあやつり、天皇と同じ力を持つようになった人物なのです。
自分の妻の父、クーデターの協力者でもある、石川麻呂を自殺にまで追い込みました。石川麻呂の娘で中大兄皇子の妻だった造媛は、父の死を嘆き、やがて病死ししたといわれます。儀理の父でさえ、母でさえ、鬱陶しいものは、排除してきたのです。
弟である、大海人皇子は、よく知っておりました。
兄、中大兄皇子、いや、天智天皇は、その人柄は、人民を大切にし、肉親、友も大切にする、聖徳太子を敬う心の持ち主のように見えて、人々から、良い人、と言われている。しかし、実は、裏は、極悪非道。反抗などしようものなら、えらいことになることを重々承知していたのです。
天智天皇(中大兄皇子)が死ぬ間際に、弟の、大海人皇子をよばれ
「天皇を譲る」
と言われておりました。
しかし、大海人皇子は、その裏で天智天皇の自身の息子に自分を殺させようとケシカケテいた醜いこともお見通しです。さっさと、その申し出を断って、断髪を行い、僧になって寺に逃げ込んでおります。
兄の天智天皇(中大兄皇子)は、以前から、大海人皇子に天皇の座を譲る、譲ると云いながら、自分の息子、大友皇子に、実の弟である大海人皇子を殺すよう仕向けていたのでした。
苦渋の決断で大海人皇子は、妻となっていたヌカタ(額田王)を、兄に譲ることとなりました。額田王は、二人の兄弟の妻となるわけですが、彼女は、多くの人を魅了したのは事実だったようです。そして、数奇な運命に翻弄されるのでした。
第十一話 倭王 ついに隋も、百済も滅亡へ
西暦六六〇年
そのころの朝鮮半島の情勢は、激しく動き出していたのである。
朝鮮半島には、百済、高句麗、新羅の三国があった。日本と古くから交流があったのは、大国の百済、高句麗である。新羅は、他の二国に押されるかたちの小国に過ぎなかったのでした。
当時の倭国、日本は、朝鮮半島の南部地域に、任那という拠点を築いており、百済と盛んに交流していたのでした。
一方、大陸の中国は、隋の時代から、百済にちょくちょく攻撃をしかけており、日本はそのたびに朝鮮半島に援軍を送ってこれに対処していたのである。本来、高句麗を攻めていたのであるが、高句麗は手強く全く落ちる気配もないので、百済に矛先を一旦、変更したのだった。中国では、一旦、中国を統一していた隋は、世代をおって王室が腐敗してゆき、反乱軍が、皇帝である煬帝を殺し、ついに隋と、その王室を倒して、唐を建国したのだった。
そして大陸は、唐の時代となっていきます。
唐の前、中国を統一していた隋では文帝・煬帝の治世時に、四度もの朝鮮半島の大国、高句麗遠征を行いましたが、いずれも失敗して敗北しております。それも、帝国、隋が崩壊していく原因のひとつとなっていたのでした。
そこで、それを教訓に、唐は内政に重点をおき、当初は国力を充実させることだけに努めていました。領土拡大とかを後回しにしていたのです。そして、国力を充実させた唐は、ついに領土拡大に動き始めていったのである。
唐は、朝鮮半島において、当初見向きもされなかった小国、新羅を味方につけて、またしても高句麗遠征を行ったのですが、それでも高句麗が、落ちない、落とせないのを見て、今度は、百済を落としにかかったのであった。しかし唐は、百済をも攻めあぐねる状況が続きます。
当初、新羅は百済や高句麗に攻められた時に唐に援助を求めています。しかし、この時は、唐は新羅への援軍を断りました。その後、唐は、高句麗と百済と対立したため、新羅を支援することにして同盟を結ぶのです。唐は、新羅と連合して、ついには百済を滅亡させたのでした。
唐と新羅に滅ばされるその時点において、百済の王族は腐敗し、衰退の一途をたどっておりました。
百済は新羅への侵攻を繰り返しています。また、朝鮮半島を大干ばつによる飢饉が襲った時には、百済の義慈王は飢饉対策を怠り、何も対策せず、国民をないがしろにするどころか、毎日のように豪勢な酒宴を繰り返しており、そのうえ、出来損ないともいえる、躾けも教養も受けていない長男、皇太子の扶余隆、この太子のための宮殿を豪奢・壮麗をきわめる姿に国民を使い改築工事をしているのでした。
百済の王朝は、新羅との戦争、宮殿の修復など、国民に負担を強いり、国民をないがしろにし省みない、腐敗した王朝となっていたのでした。また、義慈王の酒乱を諌めた賢人の官職の平仲が、この王に投獄されてしまい獄死しております。
このような百済の退廃していく情勢と、防衛力の低下、人心の離反という情報を、唐は、素早く入手しておりました。そして唐は秘密裏に百済への出兵計画を進めたのです。
倭国、日本の遣唐使を洛陽の都に留め、百済への出兵を倭国に情報が漏れないようにもしておりました。それでも、この朝鮮半島と大陸中国の情勢は、大化の改新の真最中の倭国には素早く伝わり、大和朝廷は、次には、自分達が唐にやられる!と、警戒感を高めました。
唐が、倭国から遠い高句麗ではなく、伝統的に倭国と交流のある百済を攻撃したことで、朝廷内には衝撃が走しりました。
倭国は、
百済に付くのか?
唐に付くのか?
が議論され、時間なく選択を迫られこととなったのです。
その当時、百済の王子である余豊璋は、百済の人質的な扱いではなく国賓としての様な扱いで、百済の人質として日本に三十年ちかく滞在していたのでした。
ついに百済は唐と新羅の連合により滅亡させられたのです。
しかし、幸いなことに百済は分権的な国家体制で、王家など無くなっても、鬼室福信などの百済の臣は、ほぼ無傷で健在だったのです。彼らは互いに協力して唐との戦争を継続し、百済は全土を制圧されずにいたのです。
大将である、しょうもない王室が倒されてしまっただけで、百済の領土は残り、有能な家臣も生き延びて残っていたのです。
そして唐の当初からの目的は高句麗討伐であり、百済討伐ではなかった。唐軍の主力は百済のダメ王朝を潰した後、高句麗へ向かおうとすると、百済の鬼室福信らが百済の復興運動を開始し、唐軍は又も高句麗への侵攻を妨害されたのでした。唐軍の本体は高句麗に向かっていたため、連合国である新羅軍が百済の残党の討伐へ動いたのです。
しかし、百済には、鬼室福信や僧侶の道深、黒歯常之など優秀なリーダー格の人物が残っておりました。そして、要塞である周留城などは無事であり健在であったために、新羅とは充分に戦えました。
それでも、百済の復興運動を開始した鬼室福信たちは、戦力不足、士気に足りないものを皆は感じていたのです。そこで、百済の将軍たちは倭国に対し、人質として倭国に滞在している百済の王子・余豊璋の返還と百済復興の援軍を要請してきたのです。
余豊璋王子の返還の要請というのは、百済の義慈王が家族とともに唐の首都の長安に送られ、拘束され、その後病死したため、百済の王家の後継者がいなかったからでした。
実は後継者の一人の百済王子、太子のあのボンボン息子の扶余隆は、唐に投獄された後に、親親族を置いて、唐に仕官してしまったのである。
百済の重鎮であった鬼室福信は、軍を率いて、百済再興のために戦い続けていました。
そして、鬼室福信は、
「戦いの旗印として百済の王子、余豊璋を百済に連れてきて欲しい」
と、その旨の依頼を再三、倭国、日本側にしてきたのである。
飛鳥岡本宮では、斉明帝・中大兄皇子・大海人皇子ら倭の首脳部により、百済復興を支援に行くか?が検討されておりました。
斉明帝は国が滅んだ百済の人々の心中を思いやり、礼を尽くして帰国させるよう担当官に命じます。
「では援軍も送るのか?」
と言って中大兄皇子は期待に満ちた表情を浮かべますが、
「援軍については即答しかねる、慎重に皆の意見を聞き議論を尽くさねば」
と、斉明帝は答えます。すると中大兄皇子がそんな余裕はないと直ちに反論し、機を逃すと唐の脅威が自国にも及ぶ、と忠告します。
このやり取りを聞いていた大海人皇子は、百済が降伏した時、唐は十万の兵を送り込んできたことを強調し、鬼室福信と余豊璋が、百済軍1万にたいして新羅・唐軍合わせて5万余、と過少に報告していることを指摘します。大海人皇子は、百済は、偽りを申して我らを犠牲にしようとしているのではないか、と反対の意見を述べました。
ここで中大兄皇子が口を挟み、
「鬼室福信殿の言葉が信用できないとは情けない。そもそもお前は百済の窮状を見て救ってやりたいとは思わないのか?」
と、大海人皇子に問いかけます。
「正確な情報がないと判断できないと申しているのだ!」
と、大海人皇子が答えると、中大兄皇子は激昂し、
「黙れ薄情者、危うきを扶け、助けを乞う者を助く、四曰。群卿百寮。以礼為本。(四いわく。ぐんけいひゃくりょう。れいをもってもととなせ。四、公家百寮の官僚は、真心を持って事を行うことを基本とせよ。) 一曰。以和為貴。無忤為宗。(一にいわく。わをもってとうとしとなす。さからうことなきをむねとす。一、和する事を貴いことであるとし、道理に逆らわない事を大事にしなさい。)これが、幼き時からの私の心根じゃ!六曰。懲悪勧善。古之良典。(六にいわく。あしきをこらしめよきをすすめる。六、悪ことを注意して、善いことを勧めるのは、昔から良いこととされてます。)自分は何があっても戦うぞ!」
と、力強く宣言したのです。
斉明天皇は兄弟の対立に頭を抱えて悩み、裁断を下せないのでした。
その夜、中大兄皇子は、大至急、軍船と武器の製造に取りかかり、不足分は瀬戸内・九州の豪族から召し上げよ、兵員もかき集め、並より大きければ子供でも老人でもよい、と部下の者に指示いたします。
中大兄皇子は、
「母君の斉明天皇の決断を待っていたら、戦が終わってしまう」
と呟きます。
大海人皇子は、現地の状況を確かめるまでは、派兵の決定をしないよう、母、斉明天皇に要請をします。しかし、中大兄皇子の強引さに抵抗する自信はない、と苦悩した表情を浮かべて母、斉明天皇は静に呟きます。
「しばしの辛抱、のらりくらりと決定を引き延ばせばよいのです」
と、大海人皇子は斉明天皇を説得したのでした。
しかしながら、斉明天皇と、中大兄皇子は、ついに、百済に援軍を送ることを決意し、自ら朝鮮半島に向かうのこととしました。この時、弟、大海人皇子は、朝鮮、百済の状勢と、中国、唐の国力から判断して、この派兵に反対していたと云われます。
倭国の斉明天皇のもと、大和朝廷は、大国、中国の唐に屈さず、長年交流のある百済の救済をするとして、朝鮮出兵を決意したのでした。
その前に、鬼室福信の依頼を聞き入れ、王子、余豊璋を百済に護送したのである。護送での軍備装備であるため、とても、唐と新羅の連合軍に太刀打ちは出来ないものであった。軍としての本格的な戦をすることではなかった。
余豊璋を百済に護送したのち、百済復興を支援する目的で、女帝であるにもかかわらず斉明天皇が自ら軍を率いて、先頭に立ち、飛鳥の宮を離れるという異例の出陣が敢行されることになったのでした。これにより唐と新羅を敵に回すことが大和朝廷、倭国軍としてはっきりと決定され、実行されることとなったのです。
西暦六六一年
倭国軍は難波津より、最前線基地である九州の筑紫へ全軍が向かったのである。
大和朝廷は、大将に蝦夷討伐の東北遠征と同じく船団を組ませた。
阿倍比羅夫そして、安曇比羅夫の二人をたてて、百済救援のための海軍を大船団で送り出すのである。
九州北の前線基地へ出陣する際には、額田王によって斉明天皇の代理として兵士たち、大和朝廷軍にむけて詩が詠まれた。
熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
というものでした。
さあ行こう!という激励の詩であったようです。
しかし、斉明天皇が出兵の疲れからか、百済出兵の前線基地が置かれていた九州の筑紫(福岡県)の朝倉宮で急死されたのでした。倭国軍の船出は悲壮感でいっぱいだったのです。
いきなり総大将が死んだ倭国軍。士気は下がり、やる気もなくなったようです。兵士たちは混乱しておりました。
宮の周辺の村で、略奪まがいに遊び歩いたり、館で宴会三昧の日々を送ります。ナゲヤリ⁉
そのうえ、(余豊璋が百済への土産に天皇を暗殺したのではないか・・・)などの流言、噓言がまかり通りました。噓の噂が蔓延したのです。
中大兄皇子は、出撃を急がねばならないと感じておりました。日々、倭軍の士気と風紀は下がるばかりです。
中大兄皇子は、兵たちが宴会をし、略奪や非業な行いをしているところに駆けつけ、その、中心となっていた人物を切りつけ死刑にします。次々と、自分や、友人、親戚の部下たちを殺していったのでした。皆の前で、惨い殺人を繰り返しました。
見せしめです!
中大兄皇子からの処罰。これには、倭軍の兵士たちも、肝を冷やしました。
身体の一部を少しずつ、切り落とすとか、刺していくとか、残酷、惨いのです。
そして中大兄皇子の命に逆らう者は一切いなくなりました。出撃に文句など言う者もいなくなりました。
というよりは、早く出陣して、この大将に味方ではなく、敵を殺して欲しいと願ったのです。
百済復興救援隊の任にあるものは、この状況では味方がどんどん、中大兄皇子に惨殺されていってしまう、次は自分ではないか?と、怯え切っておりました。
「早く、出陣して、戦場に向かいたい!」
と思うようになっておりました。斉明天皇亡き後、まずは、中大兄皇子はこのようにして早急に兵たちの混乱を取りまとめます。
西暦六六一年
斉明天皇は崩御されますが、長男である中大兄皇子(後の天智天皇)は即位することなく皇太子のまま称制としました。中大兄皇子は、実に二十年以上も皇太子のまま執政を行っていたのです。
なぜ即位するのをそれほど先延ばしにしたのかは、色々な説があります。
(暗殺を恐れていたのではないか?)
乙巳の変において蘇我入鹿を暗殺し、蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子、親戚であれ、肉親であれ、殺害してきた人でしたので、中大兄皇子を殺してやりたいと思う輩は周りに数多くいました。中大兄皇子の周りには敵が多くいたのは間違いないはないのです。
天皇を頂点とする政治改革を進めていた中大兄皇子にとって、自身が天皇となり暗殺されたりした場合、大和朝廷、日本の国の体制がまた、元に戻ってしまう。せっかくの改革が何にもならなくなってしまうのでは?
と考えていたのではないかとも云われております。
倭国の大和朝廷、中大兄皇子は、余豊璋(よほうしょう 百済王子)を百済に返還、護送するため、五千の兵と共に余豊璋を百済に送り出しています。
護送船団の指揮官は安曇比羅夫将軍。
そして、中大兄皇子、弟の大海人皇子も、朝廷軍の士気を高めるために同行します。
朝廷軍の隊員だけでなく、同行する百済の皆も思っております。
(敵より恐ろしい味方!)
中大兄皇子、弟の大海人皇子も、蝦夷成敗の東北遠征の時と同じ、単騎の帆船での参戦です。帆船は、マストの帆を、銅板でパッチワークのような張り合わせをして防御力を強化してありました。また、船の先端に金属の刃が何本も取り付けられていたりと、補強と改造が施され、進化しておりました。
余豊璋(のちの百済王 豊璋王)を護衛する、そして百済救済の先遣隊として、船舶百七十余隻が送り出されます。
現在では、最も近い外国、朝鮮半島である。羽田や成田から飛行機で、また、博多など九州からは船で、あっという間に着いてしまうが、当時は、数十日をかけて海を渡らなければならなかった。
中大兄皇子は、護送船団を多数の大和戦艦で組んでいたが、余豊璋の乗船した船では、毎日のように宴会が催されていたのである。連夜のどんちゃん騒ぎをしているのである。
安曇将軍は、これを、とがめようとも思ったが、中大兄皇子が、
「帰国の祝いの宴であろう」
と、放っておかせたのでした。
百済の重鎮、鬼室福信との王子引き渡しの約束の場所は、朝鮮半島の大河、錦江の河口にある百済復興運動の拠点となっている周留城の近く、森の中の小さなお社であった。
海を渡り、やっと、朝鮮半島の大河、錦江の河口が遠くに見えてきた。
岸が見えてきたので大和の朝廷軍の皆は、喜びあった。
目的の半分が達成されたこと、ここまで無事であったこと、後は帰国するのみとの喜びで船中が、沸いていた。
兵士達は戦う前から勝った気になっていた。安曇、中大兄皇子が乗った船と、百済王子の余豊璋の乗船した船以外は・・・
中大兄皇子も安曇も、そして百済軍にいたっても、
(これからが唐、新羅軍の待ち伏せによる戦闘が開始するかもしれない!)
という緊張感と、その用心と備えのために岸辺をくまなく睨みつけていたのである。
余豊璋と百済軍は、4艘の小舟に分かれて、乗船した。そして、中大兄皇子、大海人皇子、安曇比羅夫は、それぞれ3艘の小船に分かれて乗船し、7艘の小舟は岩だらけの磯、岸を目指した。
そして、ついに彼らは上陸を果たすのである。
そこを襲われればひとたまりもないと、皆が警戒していたところ、上陸したと同時に、中大兄皇子は、全ての船を密集させて、縄で繋がせた。
そして、あろうことか、百済の兵士たちがすべて上陸したところを、次から次へと剣と槍で刺し殺していったのである。
百済の兵士も、みんな突然のことであり、足場の悪い岩場の磯である。動けない。そんな中、中大兄皇子は、舞うように、岩から岩へ飛び移りながら、百済の兵士たちを刺し殺していくのである。
唖然とする安曇比羅夫と大海人皇子。その後ろに震えながら余豊璋王子が隠れる。
中大兄皇子は、百済兵の死体を、倭国の兵士に、それぞれの船に積ませた。そして、倭軍の2,3名の兵士を船番として磯に遺すことにして、中大兄皇子は彼らに言った。
「もし、新羅の兵が襲ってきて、この状況を聞かれたなら、唐の兵士にやられた!と、言え。そして、唐の兵士がきたならば、新羅の兵にやられた、と申せ。そして、まもなく、我々の大将たちはここに戻ってくるであろう、と申しておけ。そうすれば、お前たちは助かる」
倭軍の兵士たちは、震えながら頷いたのである。自分達の安全を気遣ってくれたのは、大変嬉しく、頼もしい大将なのだけれど、そのために、それ以上の人間を殺してしまうとは、なんとも恐ろしい人だ・・・と思った。
そして、兵士たちは、
「皇子が戻られた時の合言葉は?」
中大兄皇子は少し考えた。よこから大海人皇子が即座に、答えた。
「ハトの鳴きまねを私がしよう。」
兵士は、頷き、つづいて
「もし、敵が近くに潜んでおります場合は、私がこの、剣を空高く投げまする。」
と言ったのだ。
中大兄皇子と皆が頷いた。
中大兄皇子は余豊璋と自分のお供を連れて、安曇将軍とともに磯の岩場を登り、森の中へと進んだのであった。そして、直ぐに敵に襲われたのである。襲ってきたのは、新羅の兵ではなかった。この河口沿いの森にすむ海賊、山賊のような者達である。
なんとも、運の悪い連中である・・・
中大兄皇子にとっては、腕ならし、立ち向かい殺しまくるのは喜びでしかなかった。
中大兄皇子たちは周りを囲まれたが、蹴散らそうとする自身の護衛の兵をおさえて、後ろにひかせた。そして自分自身で、相手に素手で立ち向かったのである。
最初において中大兄皇子は、武器は持っていない。襲い掛かる賊の持つ武器を奪いながら、その武器で、相手を殺していく。
中大兄皇子は、強いのである。楽しんでいるのが良くわかる。
「おい、おい、おまえの剣は手入れが悪いぞ・・・
」
「切れ味が悪いと、痛いのがナガ~ク続くぞ・・・」
とか、相手に呟いているのである。
そして、ダンダン顔がニヤケてきている・・・
中大兄皇子は返り血を浴び、恍惚の表情にかわっている。敵を殺すごとに何かを呟き始めているようだ。
「人を生かしてこそ人の道・・・」
「人で無いものは生かさぬ・・・」
「生きとし生けるもの、等しく成仏せい!」
などである。敵に囲まれ、それを何人も倒した時などは、力強く、
「遠離一切顛倒夢想!究竟涅槃!」
と唱える。
恐怖に駆られて、殺されていなかった賊の二人は走り逃げ去ろうとした。そこで、中大兄皇子は、部下に、顎で弓で殺すように指図をしたのですが、部下の弓矢は外れてしまいました。
「全く、しょうがねーな・・・」
と呟いて、部下から弓を取り上げ、自身で弓を射た。
見事に矢は賊を背中から貫き、倒した。
そして、もう一人に向かっては、部下の持っていた槍を奪い、遠投したのである。これも、見事に逃げる賊を後ろから貫き倒してしまった。
全員が、瞬きもできず目を見張る。
「ふん!」
と、中大兄皇子は鼻で笑って、先に進むよう、皆の歩みを促したのでした。
そのころ、人質受け渡しの約束の場所、森の中の小さなお社では百済の鬼室福信が、王子の帰還を迎える兵士たちを森の中の小さなお社に派遣していた。
お社に数十人の兵士が固まって集り、休憩を取りながら、王子たちの登場を待っていたのである。
そこを何者かに襲撃され、皆殺しにあってしまった。
薄暗い森に、ポツンと建てられた小さなお社である。
太陽の光が、数本の束になって、スポットライトのようにお社に射している。
周りには、短剣が突き刺さって倒れ、絶命しているもの。何処を切られ、刺されたかは分からないが、殺され絶命し、倒れているもの、座り込んでいる者。
王子受け渡しの約束の場所、森の中の小さなお社の数十メートル前で、中大兄皇子達は、立ち止まった。
「何ということを・・・」
余豊璋は嘆いた。片手の手平を自身の口に当て、涙ぐんでいた。自分を迎えに来てくれた兵士たちであろう、と静かに合唱した。
「誰が・・・」
安曇も、うめいた。屍から推測するに、中大兄皇子と同じくらい冷淡に、淡々と殺していったのであろう。
中大兄皇子は、
「しっ!」
と、皆に静かにするよう、そして身を屈めるよう促し、森のお社の近く一点を凝視したのだった。敵の冷淡な殺気を感じたのである。
第十二話 安曇比羅夫 死す
中大兄皇子は、大和の国で百済の人質である余豊璋を朝鮮の百済に返還するために朝鮮半島に護送してきた。百済復興軍との待ち合わせとした約束の地である森の中のお社にゆっくりと向かって来た。
そして、一同、お社の前の凄惨な光景、何十人もの百済兵の殺され倒された屍を前に立ちつくした。
中大兄皇子たちが、到着する少し前のこと。
そのお社に向かって、音なく近づいていく者がある。
白い長ごろもをまとった若い長身の女性、二人。
片手には、長い剣を持ち、もう一つの手には、手裏剣のような飛び道具であろう抜き身の短刀を、指々の間に挟んで持っている。
そして、その短刀を連ねた帯らしきものを腹、胸あたりに巻いているのである。
白い長衣と、白い長い髪がそよ風にたなびいている。雪女?
十メートルくらいの手前で、百済の兵士たちは、女二人が近づいてきているのに気が付いた。
(この世にこんな美しい女がいるのか?)
というぐあいに、兵士たちは、頬を緩ませ、にやついた。
いやらしい目付きで、見つめていたのだ。
その顔は直ぐにこわばることとなる。
女二人は同時に、手裏剣のような短刀を、兵士の眉間をめがけて投げつけて、次々に殺傷し始めたのである。百済の兵たちは悲鳴を上げる暇もなく倒れていく。
逃げようとするものは、女が飛びついて剣で突き刺していった。
百済の兵たちに、大きな声、悲鳴を極力あげさせず、派手な血しぶきもあげない、静粛なる殺戮である。
数十人、全ての百済復興兵を倒し、二人の女性剣士たちは、音もなく、何もなかったかのように森に静かに消えていった。
お社の周りは、また、薄暗い森の静粛の中に深く包まれていった。
そよ風と、舞い散る落ち葉と、凄惨な血の匂いがお社の周辺には残ったのであった。
暫くして、森の落ち葉を数名で、踏み進む音がする。
中大兄皇子と、余豊璋たちが、ゆっくりとお社に向かって来た。
そして、一同、お社の前の凄惨な光景、何十人もの百済兵の倒された屍を前に立ち止まる。そして全員がその場に立ちつくしてしまったのである。
中大兄皇子以外は、互いに目配せをしている。
(いつの間に、中大兄皇子がやったのであろうか?)
と、今、一同、皆は中大兄皇子の仕業と疑っていた。
その雰囲気を感じた中大兄皇子である。
「俺じゃね~よ・・・今まで、一緒にいただろう?」
と屍を見ながら呟いた。
そして、中大兄皇子は、社の左右後ろの陰あたりを凝視した。
そこから、短刀が中大兄皇子に向かって飛んできたのだ。
中大兄は、自らの剣で、それを払い落とした。
そして、近くの部下に弓を借り、その方向に一矢放った。
矢を放った方角から、白い長ごろもをまとった若い長身の女性、二人が現れた。 片手には、長い剣を持ち、そして、静かに、そして素早く、こちらに向かって来る。
徐々にスピードを上げてくる。
白い長衣と、白い長い髪が風にたなびいている。
中大兄皇子は、皆に
「気をつけろ。相手は飛び道具でくる。」
と小声で囁いた。続けて、
「最初は、近くに来るまでは盾で、飛んでくる短刀から身を守れ。」
と注意して、両隣の兵士に刀を一振りづつ借りた。
そこに、中大兄皇子の両隣にいた兵士に女の投げつけてきた短刀は、突き刺さり彼らは絶命してしまったのだ。
中大兄皇子は両手に刀を持ち、姿勢を低くして飛び出した。
「やろう!」
と叫びながら二人の白い長衣と、白い長い髪の女性戦士の来る方へ向かって行った。
二対一の死闘である。
白い長ごろもをまとった二人の女性は、薄暗い森の、天から降り注ぐ太陽の光を、スポットライトのように浴びて舞うように剣を交える。
中大兄皇子の剣の戦い方も、やはり舞を舞うように繰り広げられる。
一振りするごとに、落ち葉が舞い上がる。
そこに光の帯が差し込んでいる。
中大兄皇子をめがけて女から投げられた短剣が次から次へと飛んでくる。
寸前のところで、のけぞって避ける中大兄皇子であるが、わずかにかすった!
激痛を我慢する中大兄皇子ではあるが、座り込んでしまったのであった。そこに、左右両脇から女性戦士が同時に飛び込んできながら剣を振り下ろす。
中大兄皇子は、すかさず両手に剣を携え、鳥の鶴が両羽を広げるがごとく、左右の女性戦士の胸倉を空中で刺し貫いたのであった。
静止する三人。
中大兄皇子が両手の剣を離す。
胸に剣を突き刺さされた女性戦士は、落ち葉の重なる地上に落ちた。
また、森に静粛が戻ってきた。
呆然と見守る皆を、中大兄皇子は、早く次に進むように急かしす。
森を抜ける中大兄皇子その一隊。
百済復興運動の拠点となっている周留城へと向かうのでした。
森から続く丘の上に堅強な周留城は建てられている。
その高い城壁の一角にある、門の前に、中大兄皇子たちは到着した。
城から遠目に見ていたのであろう、頑丈そうな大きな観音開きの門は、内側に、中大兄皇子達の到着と同時に開門されたのだった。
門の内側、宮廷前広場。そこには、鬼室福信などの百済の重臣と、兵士たちが居並んでいる。
そして、兵士たちは、一斉に整列し、中大兄皇子ほかと、余豊璋王子を城に迎え入れた。
そこで、門はまた、固く閉ざされたのでした。
鬼室福信は、城に迎え入れた余豊璋王子に静かに問うた。
「迎えを出しましたが、全くいないようですが、お会い出来ませんでしたか?」
鬼室福信は、中大兄皇子と、余豊璋王子に心配した顔を向け、問うのだ。
中大兄皇子は、お社での二人の女性戦士とのやり取りを鬼室福信に説明した。そして、倭国からきた百済の兵も、全ての兵士たちは、彼女らに抹殺されてしまったと答えて、余豊璋王子にウインクしてみせた。
余豊璋王子は、これには背筋が凍るほど怯えたのであった。
日が暮れ、一斉に、城壁や広場には篝火がたかれ、館内は、灯で照らされた。中大兄皇子達一行を迎えての宴席となったのだ。
皆、大いに楽しんだ。しかし、余豊璋王子だけは、浮かぬ顔、先ほどから怯えっぱなしなのであった。
宴席がお開きになった後、余豊璋王子と鬼室福信、二人になった時である。
鬼室福信は、余褒章に、この国、百済の王となるためのスケジュールを話し始めた。
余豊璋王子は、うわの空で聞いている。
鬼室福信の
「王子、どうされましたか?」
という、問いかけに、堰が切れたかのように、余豊璋王子は、これまでの中大兄皇子の人を殺しまくる行動を話しつづけたのである。
鬼室福信は、余豊璋王子に対して、今は疲れをとるため床で休むよう促した。
鬼室福信にとっては、この王子のことなど、どうでもよいのだった。今は、倭国軍の中大兄皇子が、倭国の援軍を早くここに連れて来てくれることだけが重要なのである。
余豊璋王子は、何となく、自分が鬼室福信に軽く扱われた気がした。
何とかして思い知らせてやりたい。
俺は、王なのだ!と・・・
しょうもない奴は、どうしようもなく、しょうもないものである。
余豊璋王子は、中大兄皇子一行の帰り道に討伐隊を送り込んだのだ。
翌日、中大兄皇子たちは、昼前あたりでこの周留城を後にした。
鬼室福信は、余豊璋とともに、城の全兵士を門までの道の左右両側に整列させて、中大兄皇子達の一行を見送ったのである。帰り道を進む彼ら一行は、船を停泊させている岩場に、陽のすっかり落ちた夜に到着した。
そしてそこでの光景に安曇将軍は唖然とした。
「あの馬鹿どもが・・・」
夜に火を焚いているのである。
夏の時期である。寒いわけではない。
魚を焼いて夕餉の支度をしているのである。
宵の暗闇に紛れていれば良いものを、焚火で、その所在がまるわかりであった。大和朝廷海軍の鬼のような大将である、阿倍臣の兵隊にしては、変である⁉ と皆が感じた。
何時、阿倍の大将の機嫌をそこね斬首されるか分からない状況で、訓練されている兵たちでなのだ。簡単にスキを見せる訳はないのである。
大海人皇子は、焚火の灯りを、剣に反射させて、炊飯中の兵士に合図をし、前の約束通り、ハトの鳴きまねをして見せた。気が付いた兵士は、事前に取り決めた合図通りに、剣を夜空に高く、上に放り投げた。
周りに敵が潜んでいる!という合図である.
先に取り決めておいたこと。
しかし、中大兄皇子は気にせず兵士の方へ進みゆく。
岩陰や、森の中から、中大兄皇子に向かって弓が一斉に何本も放たれた。
その一本は、確実に中大兄皇子を貫くと思われたのである!
しかし寸前のところで安曇が、飛び込んで矢を自らに受けた。
安曇の胸に突き刺さる弓矢。
一斉に敵兵士は、中大兄皇子に向かってきた。
唐の軍でも、新羅の軍でもない。援助するはずの百済の兵士たちであった。仲間が殺され、屍が船に積んであるのを見た為か、余豊璋の放った城からの追手なのか?
中大兄皇子は、何なく、岩場の足場の悪さを逆に利用するように、岩から岩へと飛び移り、また、切り捨てた敵兵士の屍を踏み台にして、全ての敵兵士、伏兵を切り払ったのであった。
瞬殺である。
あ、っという間の出来事。
中大兄皇子は、倒れ込んでいる安曇を抱きかかえた。
「安曇!しっかりしろ! 」
安曇は、息も絶え絶えである。
もう、生き延びること、助かることはないであろうと思われる。
安曇は小声で言った。
「お~い、あんた、無茶はいかんぞ。」
そして忠告するように、
「あんたは、戦わない時は、スキだらけやからな・・・」
と、安曇は、中大兄皇子の今後の身を案じて、息絶える前に注意するように言い残した。
また、最後に安曇は、息絶える前に中大兄皇子に願った。
「妹のヌカタのこと、頼むで・・・」
頷く中大兄皇子。
安曇は、
「絶対にやで、絶対に約束やで・・・」
と言い残して、息絶えてしまったのである。
安曇は妹のヌカタのことを、息絶えるまで案じていた。
安曇は、中大兄皇子にその後の妹、ヌカタの人生の幸せを託したのであった。
安曇は中大兄の腕の中で、息絶え、そして崩れた。
泣き叫ぶ、中大兄と大海人である。
聖徳太子の十七条の憲法の一節、
一曰。以和為貴。
一にいわく。わをもってとうとしとなす。
これは、安曇の口癖、お気に入りである。
そして、中大兄皇子のお気に入りは、
十曰。絶忿棄瞋。不怒人違。
十にいわく。いきどおりをたちいかりをすつる。ひとのたがうをいからず。
いきどおりを絶って、いかりを捨てなさい。人の思いが違うことを決して怒ってはいけません。
中大兄皇子の頭の中で、安曇の声と、自分の声が共鳴するのであった。
第十三話 倭王 白村江の戦い
安曇将軍は息絶えた。
中大兄皇子は、安曇将軍を抱きかかえながら、天に向かって吠えた。
「なぜにこんなことになるのか!?」
「この世は、なんで、こんなに無常なのか?」
「私はいつまで、人とたがえ、戦い続けねばならないのか?」
「私は、何人、人を殺せばいい?どこに安息の場所がある!どこまで行けばいい⁉」
中大兄皇子は泣き声交じりで次々と叫び続け、天に問うのであった。
いつもは非情に人を殺し続け、人を欺き《あざむき》続けた中大兄皇子であるが、幼きころからの友の死、安曇の死はこたえた。
やっと中大兄皇子は、やってきた時の小舟に安曇将軍の亡骸を抱えて乗り込んだ。
中大兄皇子は倭国軍の本陣、大和朝廷軍の船団に戻るのであるが、それから常に安曇を抱きかかえて離れようとしなかったのである。
九州手前の灘近くに、阿倍比羅夫将軍率いる大船団が、中大兄達を迎えにきていた。
中大兄皇子は、安曇の亡骸とともに、その阿倍大将の指揮艦である巨大戦艦に乗り移る。
乗り移ってからは、葬儀、儀式の段取りを阿倍比羅夫将軍が取り始めたので、中大兄皇子はやっとそこで、安曇の亡骸を安倍臣に渡し、そして離れた。
中大兄皇子は、儀式等のこと、亡骸を阿倍将軍に引き継いだのだった。
ここで、今度は、阿倍臣が、安曇の亡骸から離れないのである。
阿倍将軍は、自身で、丁寧に安曇に刺さった矢の矢先を処理し、矢を安曇の身体から抜き取り、身を清め、衣服を着替えさせた。
そして何日も食べ物を口にしていない。
これには、今度は中大兄皇子の方が阿倍臣を心配した。
とにかく、後は部下に任せるようにと説得し、阿倍比羅夫将軍を安曇将軍から引き離した。
そして、大船団は、一旦、北九州の本陣に帰国したのである。
斉明天皇亡きあとである。本陣では中大兄皇子、中臣鎌足、《なかとみのかまたり》、大海人皇子、そして阿倍比羅夫将軍でこれからの唐、新羅連合軍との闘いについて戦略は練られた。
朝鮮の新羅を蹴散らすなど訳はないのであるが、大陸、中国、唐との闘いは情報が錯綜し過ぎている。また戦力的に倭軍は、かなり劣っているとみられる。
翌年には唐・新羅軍との戦いに、そして、百済復興運動の救援にと、大和朝廷は大船団を組んで百済へ戦闘に向かいます。
倭軍は、大和の国内外を問わず、全ての戦力を投入するつもりであった。
負けると分かってていても、行かなければならない。
助けを求める、困る人がある限り戦わなければならい。
大和の里の絆!
大和魂!
指揮官は安倍比羅夫大将軍。
そして、大和朝廷軍では、ここに百済復興への気運が高まりました。
ところが・・・
西暦六六三年、百済の王、豊璋王(王子の時は余豊璋)は、重鎮であり百済復興運動のリーダー、鬼室福信と対立してしまいます。
この王も、日本で、悠々自適に国賓あつかいで育ってきた人で、自分以外の一族が滅ぼされても何の関心もない、しょうもない王だったようです。
余豊璋は人質としての身分ではありますが、日本では国賓扱いで三十年も優雅に暮らしていたので、苦労してきた百済の家臣たちとは多方面で意見が合わず、彼らの忠言、叱責などが疎ましかったようです。
余豊璋は、倭国では、一応は、人質として地位だったのであるが、今は百済に、王として帰還したのであるから、もっと高貴な贅沢三昧の華々《はなばな》しい生活ができると憧れて、夢見たのでした。
既に滅亡した国家、しかし、家臣や人民が必死で復興中の国家です。しかし、余豊璋は一応自分は国家の王として帰還したのだと、贅沢を我慢することは出来なかったということなのであろう。
余豊璋は、賢人で、重鎮の鬼室福信を斬るという大事件を起こしたり、守るには堅固な要害の地を質素だと逃げ出して、優雅な贅沢な暮らしをしやすい場所に勝手に移ってしまいます。それで敵の新羅軍にやすやす攻撃されたりもしています。
次第に、それまで重鎮たちが必死に取り戻した領地を自ら狭めていってしまいました。
それでは鬼室 福信とは、どんな人であったのでしょうか。
鬼室 福信は、百済の王族・将軍の義慈王の父である第30代武王の甥であったと云われております。
西暦六五五年
百済・高句麗の連合軍は、小国なのにチョコチョコと、ちょっかいを出してくる新羅に攻め入ります。そんな新羅から救援を求められた唐は高句麗に攻め入りますが、三度にわたって敗退してしまいます。唐は高句麗を落とせないとみて、先ず、新羅と連合して、百済への侵略を試みました。
百済、義慈王の時代の西暦六六〇年
唐・新羅の連合軍は現在の韓国扶余にあった百済の王城を包囲し、唐の軍人、劉仁願が、義慈王ら百済王家の一族を捕え、百済は滅亡いたしました。
唐と新羅の連合軍によって百済が滅亡した後も、鬼室福信は、旧臣らを糾合して唐、新羅連合への抵抗運動を続けます。
そして、百済の故都である泗沘城(現・忠清南道扶余郡)の奪還を試みたのでした。
鬼室福信は頑強に抵抗し、唐の将、劉仁願の軍を包囲するなどの優勢な戦いを続けましす。
しかし鬼室福信は、唐の占領軍の将、劉仁願を包囲したときの英雄をスパイとして疑って殺しております。その後、鬼室福信は逆に謀反の心があると疑われて余豊璋に殺されてしまいました。
この頃、義慈王の子であった余豊璋は、倭国との同盟の人質として倭国に滞留していました。百済の王族が崩壊した今、鬼室福信らは、大和朝廷に対して、百済復興の旗印とするため、三十年の間、倭国で人質となっている王子の余豊璋を返してもらうこと、それとともに百済への救援軍の派遣を要請したのです。
この要請に対して、斉明天皇(中大兄皇子の母)は百済王朝の再建を手助けすることを約束し、自ら飛鳥を出て筑紫(九州)へ移ることにしたのです。
そして筑紫への進軍は、各地で武器を調達し、兵を集めながらの長旅となったのでした。
王として百済に返り咲いた余豊璋。
坊ちゃんの、ドングリころころで、お池にはまってさー大変!というとこです。
しかしながら、元々、王など当てになどしていなかった百済残党の兵たちは、倭国一万余りの援軍を得て、百済復興軍として、百済南部に侵攻した新羅軍を粉砕してしまいます。
唐・新羅の軍が、百済へ何度となく侵略、攻撃を加えて来ましたが、重鎮たちは見事に、防衛することが出来たのでした。
かたや、唐・新羅の連合軍は、百済復興軍の抵抗に対して、劉仁軌を将軍とする水軍七千の兵を派遣しました。
唐・新羅の連合軍は、水路からと、陸路から二手に分かれ」攻撃隊を進め、倭国・百済の連合軍を挟み撃ちにして、時期をみて、干満差の激しい白村江近郊におびき出し、干潮のころ、退路が一気に岩肌や砂浜になってしまうところに追い込む。そして小型戦艦を使って、倭国・百済の連合軍を一気に撃滅する作戦をとりました。
陸を回る部隊は、まずは、百済復興軍の拠点である周留城を落としてから水上部隊と合流する手筈となっていました。
陸軍として、唐の孫仁師、および新羅の金法敏(文武王)が将軍となり周留城に向かったのです。
唐・新羅の連合軍の水軍は、早々に白村江に入り、同じく周留城に向かいました。
この時、先に唐に投降し、唐の軍隊に入った、百済の王子、扶余隆が、唐水軍の将軍として参戦していたのである。
その前に、百済王の同じように、しょうもない豊璋王(余豊璋)は、堅牢な城の住み心地が悪いと言って、周留城を勝手に出て行ってしまっていたので、被害にあいませんでした。
その運の良さは、天下一品であります。
そして、無事であり豊璋王(余豊璋)は、倭国水軍に合流したのでした。
西暦六六三年
大和朝廷の大船団は、朝鮮半島の白村江に到着。
そして、そこで百済軍と集結して、倭国、大和朝廷軍を中心に、百済復興軍を組み、唐・新羅の連合軍に戦いを挑むのでした。
唐の水軍は、先に白村江に入り、上陸を開始した後でしたので倭軍の到着をみて、慌てて、戦艦の陣営をたてなおしております。
大戦艦は、港から動かせないような様子です。
実際には動かさなかった。
白村江では、干潮時には大型船は動きが取れなくなることを唐・新羅の連合軍は知っていたのです。
わずかな中型戦艦の周りに、小舟を中心に倭軍の数の二倍の数で陣立てを始めました。
白村江に薄く霧が立ち始めました。
視界がぼんやりとしてきたので、大和朝廷側の戦艦からも、敵軍の様子があまり見えません。 ただ、近くの百済軍が、余豊璋の船を先頭に、景色も見えないままなのに、何の策もないまま、何隻かが白村江に向かって行くのが見えました。
大和朝廷軍の旗艦船に乗船し、全軍の指揮を取るはずであった中大兄皇子と安倍臣は、百済軍、とくに百済の王、余豊璋の軍行に舌打ちします。
中大兄皇子は、百済軍の先頭で指揮をする船に向かって、
「あの、バカ息子・・・」
と罵りました。
安倍臣は、
「そんなに焦ってはだめです。相手は陣形を整え(ととのえ)て、立て直しております。これから、どう出てくるか?情報がなさすぎるのです。相手の出方が分からなければ危険なのです・・・」
と諫めて(いさめて)はいるが、声は届かない。
阿倍臣は、ぶつぶつと、百済のバカ皇子の指揮に愚痴を呟いて(つぶやいて)いるのでした。
霧が晴れ、相手の陣形がはっきりと見えてきます。
余豊璋には、相手方の唐・新羅軍の戦艦に、兄の扶余隆が指揮する戦艦があるのが見えたのでした。
百済の王、義慈王が家族とともに唐の首都の長安に送られ、拘束され、その後、義慈王は病死したのです。百済王子、太子の扶余隆(ふよ りゅう・余豊璋の兄)は、投獄の後に、あろうことか唐に仕官していたのである。
弟にあたる余豊璋は、
「あの、裏切り者が!」
と、百済軍、全軍、そして倭軍援軍までもその兄の戦艦の方向に突入させていきます。
「いかん!」
と、中大兄皇子と安倍臣は、叫びながら追いかけるように全戦艦に指示を出します。
余豊璋の船を全速力で追いかけます。
まるで、百済軍と倭国軍が先を争うように白村江の湾に突入していくのでした。
そして、中大兄皇子は我に返りました。
気が付いた時には、倭軍、百済軍は、唐・新羅軍に取り囲まれることになっていたのです。
中大兄皇子、大海皇子、阿倍比羅夫将軍は、取り囲んでいる敵艦隊を眺めました。
敵の将軍は、作戦通り、というように、ニタニタとほくそ笑んでおります。
阿倍比羅夫将軍は、
「敵の罠にかかってしまった・・・」
と、うめきました。
中大兄皇子と大海人皇子は、船内に走り、単身での帆船にて出航しようと、武具を用意し出陣の準備を始めておりました。二人は、単身の帆船で戦いに挑むつもりです。
阿倍臣は、それをみてなおも嘆きます。
「うっそ~・・・」
大和朝廷は、昔からの付き合いの深い百済を救うため、百済復興軍の援軍に向かうのでした。
そして唐・新羅の連合軍と戦うのですが、日本は白村江の戦いに大敗し、壊滅寸前の状態で敗走して日本に帰って来ることになってしまうのでした。
朝鮮半島の百済を救うために、大陸の、中国、唐に立ち向かった、日本初、倭の国、大和の国の大惨敗!
第十四話 倭王 炎上の海 白村江
歴史書である旧唐書は、語っております。
中国の唐と朝鮮の新羅の連合軍の、唐水軍の大将、劉仁軌は朝鮮半島、百済近郊の白村江で、倭軍と四戦し、倭軍の船 四百隻を焼き、その赤々とした炎と黒い煙は天を覆い、海は倭人兵の血で赤く染まる。
そして、朝鮮での歴史書、三国史記では、
倭国の船兵 来たり、百済を助ける。和船、千艘 白村江に停り・・・
日本、倭国としては、かなりの軍船を送り出し、朝鮮半島の当時の大国、百済復興の援軍に向ったようです。
白村江の海戦は、日本軍、倭軍の劣勢で口火がきられた。
最初から、唐の罠にはまった倭軍。
倭軍、大和朝廷軍の中大兄皇子、大海皇子の兄弟二人は急ぎ、数人の兵士達とともに、日本の東北の民である蝦夷を成敗し、征服・制圧するという、大和朝廷の領地拡大と、基盤がためをする為の戦いで使用した東北遠征の時と同じような、単騎の帆船(現代ではウィンドサーフィンのような、小型シングルセーリングのようなもの)で参戦をした。
その帆船は以前の蝦夷制圧の時の帆船とは違い、マストの帆を、銅板でパッチワークのように張り合わせをして、強固な盾としても働きを持つように、防御力を強化してある。そのうえ、帆船の先端部分には長い金属の刃が、何本も取り付けられている。帆船自体が、強力な刀になるようにしてある。
そして、矢の先に火をつけるための風、波よけのついた、オリンピック聖火トーチのようなものが、種火が消えないように帆を操作するためのマスト、軸に取り付けられており、続けて何本でも火矢を射ることができるようになっている。
以前とは比べものにならない位に、補強、改造が施されておりました。
中大兄皇子、大海人皇子の兄弟が、東北遠征での戦いから帰っても、阿倍比羅夫将軍ひきいる日本海側の港を拠点とする海軍に残り、あれから次々に帆船を自分達の戦いやすい武器として改良を重ねてきたのでした。
中大兄皇子、大海人皇子、そして倭軍の兵士たちは次々に、浅瀬で動けなくなった倭軍の大型軍艦から、帆船ごと海に飛び込み、帆に風をうけ戦闘体制を整えるのでした。
胸と胴を隠すだけの、軽量で簡易な鎧と、頭にがんじょうな革を巻き付け、兜の代わりにしている。
そして、帆の操舵棒を胸に縄でくくりつけ、両手を自由にし、自由に弓を射る体制にある。
兵士たちの中には、矢の先に火をつけて敵艦めがけて、次々に弓を射る者達もいる。
唐・新羅の連合軍は、倭軍船団を挟み撃ちにしながら、さらに、倭軍の戦艦1艘を倭戦艦より小型の戦艦2艘で挟み撃ちにして、左右両側から攻撃を仕掛けておりました。
相手は小ぶりの戦艦とはいえ、倭軍めがけて片側に集中する新羅・唐連合軍の二艘と、左右両側の二方向を相手にしければならない倭軍の戦艦の戦いとなってしまいました。
一対二の戦いに、倭軍の戦艦は一艘づつ火だるまとなり、沈められていったのです。
中大兄皇子ひきいる、倭軍の単騎の帆船軍団は、敵戦艦のあい間あい間を駆け巡り、火矢、弓矢で果敢に戦った。
中大兄皇子は、まず、燃え盛る船のあいまを吹き抜ける風と、高波を利用して帆船を空高くジャンプさせる、そして敵艦の片端に飛び落ちるように船体を叩きつける。
そして次に続く部下の帆船が間をあけずに同じように、同じところに、自身の船体を叩きつける。敵の艦船は、片揺れがどんどん大きくなり、そして、ついには大揺れして転覆してしまう。
また、先端の刀のような部分を相手の船に何度も繰り返しあてて、穴をあけて浸水させる。
斜め後ろに控える護衛役の部隊は、その敵艦めがけて火矢を次々と射るのである。援護射撃ともいえるが、敵艦を炎上させるのも目的である。
皇子たちの護衛にまわった隊員は大変である。緊張する。後ろから皇子の帆船に、自身の船体の先の刀があたらないよう気が気ではない。
帆船にブレーキなどない。
帆いっぱいに取り込んで受けている風を逃がすか、帆を逆にして、逆風を受け、バックするように止まるか。
左右前後に向きを変えながら大変な技術である。
選りすぐりの訓練された兵士たちである。
中大兄皇子らは三隻一組で船体の合間を縫うように走り回る。
敵船から大量の弓矢が雨、霰のように飛んでくるが、それに向かっていく場合は、銅板で補強されたマストで防御し避けている。しかし、ジャイブしてターンをした場合、相手に背を向けるかたちになってしまう。
ジグザグに帆船を操り、後ろから飛んでくる敵の矢は避けるしかない。
後ろを見る訳にはいかない。
中大兄皇子も、大海人皇子も、おのおの隊列を組んでおり、後ろに護衛が二艘ついておりました。Uターンしてからの後ろとなる敵の攻撃には、防ぎようもなく、防御などが出来ない状態で、背中をさらしてしまいます。大体は、最後尾の戦士が敵の飛び道具にやられてしまう。
その場合、すぐに、別の補充の兵が回り込む手筈にはなっているようである。
倭軍の戦艦の隊列、他の部隊が帆船を掩護して敵に対抗して弓をいる。
単独で狙われないように、帆船と帆船との間隔はつめておかなければならない。波状攻撃とならなければならない。危険極まりないのである。
どうしても、相手を沈められない場合は、相手に向かっていき、銛を打ち込み、船体とともに、大きくジャンプをして相手戦艦に乗り込むのである。
敵艦甲板上で弓を一度に数本同時に射る、舞うように、大きく長い薙刀を振り回す。 両の手に剣を持ち、身体ごとまわり、敵を切り倒す。刺す。
血みどろの肉弾戦である。
中大兄皇子がもっとも得意とする戦法である。
そして、船上の敵らの全体のすきを見て、帆船とともに海に飛び込むように戻る。
素早く体制を整えて敵艦から遠くに距離をおく。
背後には、赤き海に沈みゆく敵船体がある。
日本書紀は、戦いの様子を、次のように語っております。
初戦で、倭国軍は唐軍に負けてしまい、一旦退却します。その後、日本の将軍と百済の王が、先をあらそうかのように唐・新羅連合軍に攻めこんでゆき、霧で前があまり見えないにもかかわらず、なんの策もなく猪突猛進していった。そのまま敵(唐・新羅軍)の作戦にはまり、挟み撃ちになった日本と百済の連合軍は、唐軍の猛攻を受け大惨敗をしたのでした。
中大兄皇子と、大海人皇子は、単独で隊列を組んで健闘、そして阿倍比羅夫将軍は、指揮を立て直し、しょうもない百済のバカ息子の王の指揮系統を断ちきり、奮闘いたしました。
この時点では、すでに遅く、倭国・百済連合軍は壊滅的に敗退したのでした。これで百済復興勢力は崩壊し、百済王の余豊璋は同じ朝鮮の大国、中国の唐が何度、攻撃をかけても敗退した、高句麗へ亡命したのでした。
しかし、壊滅的な打撃をこうむった倭国軍は、敗走したのですが、不思議な記述をしている歴史書もあります。
軍船など壊滅状態なのに、百済の皇族、貴族など多数を救出して、日本に連れ帰っている、と云うのです。
日本の豪族たちは、この白村江の戦いの敗戦での出費、新たな国防への出費などで疲弊しており、朝廷、とくに中大兄皇子への不満が渦巻いておりました。
中大兄皇子は、今後の国内政治には大海人皇子を加え、中臣鎌足とともに協力を仰ぎ、ご自分の権力をより一層、強大なものにしてゆくのでした。
中大兄皇子たちは、この敗戦での豪族の不満を解消させる目的で、地方のあらゆる人が官僚になれるような路が開けるように現状の官位を、十九から、二十六に増やしました。
一般の人々への人気取りです。
現代でいう、副大臣だの次官だの官職を増やすというものです。
そして、人は皆、平等として大化の改新で、豪族たちに奴隷を持たぬこと、人を奴隷としないこと、武器を持たないこと、などの法律をつくりましたが、豪族の不満を解消させるために、武器を与え、武器を持つこと、奴隷を持所有することを再度、許したのでした。
鬼のような中大兄皇子の目指したものは、聖徳太子の目指した律令国家。
政治と、権力の死守に奔走することとなります。
中大兄皇子の非情ともいえる力は、国内の、人としての道徳なく、鬼のような一味を抑え込むため、必要だったのです。
どんなに無茶な強権発動であれ、人との戦いを無限に繰り広げることになろうと、この国、朝廷を永遠に存続させようとしたのでした。
そして、大和の国の皇子達の戦いは、続くのでした。