第1話
トンネルを抜けた先、非常階段の向こう側。
御伽話やファンタジーによくある異世界に通じる扉、ここではない何処かへ繋がっている所。
自分の場合、その入口になったのは横断歩道の黒い部分だった。きっと誰もが一度はやった事のある、横断歩道の白い線から落っこちたら死んでしまうゲームのあれ。高校生にもなってちょっとどうかとは思ったけれど、一歩目で白い線を踏んでしまったものだから、なんとなくその後も白い部分だけを進んで行った。
四歩、三歩、二歩。もう少しで横断歩道を渡り終えるというところで一歩、歩幅がずれた。幼馴染でもある後輩との会話に気を取られて、あっと思った時には踏み出した右足が横断歩道の黒い部分に乗っていた。因みにこの、黒い部分に落ちた時の死因は人によって異なる。ワニに食べられるとか、雷に打たれるとか。友達に聞いてみると結構地域差が出て面白かったりする。僕のご近所ではどうやって死んでしまうのがセオリーだったろうかと、呑気に考えていた所で右足が地面に沈んだ。
「えっ」
もしくはあっとか、わっとか。ともかく間抜けな声を上げていた気がする。
何せアスファルトの地面が突然沼地みたいに柔らかくなって一気に膝下まで持っていかれたのだ。降り積もった雪に嵌ったような、生ぬるいお風呂に浸かったような奇妙な感じ。ずぶりと沈んで体の自由を奪われる。気が付けば腰まで埋まって肩まで浸かって、そのまま一気に頭のてっぺんまで黒の中に包まれてしまった。
隣を歩いていた幼馴染がひどく驚いたような顔で此方を見つめていた。そりゃあね、急に人体がアスファルトに吸収されたらあんな顔もするだろうね。それは落ちるというよりは吸われているという方がしっくりくる感覚だった。どんどんずるずる地面に埋もれていく様は絶対に見ている方がトラウマになる恐怖映像だ。僕がうっかり横断歩道の黒い部分を踏んでしまったばっかりに申し訳ない。
気が付けば視界は真っ暗闇に染まっていて、何処からどこが上下で右左なのか何も分からない。ただ、ジェットコースターで落ちた時とか高層ビルのエレベーターに乗った時。あの、お臍がひゅっと浮くような、そわそわする感覚がずっと続いているので恐らくは落ちていた。1分か10分か。定かではないけれど、時間が経てば経つほどにその感覚は強くなっていた。下に下に、吸い込まれていく。
必死になって自分を引っ張っている誰かがいて、ものすごい勢いで自分はそちらへ向かっていた。流れるプールで自分だけが逆方向に進んでいるような苦しさと、果てしなさを感じる。確かに落ちているけれど終わりは見えなくて、いつまでもそうしていたくなかったので自分でもなんとか暗闇を掻いてみる。ざぶざぶ、無理くり何かを掻き分けていくように腕を振るい懸命に脚をばたつかせる。
思い切って空に伸ばした手を、その時不意に、誰かが掴んだ。
ずるんと暗闇から勢いよく飛び出し地面を転がる。それはウォータースライダーのゴールに近い感覚だった。突然あまりにも鮮明に視界が開ける。何か自分が違う所から出てきてしまったのだと瞬時に理解が出来るくらいには、あまりに浮世離れした世界が、僕の目の前に広がっていた。
キャンドルが、空を漂っている。
色とりどりのランタンが町のいたる所に吊るされていて、顔のついたカボチャ灯籠もあちこちでニッコリ笑っていた。石畳の地面、レンガ造りの家。影はくっきりとオレンジ色をしている。何処からともなくカラフルな紙吹雪が降り落ちてきて、その摩訶不思議な夜の世界を彩っていた。恐らくは建物の影や閉ざされた窓の向こう。くすくすけらけらと、無邪気で無遠慮な子どもの笑い声に混じって、トリックオアトリートと囁くいくつもの声が聞こえてくる。姿は見えないのに沢山の気配が側にあって、好奇の視線が鋭い針のように自分の全身に突き刺さっているのが分かった。
『ハロー鑑賞者の皆々様! ようこそいらっしゃいサーカスへ!』
「わっ?!」
キィンとハウリングする甲高い声。スピーカーなんかはどこにも見当たらないのに、芝居掛かったアナウンスの声が何処からともなく響いてきた。声は溌剌と、ハイテンションに意味不明な言葉を繰り返す。聞いている此方が息つく暇もない程、マシンガンのような激しさでまくし立てる。
『本日のステージは不気味で愉快なハロウィンナイト! 可憐で空っぽなシルク嬢のショウタイムです!』
可憐で空っぽ。
なんだか薄ら寒くなるような、いやな物言いだ。思わず眉を顰めた所で、ズッと鼻を鳴らす音がした。誰かが嗚咽を堪えているような。無邪気な子ども達の笑い声や機械的に繰り返されるトリックオアトリートよりもずっと近くでそれは聞こえて、おや、と思いつつ顔を真横に向けた。