【コミカライズ】私あの時、不幸でよかったです。
マリアは夫アンディから離縁された。
結婚から十数年経っても、子どもが出来なかったからだ。
家と家との契約であったとはいえ、マリアは離縁されたことに深く傷ついていた。アンディは厳格な貴族男性で、甘い会話も交わさないような毎日を共に送ったが、彼女は〝結婚とはこういうものなのだ〟と、特に現状に疑問を持つことなく生活していた。
しかし彼女の信じていた平和な生活は、子を成さないという一点のみで断絶した。
それからマリアはアンディと過ごしたギルバート家から実家のアルブール家に帰り、意識を失ったかのように呆然と生活していたのだった。
父も母も、離縁された娘をお荷物扱いしていたのは明白だった。
帰ってきた途端、彼女はこう両親から告げられたのだった。
「次の結婚相手を探して来たから」
マリアはきっと、次も離縁されるだろうと思った。
「子を成さないのは、女の畑が悪い」
前夫とその周囲が、そう言ってはばからなかったからだ。
次もきっと、子が出来ず離縁されるだろう。
ただ、親が次に発した言葉は、思いがけないものだった。
「ローヴァイン公爵当主、テオの元に嫁げ」
「!」
マリアが驚いたのも無理はない。
ローヴァイン公爵テオは、少し前に王宮を定年退役した軍人公爵。マリアより三十ほども年上の老騎士だったからだ。
式の当日。
かつての金髪には銀が混じり、口髭を生やした大柄な老紳士、テオがそこにいた。
マリアはそれが新たな夫との初対面。
(まるでライオンみたい)
彼はまさに老いたライオンのような、威厳と老獪さを併せ持った男だった。
貴族と聞いてすぐ想像するような、エレガンスさとは程遠い険しい風貌。
式も、どちらの家も結婚は二度目であるということで、そこまで大きな式はしなかった。
ローヴァイン領の小さな教会で式を挙げた後は、ひっそりと身内のみで食事会が行われる。
マリアは式用の赤いドレスだけを嫁入り道具にして、ほいっとローヴァイン家に投げ入れられた形となった。
(まあ、あの家にずっといるよりは、いいか)
マリアは不思議と絶望していなかった。
というのも。
式の間、テオはマリアと目が合うたびに、笑いかけてくれたからだ。
そう、まるで女というよりは、娘か孫でも見るような微笑みで──
(不思議な男の人)
前夫は、何か彼女に弱みを握られやしないかと慎重に慎重を重ねて生活しているとしか思えないほど、神経質な男だった。対してテオはそういった神経質さを老いゆえか全てかなぐり捨てており、まるで丸裸の子どものような男だった。
マリアは自室に辿り着くと、式後の疲労に任せ、ベッドに少し横になる。
──と。
ノックの音がして、マリアは再び起き上がった。
「……どうぞ」
声をかけると、その扉を開けて現れたのは、テオだった。
「……何か御用ですか?」
マリアが問うと、テオは扉から半分だけ身をねじ込んでじっくりと彼女の顔を眺め、こう告げた。
「いや、いいんだ」
「?」
「疲れただろう……ゆっくり休むがいい!」
「え、えーっと……」
それきり扉は閉められた。
マリアはぽかんとするが、同時にほっとする。
(私の顔、疲れてそうに見えたのね)
事実疲れているのだから、彼の読みは当たっている。
初夜であるから、無理にでもそういう流れになるのかと警戒していたが。
(そうね。疲れているもの。今日はお言葉に甘えて、ゆっくり休もう)
マリアはそのまま自室で眠りに落ちる。
その三時間後、眠りこけた妻の顔をそうっとテオが覗きに来たとはつゆ知らず──
朝になり、マリアは侍女にドレスを召し替えられ、初めての朝食を摂る。
式の前に、彼女は両親からローヴァイン家の親族や家族構成を教えられていた。
現在、このローヴァインのお屋敷に住んでいるのは召使いとテオのみ。
テオには妻も子もいない。彼は最初の妻を、結婚後すぐに病気で亡くしていた。それからはずっと独り身であったらしい。
退役を機に、再び妻を娶る気になったというわけらしかった。
マリアが食堂に着くと、その向かい側でにっこり笑うテオがいる。
彼女も遠慮気味に微笑む。すると、彼はうんうんと頷いて見せた。
マリアはほっと胸をなで下ろす。
(何だろう。とても温かい人)
感触は、悪くない。気を張っていなくても、彼は前の夫のように、咎めるような視線で刺してこない。
食事が始まると、夫は早速話を投げて来た。
「マリアの好きなものは、何だ?」
突如降って湧いた話に、マリアはどきりとする。
貴族ならば、話し方に段階があるはずだ。探るように、段階を経て本題に入るという話し方だ。それが貴族のエレガンスさ、高潔さを表しているからだ。
しかし、彼は何でもおおざっぱで直球なのである。
マリアはそれに驚きはしたが、彼の作り出す自由な文脈に心がほぐれて行く。
「そうですね。私は……レースが好きです」
本当に、自由に回答してみた。するとテオは否定せずに頷く。
「ふーむ。競馬が好きか?」
「ち、違います。レース編みです……」
「ああ、そっち……そのレース編みとやらで、何を作る?」
「最近はショールを作りました。あとは、飾り襟などを」
言いながら、マリアはふと、前回の結婚のことを思い出していた。
正直に言うと、レース編みは何もすることがないから、やっていただけだったのかもしれない。
急に心の中に闇の部分が這い出して来て、マリアは顔が白くなる。
「……マリア?」
呼びかけられ、ようやく彼女は我に返った。
「好きなことを話している顔ではないな」
マリアは困ったように微笑む。
なぜこの人は、そんなことまで見抜いて来るのだろうか。
「あと……無理に笑わなくてもいいぞ」
マリアは恐縮して赤くなった。
「自然でいい。その方が、君はずっといい顔をしているはずだから」
マリアは頬を染めたまま、向かい側の老騎士を眺める。
前夫はマリアが黙って下を向いていると〝女のする顔ではないぞ〟と指摘して来たものだったが……
「……はい」
「まあ、何かにつけそう教育されたのだろう。うちではのんびりしろ。私は君を恐縮させるために娶ったのではない」
「……」
「もう私は、地位や名誉や世継などというものには、興味がない。先に言っておこう。私が君を妻に迎えようと思ったのは──話し相手が欲しい。それだけだ」
マリアはきょとんと目を見開く。
「話し相手……」
「勿論、あわよくば愛されたい」
「!」
「下心丸出しですまない。私みたいなじじいが何を言っているのだろうとお思いだろうね」
「いえ……」
「まあ、あれだ。私が死ぬ時に、覗き込んでくれさえすれば良い。そうなれば、なかなかいい人生だったのではないかと思える……そんな気がするんだ」
死ぬ時。
マリアは齢30とはいえ、まだ若かった。死のことなど、まるで遠いような気がする。対してテオは、もう死を意識する歳のようだ。
(彼が死ぬ時に、私はどんな顔をしているのかしら)
それは今のところ、予想がつかなかった。
ただ。
(案外、悪い顔はしてないんじゃないかしら……)
マリアは初めて男性に対して湧き上がって来る感情を、しばし受け入れられずにいた。
(私、きっとこの人を嫌いにはなれない気がする)
「君は黙ってばかりいるな。今いい顔をしていたが、何を思ったのか口に出して言ってみろ」
マリアは真っ赤になった顔を上げた。
テオは促すように、にこりと笑う。
「あ、あの……」
「うむ」
「私、その……」
「何だ」
「こ、ここでは恥ずかしいから、あとで言いますっ」
テオは口を尖らせた。
「焦らしているのか?なかなかやりおる」
マリアは首と耳まで真っ赤になった。
テオがやたらと人の顔色に聡い理由が、執事との会話から判明した。
「テオ様は軍を率いておられました。人心掌握が出来なければ、人の上には立てません。敵や部下の顔色を一瞬で見抜けなければ、ここまでの地位を築くことは出来なかったのではないでしょうか」
公爵家にある茶会用食器をひとつひとつ見つめながら、マリアは頷いた。
「なるほど、そういうわけでしたか。私、驚いてしまって……」
「職業病のようなものです。あんまり心を見抜くので伝説の騎士と評される方もいらっしゃいますね。テオ様と話すと誰もが驚き畏怖しますが、気づけば皆さま、人の好さにほだされてむしろ信頼を置くようになるものです」
マリアは窓の外を眺めた。
遠くでテオが乗馬をしている。
「ところで奥様。初めてのお茶会はいつ頃がよろしいでしょうか……」
マリアは執事の声が耳に入らず、その老騎士の整った背筋をじっと眺める。
「乗馬……」
「はい?」
「ちょっとやってみたいわ。娘時代に、手習いしたきりだけど」
「えーと、お茶会はいかように……」
「いつかやるわ」
マリアは考える。
お茶会で他家の女との輪を広げることよりも、今やらなければならないことがある。
(あの人のことが、もっと知りたい)
乗馬服に身を包み、颯爽と登場したマリアにテオは目を丸くする。
「おお、これは一体どういう風の吹き回しだ?」
マリアは答えた。
「子供の頃を思い出しましたの。私も馬に乗ります」
連れて来られた馬に跨り、マリアも背筋を伸ばす。
常歩で並ぶと、馬に乗りながらテオが言う。
「乗馬をやるのかね。意外だな」
「最近は、やっておりませんでした。年頃になるとじゃじゃ馬になるのではと、父が嫌がりましたので」
「もう年頃も過ぎただろう。なまった体を動かすのに、乗馬はちょうどいい運動になる」
テオが走り出したので、マリアもそれに続いた。
ギルバート家の中でじっとしていたあの十年。
一挙手一投足にまで口を出された、かつてのみじめな自分。
馬を走らせると、そういった重苦しい思い出が、びゅんと遠くに飛んで行くような気がした。
マリアはテオを追い抜かし、背筋を低くして広々とした庭を駆ける。
手綱をぐいぐいと操作してくるりとカーブを描いたかと思うと、彼女は再び夫の元へ舞い戻る。
テオは妻を見て目を細めた。
「こりゃ驚いた。そこら辺の騎士より手綱さばきが上手だ」
「はい。馬を取り上げられるまでは、毎日のように乗っておりましたから」
言いながら、マリアは気がついた。
自分がしたいことを思いつくままにしたのは、いつぶりだろう。
いつも、そうだった。
父や夫が出て来ては、あの手この手で彼女を理想の女像に押し込めようとする日々が続いていた。
いつの間にかそれが当たり前になり、マリアは自分を出すことを忘れていたのだ。
「テオ。競走しましょう、あの木まで」
「いいだろう。それっ」
「あっ、ずるい……!」
二人はその日一日中、まるで初めて出会った近所の子ども同士のように馬遊びに興じた。
しかしその野外遊びが、思わぬ事件を運んで来ることとなる──
次の日。
テオは朝から寝込んでいた。
執事や侍女らがひっきりなしに彼の寝室を往復し、屋敷内は騒然としている。
マリアは自室の隅で肩を落としていた。
「私のせいで……」
乗馬をしながら少し肌寒さを感じたりしたが、それがまさかこのような形で彼に襲い掛かって来るとは。
熱が高いというのでテオは隔離され、医師からは妻と言えどもしばらくの接近禁止を言い渡されてしまった。
(もし、このままテオが死んでしまったらどうしよう)
マリアはきゅうっと痛む胸を抑えた。
と同時に湧き上がって来たのは、今言わねば後悔する、あの言葉。
マリアは立ち上がった。いつの間にか、思いついたらすぐ行動するという本来の性分が姿を現していた。
自室を出、向かうはテオの寝室。
だが執事が扉の前に立ち、さっと彼女を押しとどめた。
「奥様、今は部屋に入ってはなりません。お医者様からもお話があったでしょう」
マリアは首を横に振った。
「私、昨日テオから言われましたの。彼は死ぬ時に、私に顔を覗き込んで欲しいと」
執事は驚きにぽかんと口を開けた。
「……は?」
「だから、覗き込んであげないと可哀想です。お願い、彼に会わせて」
「奥様……」
執事は少し悩んでから、扉を開けた。
「どうぞ」
マリアはばたばたと部屋に駆け込む。ベッドの上のテオは、真っ赤な顔で苦し気にうめいていた。
「……テオ!」
新妻の呼びかけに、テオはつぶっていた目をぱっと開けた。
「マ、マリア……?」
「心配になって、来てしまいました」
「馬鹿な……今すぐ部屋を出ろっ。君に感染しては困る……」
テオは掛布団を目深に被り顔を隠そうとする。が、
「あなたが好きです」
妻のその声に、再び布団から顔を出した。
「何だ、急に……」
「聞こえませんでしたか?私、あなたを好きになりました」
「マリア……?」
「だから、今死なれては困ります」
テオはぽかんとしてから、妻の顔を見上げる。
マリアは何度も目をこすっていた。
「し、死なないぞ」
テオは慌てて言った。
「死んでたまるか。絶対……!」
彼はマリアの手を握る。
「だから、泣かないでくれ。こんな風邪すぐに治る……すぐに元気になるから」
マリアはその必死な様子に、泣きながら笑った。
「……はい」
「結婚早々、申し訳ない。気苦労をかける」
「あなたのためにする苦労なら、私、大丈夫です」
「……老いぼれに嬉しいことを言ってくれるじゃないか」
二人はくすくすと笑い合って、手を離す。
まるで根拠はないが、マリアは今、テオはすぐに元気になってくれると確信した。
「私、早くあなたと乗馬がしたいですわ」
「ああ、約束しよう」
マリアは気が済むと、手を小さく振って夫の寝室を出た。
テオはそれを見送ってから、天井をじっと眺める。
「老いらくの恋、か……」
彼は目を閉じ、初めてマリアを見た時のことを反芻する。
あれは三年前の、王室主催の社交パーティでのことだった。
ギルバート家も参加しており、その時にテオは、かのマリアを城内で見かけたのだ。
ギルバート家の長男アンディは神経質そうな男で、彼女を隅に追い詰めては、何かにつけきつい口調で命じるのだった。
あそこにいろ、ここにいろ、もっと笑え、このように言え──
テオはそれを、釈然としない思いで見つめていた。
「女をあんな風に扱って……きっと失った時のことを考えたことがないのだろうな」
テオは早くに妻を亡くしていた。
「私の場合は、出征中に妻を亡くしてしまった。さよならも告げられなかったんだ。一度は縁あって娶り、愛した女を、ひとりぼっちで死なせてしまった。それからは結婚する気など失くしていた。けれど前の妻の死から何十年と経ち、更に君が離縁されたという噂を聞いて──」
テオは、すぐそばにあるマリアの肩に額を乗せる。
「なぜか、マリアをひとりにしたくないと思ったんだ」
マリアは、夫に背後から抱かれ、幸せそうに微笑んだ。
あの大病から一か月後の、晴れた日に。
テオは前にマリアを乗せ、ゆったりと馬を歩ませている。
「女の不幸そうな顔は、見るに堪えない。あの悲し気な表情が、ずっと私の心に尾を引いていた。それが、つまるところ恋の始まりだったというわけなのかもしれん」
それを聞くと、マリアは勝気な顔を作って言う。
「私、あの時、不幸でよかったです」
テオは快活に笑った。
「そう言ってくれると、君を娶った甲斐がある」
マリアはあれから新たな乗馬服を何着か作った。乗馬のコーチもつけ、貴族男性に交じってレースにも出た。結果は散々だったが、まさにじゃじゃ馬に変貌したマリアのファンが日に日に増え、お茶会など催さなくても彼女は社交界に引っ張りだこになっていた。
二人は乗馬の練習場に着いた。
マリアは馬を降りるとテオに口づけ、手を振って春風の中を走り出す。
テオは踊るように走り行く妻の背中を見つめながら、小さく呟く。
「私もあの時、不幸でよかった……」
互いの小さな心の淀みが、春の暖かい光に溶かされて行く。
マリアはそれからもめげずに練習を重ね、男性貴族に混じって小さなレースに出続けた。
三年後に第一子を懐妊し、引退するまでは──