②
魔法瓶のお湯を茶こしに乗せた茶葉へかけると、湯気と一緒になって、新茶の芳醇な香りが居間の中に匂った。
「粗茶ですが……」
湯呑へ注いだ緑茶を二人の手元へ置くと、山藤悠一は軽くお辞儀をしてから、
「連絡もなしに押しかけて、申し訳ありません。――つかぬことを伺いますが、高津さんの事情聴取を担当なすった、関と墨山という方のお名前をご記憶ではありませんか」
僕しか知らないはずの刑事さんの名前が出て、湯呑を持つ手が滑りそうになった。関、墨山という名前は、僕の取り調べを担当した警視庁捜査一課の関刑事と墨山警部補以外に心当たりがない。
「――じゃ、やっぱり、本当の探偵さんなんですか」
もらいものの草加せんべいがのった菓子盆をすすめると、その隣でしきりにお茶を吹き冷ましていた学生服姿の少年、猫目大作が、
「探偵長、やっぱり広告費をもっと割きましょうよ。こんなこと言われて、恥ずかしくないんですか」
「猫目、ちょっと黙ってろ。……申し訳ありません、教育がなっておりませんもので」
こたつ布団の下で膝をつねったのか、猫目大作は痰が絡んだような悲鳴を上げると、すっかりおとなしくなってしまった。
「――二人は警視庁上層部と僕らの間に立つ、仲介役なんです。で、彼らを通して、警視庁としては今度の一件をさつき探偵社に一任したい、という提案がもたらされたわけです」
「ってことは……今度の事件、警察がサジを投げるほど難しいんですか」
僕の問いに、山藤悠一は黙って首を縦に振った。
「というよりは、事件の性質そのものが警察の手には負えないもの、と言ったほうがいいかもしれませんね」
「警察の手に、負えない……?」
言葉の意味が分からずに困惑していると、猫目大作が人差し指を立てて、
「世の中には、国家権力をしても容易に踏み込めない領域や物事があるのさ。そこへ代わりに切り込んでゆくのが、我らさつき探偵社の使命なり――と、こういうわけ」
「手前味噌ですけど、まあ、そういうわけです」
恥ずかしそうに顔を赤らめながら、それでも自信満々に語ると、山藤悠一は袖をまくって腕時計をちらと見てから、
「高津さん、ちょっとお時間、よろしいですか? 場所を変えてお話をお伺いしたいと思いまして……」
「場所を変えて、って、どこへ?」
僕の疑問に、猫目大作が答える。
「銀座四丁目、服部時計店のはす向かいにあるビル。まあ、来ればわかるさ。――探偵長、キー借りますよ」
「おう、先に行って、エンジンを温めておいてくれ」
木工細工のコロポックルがぶらさがったキーを受け取ると、猫目大作は表へ出て行った。あとに残された僕と山藤悠一は、めいめいの身支度を整えると、窓ガラス越しに聞こえるエンジン音のほうへと向かった。
「――わあ」
思わず声を上げたくなるような車が目の前にはあった。昔見た、「三丁目の夕日」の映画に出てくるような、丸みを帯びたデザインの黒い高級乗用車が、後部座席のドアを開けた状態でデンと控えているのだから、無理もない話だ。
「祖父の代から乗ってるクラウンなんです。だいぶ無茶な乗り方をしてますけれど、案外丈夫なのでこっちがビックリしてるくらいで……」
「これ、もちろんマニュアル車ですよね?」
「ええ、そうですよ。乗り始めたころはクラッチの切り替えでよくエンストさせて、困らせましたっけ」
のんびりと自動車談議に花を咲かせる山藤悠一に聞き入っていると、助手席に控えていた猫目大作がクラクションを軽くはたいた。
「――探偵長、そろそろ出ましょう」
「わかったよ。さ、高津さん、後ろへどうぞ」
僕が乗り込むのを待って、扉をそっと閉じると、山藤悠一は運転席へうつり、
「じゃ、出発しますかね」
ギアを切り替えるたびに高鳴るアクセルの音を残しながら、山藤悠一の運転するクラウンは、ゆっくりと住宅街を抜けていった。
見慣れた景色が後ろへ流れだしたころ、ふと、ある疑問が頭の中をよぎった。
「あの、山藤さん……」
「悠一でいいですよ。で、なんです?」
「――悠一さん、お年は僕と変わらないぐらいかなあ、なんて思ってたんですけど、日本だと車の運転免許がとれるのって、十八歳からでしたよねぇ……?」
乗っておいていまさらこんなことを尋ねるのがそもそもおかしいような気もしたが、悠一さんはそんな僕に文句ひとつ言わず、背中を見せたまま、パスポート代の大きさの、黒いものを手渡した。
「簡単な英語だから、多分読めると思います。いつだったか、社会党の蓮岡議員がやり玉に挙げてた『国際私立探偵連合』のライセンスです」
黒革に金で押した、国連によく似たマークのそれをパラパラとめくるうちに、なんとなく、理由が読めてきた。
――そういうことかあ。
長い条文をかいつまんでしまうと、こういうことになる。「各国は警察の手の及ばぬ領域の犯罪を解決し、恒久の世界平和を実現するべく、興信業を営む私立探偵諸氏に、年齢を問わず最低限の武器携帯と、各種運転免許取得を認めるべし」――。
「そういえば、中二の時に加盟のニュースを聞いた覚えがあります。すっかり忘れてましたよ」
「仕方ありません、政権が変わったのと時期が被さったから、あんまり大きく扱われなかったんです。そのせいで、今でも知らない人が多いんですよ……」
そういうと、悠一さんは簡単に、本部がイギリスにあること、国連加盟国の三分の二以上がこの団体へ加盟していることなどを説明しながら、すいすいと車をごぼう抜きにしていった。
やがて、雑居ビルの多い国道を抜け、湯島の聖堂を超えたあたりから、舗道を歩く人の恰好がだんだんと洒落っ気を帯びだした。銀座はもうすぐそこらしい。
「――そういや猫目、木場美沙緒が夕方の顔になるって噂があるらしいな。帯で月から金までってハナシだけど」
「え、本当ですか」
ハンドルを握る悠一さんの口から、知っている名前が出たことに驚いて声を上げると、猫目大作がくるりと頭を後ろへ回して、
「高津さん、ひょっとして『ウェンズディ・ナイト』のリスナー?」
「そうです! もう、それこそ始まったころからの……」
僕の答えに、それまでブスっとしていた猫目大作の顔が、途端に笑顔になってゆくのがわかった。
「そうとわかってたら、あんな言い方をするんじゃなかった。高津さん、さっきはごめんなさい。――まさか、こんなところでミサ姉ェのファンに会えるとは……!」
木場美沙緒のことを「ミサ姉ェ」と呼ぶのは、熱狂的なリスナーだけだ。どうやら、猫目さんはそのケがあるようだった。
「先週の放送、録音してもらったのを昨日聞いてたんだけど、電話クイズはビックリしたなあ。『グンマの妖怪マルチン=アハーン』の声、まるで『東京ダイヤル2001』の松脇アナみたいで驚いたのなんの……」
「すっごい低音でしたよね。いつ『初芝提供、東京ダイヤル2001』って言いだすかと思って身構えました」
「アッハハ、確かに!」
番組の常連投稿者の声がほかの局のアナウンサーに似ていたことで盛り上がっていると、服部時計店の時計塔からウェストミンスター・チャイムの音が雨のように降り注いできた。
「ありゃ、もう二時か」
窓の外を見ると、いつの間にか銀座四丁目の交差点へ差し掛かっていて、悠一さんがシフトチェンジを始めているところだった。
「だいぶ盛り上がってるようだったから、声がかけづらくってね。――お待たせしました、ここが終点です」
路肩へ停車させると、玄関先に立っていた、猫目さんと同じように学生服を着た、ぼうず頭の少年がこちらへ近寄ってきて、
「探偵長、おかえりなさい。車、ガレージへ入れておきますね」
「うん、頼むよ。猫目、先に行って、応接室のほうだけ確認してもらっておいてくれ」
わかりました、と返事をすると、猫目さんは階段を二段飛ばして、建物の中へと入っていった。そこで初めて、自分が今ぼんやりと立っている目の前に、時代から取り残されたような作りのビルがあることに気づいた。
「――通りかかった人が必ず、見上げていくんです。地上五階、地下一階建て。昭和二年に出来た銀座の老兵、さつき探偵社本部ビル。東京の隠れた名所だと、勝手に思ってるんですが、どうです?」
隣で一緒になって、ビルを見上げていた悠一さんに、正直なところを答えた。
「こんな建物があったなんて、今の今まで知りませんでした。昭和二年っていうと……」
「もう、八十年以上前ですね。かなり頑丈に作ってあったから、東京大空襲も、この前の震災も、なにごともなかったかのように切り抜けてきました。まあ、南海トラフとかが起こったら、どうなるかわかりませんけれど……」
数十年のうちに起こる可能性が高いとされている地震の名前に身構えると、悠一さんはポンと手を叩いてから、
「――まあ、辛気臭いのはいったん抜きにして、中へ入りましょう。二度手間をとらせるようで申し訳ありませんが、改めて、事件当日のことをお伺いしたいので……」
「――わかりました」
二人分の足音が、銀座の片隅にあるビルの中へと吸い込まれていった。