③
ストレッチャーのタイヤが床と擦れる音に目を覚ますと、保健室よりも整った設備の、オレンジ色をした壁紙の張ってある病室の中にいた。ベッドから降りて、薄緑色のカーテンをひくと、とっくに陽が落ちて、窓の外にはネオンサインと、家の明かりが毒々しく光っている。
「ここ、どこだ……?」
たぶん、保健室で倒れてから、簡単に意識が戻らなかったのだろう。いつの間にか、やたらと隙間のある青い患者用の服に着替えさせられていた。
いったい、あれからどのくらい経ったのだろう。時間のわかるものを探して、ようやく枕元にデジタル表示の時計があるのを見つけると、ちょうど午後九時十七分になったばかりだった。ということは、あれから十二時間近く、ベッドの上で眠り続けていたことになる。
――あれからいったい、どうなったんだ?
サイドボードに置かれたリモコンでテレビをつけると、NHKが映った。そして、画面には見覚えのあるコンクリートの建物がテロップと一緒になって、大きく扱われていた。
「――なお、第一発見者となった男子生徒のAさんは、依然として意識が戻らないままで、警視庁ではAさんの回復を待って、詳しい話を聞く予定とのことです」
現場の様子をとらえたVTRが終わって、アナウンサーのいるスタジオへカメラが戻ると、僕は危うく、また意識を飛ばすところだった。
若干ふらつく足元で、壁の手すりをつかみながら扉のところへ近づくと、聞き覚えのある声が近づいてきた。
弘之と益美、父さんの声だった。
「――みんな!」
病室の戸が勢いよく開いたので、三人はしばらくその場で固まってしまった。だが、昏睡状態だった僕がこうして動いていることを理解すると、まず父さんが強く抱きしめながら、
「よかった、目が覚めたか……!」
ワイシャツに食い入らんばかりに抱き寄せると、父さんは僕の頭をなでながら、よかった、よかった、と、しきりに口にした。
「健壱、心配したんだぜ! 全然目が覚めないっていうから、死んじまったんじゃないかって……」
オーバーながらも、回復を喜ぶ弘之の後ろで、益美がうっすら目元を濡らしながら、
「よかった、もしもこのままずーっと寝たきりになってたらって、心配したのよ……」
「ごめんな、二人とも。――それより、かなりでっかいことになってるみたいだな」
「デッカいなんてもんじゃねえぜ、見てみろよ、これ」
差し入れのお菓子かなにかが入っていると勝手に思っていたレジ袋から弘之が取り出したのは、山の様な夕刊の束だった。スポーツ紙やタブロイド紙も入れると、見ただけで七、八部はある。
「東日、日の出、帝都、毎朝、時事、東タイ、ニチスポ、桜新報……。下の売店で買えるだけ買ったやつだけど、みんな一面にウチの事件が載ってらあ」
その言葉が終わらないうちに、弘之の手からそれらをひったくると、僕はベッドの隅のほうへ寄せてあったテーブルの上で、一面に目を通した。
都内・高校生不審死――新宿・都立第三高校 生徒ら一時騒然(東都日日新聞)
都立高校で殺人事件――朝もやの中の凶行 被害者は神崎製鋼関係者(日の出新聞)
女子高校生変死体で発見さる――生徒ら一時パニックに 新宿・都立第三高校(帝都新聞)
朝の新宿騒然――都内の高校で生徒殺害事件 第一発見者は意識不明(毎朝新聞)
女子高生死体で発見―手がかりは未だ見つからず 第一発見者は昏睡状態(時事新報)
朝もやの中の凶事――東京・女子高生殺害事件 重要参考人意識不明(東洋タイムス)
これが現実なのか――都内、女子高生変死体で発見 校内一時騒然 (ニッポンスポーツ)
新宿で女子高生殺人事件――死体に手を加えた痕跡あり 快楽殺人犯のしわざか?(桜新報)
半分も見終わらないうちに、ひしひしと事の大きさが伝わってくる。本文の何倍もあるサイズで組まれた見出しに踊る「殺人」「変死体」の文字と、タイガーテープとブルーシート、報道陣が一緒になって写っている、見慣れた校舎の写真。そして、アルバムからとったらしい、小窓に入った神崎美代の写真――。
「弘之、教えてくれ。オレが倒れてから、何が起こったんだ」
振り返って、背後からおそるおそる紙面をのぞき込んでいた弘之に尋ねた。すると、弘之はあまり気乗りしない様子ながらも、ここまでに起こったことを説明してくれた。
「いつも通り、益美と一緒に校門まで来たら、笹倉と宇野のやつが、教室じゃなくて体育館へ行くように、って怒鳴ってたんだ。んで、なんだかよくわかんねえまま行くと、よそのクラスや学年の連中がウジャウジャいたんだ。なにがあったのか聞いてみたけど、みんな、詳しい理由を知らないまましばらくいたんだけど……」
「そのうちに、様子を見に行った三年の先輩が戻ってきて『一年生の教室で、女の子が死体になって転がってる!』って言ったのよ。そしたら、不安でオドオドしてた子たちが、いきなり泣き叫びだしたのよ」
益美の言葉に、僕は笹倉先生が慌ててやってきたのを思い出した。
「で、いちどきに四十何人も運ばれて、それを見てた中でもパニックになってるのがいたから、とてもじゃねえけど授業にはならないってんで授業はお休み。事件のことは絶対話すな、って条件付きで帰されたんだわ。――家に着いてからだよ、死んでたのが神崎だって知ったの」
弘之のつぶやきに、忘れかかっていた記憶が鮮明によみがえる。
――そうだよ、僕らは昨日の晩、渋谷で神崎と会ってるじゃないか。
駅の階段で目撃してから、死体になって僕が見つけるまでは半日もない。その間に、神崎は殺人鬼の手にかかって、あんなむごい目に――!
「で、誰なんだ。誰なんだ、犯人は!」
「落ち着きなさい、健壱」
思わず叫んだ僕を、父さんがたしなめた。
「ニュースを見ている限り、まだ犯人の目星はついていないらしい。なに、あんなことをして、逃げ切れるわけがない。じきに捕まって、お天道様の下に引きずり出されるさ」
だから、今日はもう寝なさい。肩に手をかけると、父さんはいつもの穏やかな、落ち着いた眼で僕を見て言った。
「――弘之くん、益美さん。健壱のことは心配しなくていいから、今日はもうお帰り。なにかあったら、連絡をしますから……」
「わかりました。健壱、じゃあな」
弘之は軽く手を振ると、益美のほうを向いて、行くか、とつぶやいてから、一緒に病室を出た。しばらく、二人の出ていった戸を眺めていると、黙りこくっていた父さんがおもむろに口を開いた。
「怖かったろう、健壱」
その一言に、我慢していた涙が堰を切ってあふれた。
「……怖かった。いきなり、あんなのが目の前にあったんだもの」
ぼろぼろと、うつむくように泣いたのは、いつぶりだろう。しゃくる度に気持ちが楽になって、だんだんと心が軽くなってゆくのがわかった。
「健壱。しばらく学校のほう、休むか? いきなり明日から登校っていうのも、気持ちの整理がつかないだろう。どうだ?」
出席日数のこともあって一瞬ためらったが、答えは決まっていた。その晩、僕は何年かぶりに、父さんと一緒に布団を並べることとなった。