①
帰りが遅くなったのにも関わらず、習慣で深夜放送を聴いたまま寝落ちた僕が目を覚ましたのは、いつもよりうんと早い、五時半を少し過ぎたころだった。
――このまま寝たら、絶対二度寝する。
ベッドを出て洗面所へ顔を洗いに行くと、寝ぐせだらけの頭をした父さんと出くわした。
「おはよう。やけに早いな」
「なんか目が覚めちゃって……。絶対二度寝しそうだから、ベッドから出たんだ」
「へえ、珍しいこともあるもんだ。たまには早めに家を出て、空いてる電車に乗るのもいいんじゃないか?」
顔を洗おうと、自分のタオルに手をかけた僕は、それもありだな、と思った。ちょうど昨日、弘之が空いている山手線に乗って優雅な朝を楽しんできたことへ覚えたうらやましさもあって、僕は大急ぎで身支度を済ませ、朝食をかっこむと、父さんを置いて家を飛び出た。
――弘之の言葉通りだなあ。
いつもと違って、白塗りの床がきれいに見渡せる山手線の通勤電車に乗りながら、僕は不思議な優越感に浸っていた。こうも人が少ないのは、昔父さんと乗った水上行きの臨時列車のグリーン席以来だ。そのせいで、なんということのないベンチシートが、今日に限っていつも以上にふかふかに感じられた。
ただ、空いているのはほんの一瞬だけで、新宿に近づくころには、床がすっかり黒い革靴やズボンで埋められてしまい、あっという間にいつも通りの息苦しい空間へ逆戻りしてしまった。
結局、いつものようにはじき出される形でホームへ降りると、自販機で買った缶コーヒーを飲みながら、甲州街道沿いにのんびりと歩いた。
――かえって、不気味なくらいだなあ。
腕時計を見ると、時刻は七時を少し過ぎたところで、往来の混み具合はいつもに比べると至極穏やかな、田舎道の様だった。普段は見かけても気を止めもしない、ビルの谷間の怪しげな飲食店を覗きながら歩いていると、いつの間にか校門の前に着いていた。
まだ出勤していないのか、楠木先生の姿は見えない。時折、校舎の奥から聞こえてくる運動部の朝練の声以外は雀の鳴き声、そして後ろを通る甲州街道を通り過ぎるバスやトラックの音しか聞こえないので、どことなく、物足りない感じがあった。
立ちっぱなしで五分ほど、そのどこか物足りない光景を眺めていると、足元から寒さが伝わってきた。早くこの寒さから逃れたい、と思うと、下駄箱で内履きにかえてから、教室へ向かって駆け出した。
そして、見なれた扉が目の前に姿を現すと、僕はいつものように、錆の浮いた取っ手に手をかけて、乱暴にそれを開けようとした。が、いつもなら空いているはずの鍵が今日に限って空いていなかったため、力のやり場を失った僕は、取っ手を支点代わりに、リノリウム張りの廊下へ強く投げ出された。
「痛ってぇ――」
体中を走るしびれが抜けたのがわかると、僕はゆっくりと身を起こし、手元から離れて大きく飛んで行った鞄を取りによたつきながら歩いた。
「やあ、早いね」
鞄についたほこりを払っていると、背後から聞き覚えのある声がした。振り返ると、用務員の五十嵐という六十手前のじいさんが鍵束をもって立っている。
「まだ早いかと思って、のんびりしとった。すまんね……」
「いやあ、構いませんよ。早いとこ開けて、ストーブだけ点けさせてください」
「はいはい。えっと、C組の鍵は……」
一年C組の教室の鍵を束から見つけると、五十嵐のじいさんはゆっくりと鍵穴に刺してから、錠を下ろした。ところが、いつもならカタリ、と綺麗な音を立てる錠前が、今日に限って鈍い音を立てて、鍵が途中で回らなくなってしまった。
「――おかしいな。これ以上開かないぞ」
じいさんは何度か鍵を回したが、錠前はびくともしない。だんだんと手つきが乱暴になってきたところへ、白いジャージ姿の楠木先生が通りかかった。
「五十嵐さん、どうかしましたか」
「――鍵が開かないので、困ってるんです」
事情を聴くと、楠木先生は妙だな、と言って鍵を受け取り、何度か乱暴に回して見せたが、
「――だめだ、ビクともしない。なんだか、なにかが引っかかってるような感覚がしますな」
「なに、引っかかってる……?」
その言葉に、五十嵐のじいさんは心当たりがあったらしく、
「そういえば、ずいぶん前にもこんなことがあった。――もしかすると、誰かがいたずらで鍵を壊したのかもしれません」
やや乱暴に答えをはじき出すと五十嵐のじいさんは楠木先生と僕に、引き戸の下の方を一緒に蹴飛ばしてほしい、と言ってから、
「……いきますよ。せー、の!」
三人分の蹴りが決まると、レールから外れた二枚の引き戸は、戸車がストッパー代わりになって床へ引っかかった。年季が入ってガタの来ているそれをゆっくり外すと、僕たちは教室の中がおかしくなっていることに気付いた。
まず第一に、いつもなら床の上に人数分、六列おきに並んでいるはずの机と椅子が、なぜかバリケードのように高く積み重ねられていること。
そして、窓側に見覚えのない黒地の、それこそ暗幕のようなカーテンがかけられているのが第二の出来事であった。
「なんだあ、こりゃあ……」
五十嵐のじいさんが大口を開けて呟くと、呆然とその様子を見つめていた楠木先生が我に返って、
「――こりゃあ、事と次第によっちゃあ学年集会ものだな。すまんが高津、片付けるのを手伝ってくれるか。まず、カーテンを頼む」
「わかりました……」
早く来てとんだ大損をした、と思った。腕時計を見ると、やっと七時半に手が届きだした頃で、いつもならそろそろ家を出ようかと考えあぐねている時間帯だった。
――にしても、変な具合に重ねたなあ。
いたずらに机を積むのなら、隣の列のを逆さにして重ねたりするほうが、まだ手間がかからないはずだ。それなのに、入口から教壇すれすれのところまで、バリケードよろしく重ねてあるのはどういう了見なのだろうか……?
――まあいいや。今はとにかく、カーテンを開けよう。
壁に刺さった石油ストーブの煙突をくぐると、いつものより二割増しで分厚い暗幕へ手をかけ、僕はそれを手繰り寄せてから、普段のカーテン用に据え付けてあるバンドでそっとまとめた。ほんのわずかな間で暗がりに目が慣れたせいか、
「高津、今後ろの戸を開けるから、またちょっと頼めるか」
後ろで楠木先生の声がしたので、僕はのどの手前で「わかりました」と言いかけながら、首を動かした。妙なものと目が合ったのは、その直後だった。
薄暗がりに丸いものが二つ、うっすら濁ったような色をして控えている。こんなものがあっただろうか、と頭を整理していくと、ぼんやりとしたそれが少しずつ輪郭を結んでゆく。丸いもの、さらに大きな丸いもの――ここまで来てようやく、それが顔だとわかるとあとは早かった。
そこには、口を半開きにしたまま、血みどろになってこちらをじっと凝視する、神崎美代の変わり果てた姿があった。
途端に、意識がロウソクの火のようにすうっと消えてゆくのが分かった。