③
晩秋の五時半過ぎの新宿は、夜の暗さがどんどん深まってゆくにつれて、看板や街灯の光がより一層際立って見える。その毒々しい原色の光を避けるように速足で駅の構内へ向かおうとすると、場の空気をわきまえない、やかましい音が耳に飛び込んできた。
「…………我々は、福島を第二のチェルノブイリにしてはならない。日本から原子力発電をなくす運動に、どうかみなさまのご理解を…………」
提灯のような薄明かりの下で、へたくそなギターで奏でられる「ふるさと」と活舌の悪い、メガホン越しに音割れを起こしているような演説をする一団が、帰宅ラッシュの渦の中にある新宿駅前に姿を現した。足を止めて署名をする人、携帯電話のカメラでその姿を収める人といろいろいたが、大部分が一瞬目をやって、そっと通り過ぎてゆくだけだった。
「どうする、やってく?」
弘之の問いに益美は一言、止しとく、とだけ返した。
「――どうしたらいいかわからないのに、署名するなんて出来っこないもの」
「……それもそうだな。健壱、行こうぜ」
靴底から染みてくる十月の冷たい空気に耐えかねて、僕はその一団を横目に見送って、構内へ足を踏み入れた。
定期券を片手に、吹きさらしになっている山手線のホームへ上がると、いつになく人の姿が多いことに気付いた。どことなく、その横顔に殺気立っているのに気付いた僕は、恐る恐る携帯電話を出して、iモードに接続した。
「――やっぱり。二人とも、家に帰るのはだいぶかかりそうだよ」
不思議そうな顔でこちらを見つめる二人に、僕は「山手線内回り 架線事故のため終日運休」という記事を見せた。
「まじかよっ、こんなことってあんのか」
「どうしよ、見たいテレビがあったのに……」
少し前までプランタンで温かい飲み物を楽しんでいた二人の顔が、みるみるうちに青ざめてゆく。気持ちが痛いほどわかる反面、とにかく待つしかないよなあ、という妙な冷静さが頭の中に充満していた。
マヒした内回りの分の乗客が外回りの列車へ殺到したせいで、ホームの上はいつも以上に激しいラッシュ・アワーの様相が繰り広げられることとなった。駅員に遮られて乗り損なったサラリーマンや学生が露骨な舌打ちや罵詈雑言を浴びせる様を、暖房の効いた待合室のガラス越しに眺めながら、僕たちは一刻も早く帰りたいという感情を必死で押さえていた。
「六時半かあ。――いつもなら、帰って風呂にでも入ってるころだわなあ」
「あたしも。――あーあ、足がパンパン。もうやんなっちゃう」
黒いタイツの上からひどく張ったふくらはぎを撫でると、益美は空気の悪さに我慢できず、待合室の外へ出て、鞄をコンクリートの足元に置いてからゆっくりと伸びをした。
「オレもやってくる。同じ姿勢じゃ眠たくなってきて…………鞄頼むぜ」
弘之が続いて外へ出ると、僕は鞄を二つ両脇に抱えたまま、防音壁に貼ってある参考書の出版社の広告をぼんやりと眺めていた。と、
――ありゃ?
広告の下半分を覆う人ごみの中に、肩のあたりから腰の手前までロールのかかった独特の髪型の女子高生が、腕時計とホームを通る線路の両端を交互に見ながら立っている。どこかで見たようなその立ち姿を一生懸命思い出そうとしていると、弘之と益美が待合室の中へ入ってきて、疑問を解決してくれた。
「健壱、あそこにいるの、神崎じゃないか?」
「――あ、やっぱりそうか。どっかで見たロールだと思った。手間かかってそうだよな、あの髪型……」
「そうでもないわよ。慣れたらあっという間なのよね、アレって……」
神崎美代はクラスの成績上位者の一人として認識されている、絵にかいたような優等生だ。大手の鉄鋼会社・神崎製鋼の東京支社長を父親に持つお嬢様で、好意のあるなしにかかわらず、男子生徒からは「高嶺の花」として扱われていた。
「急いでるのに、かわいそうね」
「益美、どうして急いでるってわかるんだよ」
弘之が尋ねると、益美は塾よ、と前置いてから、
「前にちょっと聞いたんだけど、神崎さん、中学校の頃からずっと進学塾に通ってるんですって。自分は勉強が苦手だから、一層努力しなきゃ、って言って……」
「塾ねえ。オレには無縁な話だワ。だって、言われても勉強しねえし」
「どーなのよ、それは……」
呆れたやつだ、と思いながら、屈託のない顔で笑う弘之を一べつすると、僕は再び、待合室のガラス越しにホームの方へ目をやった。ちょうど列車が入ってきたところで、中へ入れそうだという雰囲気を察した学生やサラリーマンがドッとなだれ込む。その後について、神崎美代も一旦は中へ入ろうとしたが、息苦しいのがいやなのか、後ずさりして列車の出てゆくのを見送ってしまった。
八時近くになり、全体的に車内が空いてきたのを見ると、僕たちは待合室を出て行き、列に加わった。神崎が並んでいる列の三つ隣、ちょうど真後ろの車両の位置だったので、彼女の手元がよく見渡せた。授業の時だけかけている眼鏡で、あずき色のブックカバーをかけた参考書らしい本に目を落としている神崎を指して、弘之が下世話なことを耳打ちしてきた。
「――眼鏡かけると、いつもの五倍増しで美人に見えるよな。興奮する……」
「うるさいな、そういう話はヒッソリやれよ」
「だからこうしてヒッソリと耳打ちしてるんでしょうが」
「――あんまり変なこと呟いてると、本人に教えるわよ」
益美が弘之の鼻をつねると、弘之はダとイの区別がつかないような声で小さな悲鳴を上げたが、折よくそこへ通勤快速が入ってきたので、誰もこの出来事に気付かなかった。
ほどよく空いたベンチシートへ腰を下ろし、列車が構内から出て高架橋の上へ来ると、疲れが出たのか、そろって頭が重くなってきた。尻越しに伝わるヒーターの熱気が相まって、しばらく首を揺らしながらまどろんでいると、渋谷への到着を伝える、割れた声のアナウンスが頭上のスピーカーから鳴り響いた。
「――ねえ、どっかで降りて、ちょっとおにぎりでも買っていかない? もう限界よ……」
益美の提案に生唾を飲み込んでからいいね、そうしよう、と言うと、
「じゃ、次で降りましょ。渋谷だし、思い切ってマックっていう手もあるわ」
「そうしようや、腹が減って死にそうだ……」
空腹に耐えかねて、列車が止まらぬうちからドアの前に立つと、僕たちはホームへ列車が滑り込むのを今か今かと待ち望んだ。そして、渋谷駅でドアが開くと、陸上の百メートル走のような勢いで駅を出た。結局、予定していたマクドナルドでの食事は人ごみで断念して、そばにあったコンビニでサンドイッチを買うと、僕たちは駅の構内へ舞い戻って、次の列車が来るのを待つことにした。
「あんた、ずいぶん買い込んだのね」
弘之の右手からぶらさがっている、袋一杯に詰め込まれたサンドイッチとおにぎりの山に益美が呆れた顔をすると、
「これくらい食わないと、食べた気がしないんだよなあ。まあ、どうせ帰っても飯が待ってるわけじゃなし、これくらいあっても気にはしねえさ」
「それにしたって、ちょっと食べ過ぎじゃないかなあ」
袋の中に左手を突っ込んで、どれから食べようかと考えながら歩いていると、弘之がいきなり、足を止めてその場へ立ち尽くした。何が起こったのか分からず、目の向いている方を見ると、神崎美代が履きなれたローファーで階段を一足飛ばしにしながら、こちらへ向かって降りているところだった。
「おーい神崎、急ぐとあぶねえぞ」
弘之が親切心から声をかけたが、急いでいる神崎は目もくれずに、そのまま通り過ぎて行った。
「塾の時間、間に合わなかったみてえだなあ」
「え、塾?」
弘之のつぶやきに、益美が不思議そうな声を上げた。
「だって変よ、神崎さんの通ってるとこ、確か東京タワーの近くだもの。ここ、渋谷じゃないの」
「――じゃあ、なんで急いでるんだよォ」
「さあ……遊びに来た、とか?」
「渋谷ってカンジのガラじゃなさそうだけど……ちょっと意外だなあ」
――きっと、なにか買い物に行くつもりで、その店の閉店間際で慌てているんだろうなあ。
そんな答えを適当にはじき出すと、僕と弘之、そして益美は、冷えるプラットホームへ向かって、ゆっくりと階段を上り始めた。
まさかこれが神崎美代の生きているのを目の当たりにした最後の機会になるとは、夢にも思わなかった――。