②
一時過ぎになって、雹が交じったような雨音がコンテナの屋根を叩き出した。外気が鉄板越しにゆっくりと伝わってきて、冷蔵庫のようにひんやりとした空気が体の上に襲い掛かる。
「ちきしょう、冷えてきやがったな」
紺のジャンパーを羽織った佐竹は、唇を真っ青にしながら天井を恨めしそうに見つめている。一旦脱いでいた立ち襟のコートを着て、体を動かさずにじっと構えてはいたが、少しずつ肌に染みてくる冷気はさすがに応えるものがあった。
それにしても、このトラックはいったいどこへ向かって走っているのだろうか。カーラジオから流れてくるラジオ帝都の昼ワイドでは、コーナーの合間合間に都内の交通情報が挟み込まれるのだが、道路の詳しい様子を意識したことがないせいで、このカーブならあの辺、という見当すら立てようがない。自分のふがいなさをただただ恨みながら、ラジオから流れてくるイージーリスニングに耳をそばだてていると、クライマックスの一番いいところで、曲がフェードアウトしてしまった。
『――ここで、道路交通情報をお伝えします。このあと午後二時より都内各所で、中型・小型貨物自動車を対象とした不正燃料取り締まりの検問が実施されます。対象となるのは三・五トン以下のすべての車両で、これに伴う短い渋滞が予想されます。お急ぎの方はお気をつけてお出かけください。以上、ラジオ帝都、道路交通情報でした』
聞き終わらないうちに、体の内側から熱気が立ち込めてくるのが分かった。悠一さんにあてて投げたカードが、誰かの手によって拾われたようだった。
「佐竹、オレ達、助かるかもしれないぞ。――検問って、普通は朝っぱらから予告してるはずだろ? きっと、悠一さんがあれを見つけて、手を打ってくれたんだよ」
弱弱しい、蜘蛛の糸の様だった希望が、引けば手ごたえのある太い荒縄へ変わったような気がした。佐竹と一緒にそのことを喜んでいると、さっそく、トラックの歩みがのろくなりだした。どうやら、検問によって生じた渋滞にあたったらしい。
「――こりゃあ、時間の問題だな」
前の車が出てゆくたびにじりじりと距離を縮めてゆくトラックの動きに期待をしていると、急にトラックが左折をして、中腰になっていた僕と佐竹はコンテナの中で転んでしまった。
「急に動き出しやがったぞ。どういうことだ」
「――もしかすると、警察の追及から逃れる気なのかもしれない」
「そんなバカな!」
驚く佐竹に、僕は昔、父さんから聞いた話をしてみせた。
「東京っていうとこは、あとからあとからどんどん建て増しや区画整理をしていったパッチワークみたいな作りをしている街なんだよ。だからそのせいで、地元の人間しか知らないような小さな道が、あっちこっちにあるんだ。だから――」
「その道をたどっていけば、検問から抜けられるってわけか」
「そういうこと。――やられたな、犯人はかなり東京の地理に通じてる人間らしい」
悔し紛れにコンテナの壁を拳で殴ると、小指の感覚がなくなるほど痛かった。だがそれよりも、窮地からの脱出に失敗したことのほうがもっと痛く、辛かった。
その後も、トラックは検問の行列にひっかかるたびに、裏道を通って、目的地へとひたすらに走り続けた。道中、じっと耳を凝らして周囲の音に気を配ってはみたが、あの銀座の大時計以上に特徴的な音は見当たらない。
「いったい、どこまで走ったら気が済むんだろうな。そろそろ、四時だぜ」
だらしなく下げていた僕の腕時計を覗き込んで、佐竹が疲れ切った顔を浮かべる。朝の五時過ぎに拉致されてから、かれこれ十一時間が経とうとしている。座っているだけで楽と言えば楽なのだが、板敷きの上で、なおかつ空気の通りが悪いのには往生してしまう。
「――このまま酸欠にさせて殺すわけじゃないだろうなあ」
ぼそりと呟くと、佐竹は少し力んで、
「よせやい! そんなジリジリ絞め殺すようなの、ごめんだぜ」
「悪かったよ。でも、斧とかで首をちょん切られるよりはマシなんじゃないの」
口に出してみて、改めてこの間見た夢の気味悪さが伝わってくる。首を、という言葉の出た時点で、佐竹は右手の人差し指を脈でも計るように首筋へ当てている。
「お、おれがいったいなにをしたって言うんだよ!」
「知らないよ、そんなこと言ったら、オレだってそうだ。――いったい、どこでなんの恨みを買ったってのさ……」
泣きたくもなるが、泣いてもどうしようもないことが分かっているだけに、一層悔しくなる。コンテナに詰め込まれたまま、僕と佐竹は抵抗もせず、ただただじっと座り込んでいるよりほかなかった。
それからどのくらい経ったのだろうか。いつの間にか意識が飛んで、深い眠りの海に沈んでいた僕は、エンジンの振動が伝わってこないことに気付いて体を起こした。腕時計へ目をやると、秒針がてっぺんを通り過ぎて、午後の七時になったところだった。
「――佐竹、起きてるか」
明かり代わりに使っていたスマートフォンの電池が切れて、コンテナの中は黒い絵の具を垂らしたように、深い闇に満ちている。
「ああ。……止まったらしいな」
消え入るような声で言うと、佐竹は暗がりでむやみに手を動かして、コンテナの壁を乱暴に叩いた。同じように僕も、そっと体を動かして壁へ手をかけると、いきなり腕が引っ張られるような感覚が体に伝わってきた。どうやら、ロックの解いてあったコンテナの扉に手をかけてしまったようだった。
「危ないっ」
佐竹が僕の左肩を引っぱってくれたおかげで、荷台から落ちるのだけは免れた。その代わり、僕たちはいきなり視界が明るくなったせいで、暗がりに慣れた目がつぶれてしまいそうなほど、まぶしい思いをする羽目になった。そして、真っ白になった視界へゆっくりと色が付き始め、周囲のものへピントが合ってゆくと、僕と佐竹は声にならない驚きが頭の中を駆け回るのを覚えた。
軽トラックが止めてあったのは、この前中山先生と別れた、職員用のガレージだった。
「ここ、学校じゃねえか」
トラックから降りると、佐竹は目を何度もこすって、自分たちのいる場所を確かめた。慣れてしまえばなんということもない、四十ワットばかりの薄暗い裸電球が数個ぶら下がっているだけの駐車場には、自動車通勤をしている先生の車や、運動部が遠征の時に使うマイクロバスが止めてある。
「なんで、こんなところにいるんだろう……」
状況がいまいち飲み込めずに、辺りをきょろきょろ見回していると、コンクリートの上を運動靴を履いた足音がこちらへ近づいてくるのに気付いた。
「――二人とも、目が覚めたかね」
声の方へ振り向くと、運転席で苦しんでいた男がサングラス越しにこちらをじっと見つめて立っていた。
「やい、てめぇか、てめぇが神崎や村山さんを殺したのか」
佐竹が狂犬のように叫び、男に噛みつく。
「――ついてこい。そうすれば、すべてが分かる」
「バカ野郎、オレの質問に答えろっ」
「やかましい!」
男の声がコンクリート張りの駐車場一杯にこだました。これ以上の抵抗は無駄だとはっきり示されたせいか、佐竹は振り上げたこぶしを力なくひっこめて、行こう、と呟いた。
その顔は真っ青で、額には玉のような汗がにじんでいた。
職員用駐車場のある特殊教室棟は、一階がまるまる駐車場になっているほかは、普段滅多に使われない会議室、視聴覚教室があるきりで、人の出入りが全くと言っていいほどない。
これがもし日中で、しかも他の教室棟だったら、見かけた生徒や先生が怪しげな男に気付いて通報ぐらいしてはくれるのだろうけれど、放課後の学校ではそんなことなど望むべくもない。真っ暗な廊下には僕たちの他に誰の姿も見当たらず、男の手に握られた懐中電灯だけが、煌々と光っている。
「――おい、どこへ連れてくつもりなんだ」
おびえて縮こまってしまった佐竹の代わりに、精一杯の勇気を出して男へと尋ねたが、返事はない。
やがて男の背中は廊下から、屋上へと続く階段へ移った。一段ずつ上がってゆくにつれて、手のひらに粘つくような汗が広がってゆくのがわかった。日中にひどい雹が降ったというのに、窓からは青い月明かりが差し込んでいる。その光に照らされた階段が、処刑台へ続く十三段のように思えて、だんだんと足取りが重くなってゆく。
――これで、僕の人生もおしまいなのかな。
押し縮めていたどす黒い感情がじわじわと込みあがってくる。目元が濡れて、視界がにじんでゆく。家を早々出るんじゃなかった、いつもみたいに父さんと一緒に出ればよかった。ちゃんと話しておけばよかった――。
どうしようもない後悔が心と体を包み込む。そんなところへいきなり夜風が吹き込んできて、僕は正気に返った。屋上と校舎を隔てるドアが開け放たれて、出入り口を背に男がこちらをじっと見つめている。
「――誰なんだ、いったい、誰が待ってるんだ」
冷たい空気のおかげでいつもの元気を取り戻すと、僕は逆光になってよく見えない男の顔をにらんで問い詰めた。
「来ればわかる、高津健壱。――お前も知っている人間、とだけ答えておこう」
いきなり名前を呼ばれてたじろいだが、ここまで連れてこられて、いまさら退く気にもなれなかった。僕の後ろでわなわなと震えていた佐竹の肩へ手を置くと、
「佐竹、行こう」
黙って首を縦に振った佐竹を伴って、僕は男と一緒に屋上へ一歩踏み出た。階段へ吹き込んだだけのことはあって、外は風が強く、流れてきた雲が月をすっかり覆い隠してしまっている。
「――連れてきたよ」
男が声をかけた方向を向くと、すぐ近くの東側の手すりに、誰かがもたれかかるようにして立っているのが分かった。辺りが暗いせいで男女の区別がつかず、目をぐっと凝らしているうちに、彼方の雲が風に流れ、月の光が屋上へ差した。
それにつれて、手すりの前にいる人の姿があらわになってゆく。
風にそよぐ、宵闇に溶けたような色の髪の毛に、こちらをとらえて離さない強い眼力のこもった瞳。そして、白磁のように透き通った色味の肌と、血のほとばしるような唇――。
「――元気だった? 高津くん」
月明かりの下で、そっと右手を振ってみせたのは、別れた時と同じダッフルコートに身をまとった石井さんだった。




