②
「――健壱ィ、お前ああいうのが好みなの?」
一時間目のことなどとうに忘れていた昼休み、弘之の一言に、僕は弁当の卵焼きをのどにひっかけそうになった。
「……見てたのかよ」
「たまたま、視線が黒板からそれたときにちょっとだけな」
購買部で買って来たサンドイッチを大口でかじりながら答える弘之に、殺意にも似た何かが湧いた。
「まあ、それはさておいて……。インフルじゃなきゃあいいよな。ちょっと心配だぜ」
「だよなあ。ほら、石井さんって結構色白じゃん。だから、体調がいいのか悪いのか、パッとみてわかんないんだよなあ」
そう言ってから、プチトマトを口へほうり込もうとすると、いきなり頭の上に硬いものが振り下ろされ、鈍い痛みが駆け抜けた。
「健壱ッ、あんたなんてこと言ってるの」
振り向くと、新書サイズの少女向けラノベを手に構えながら、益美を筆頭とする数人の女子が怖い顔をして立っていた。
「あんなにきれいな白い肌、日本人じゃなかなかいないのよ! それをまあ、体調が悪いだのなんだの……」
「そうよ! 高津くん、あなた最低!」
益美の後ろから付け加えるように、風紀委員会の腰ぎんちゃくと呼ばれている、丸眼鏡をかけた背の低い女子が高音を強調した声で抗議してきた。あとは後ろでじっとこちらを見ているだけなのだが、かえってそれが恐怖をあおった。
「悪かったよ! ってか、意外だな。あんまり石井さんと話してるイメージがなかったんだけど……」
「確かに、話すことはあまりないわ。あの子、会話のラリーが続かないんだもの。でも、肌の具合とかは遠めでもわかるじゃないの」
それもそうだな、と返すと、益美たちは石井の席の方へ目を移して、
「ただの風邪ならいいんだけどなあ。最近、インフルとは別に、ノロウィルスが流行ってるしさあ。みんな、気を付けた方がいいぜ」
シャギーヘアに色黒、身長も百七十近くある陸上部員の女子が注意を促すと、益美たちは怖いわあ、とささやきあった。
「なんだよう、人の頭小突いて、詫びのヒトコトもなしかよ……大丈夫か、健壱」
「ちょっと身長が伸びたような気がする。益美ィ、何も背表紙で殴るこたぁないだろ」
頭頂部を撫でながら頬をゆがめると、弘之はサンドイッチの入っていた袋から、最近じわじわとブームが来ているという、シベリアというお菓子を出して、その一つを差し出した。
「ほら、食えよ。こういう時は、甘いものを食べるに限るぜ」
ささやかだけれど、友人の好意がうれしく感じられた。カステラであんこを挟んだ甘党向けのサンドイッチにぱくつくと、頭のてっぺんの痛みを忘れようと、舌の上に意識を集中させた。
午後の授業がすべて終わると、掃除当番にもあたっていなかったので、そのまま弘之と一緒に学校を出た。しばらく甲州街道沿いにゆっくり歩いていると、後ろからおろし立ての、まだ新しいローファーの音が近づいてきた。
「いたいた。二人とも、この後どうすんの?」
緑色のローファーでアスファルトを踏み鳴らしながら、益美が尋ねる。
「どうするって、このまま帰って……も、どうせやることがないんだった。健壱はどうするんだ?」
「そうだなあ……父さん、今日は帰りが早いから、あんまり凝った寄り道はできない感じかなあ」
「じゃあ、お茶でも飲んでく? あたし、プランタンがいいなあ」
今朝飲んだよ、と言わんばかりの渋そうな表情を浮かべた弘之を無視する形で、僕達は新宿駅前の純喫茶・プランタンへと入った。駅前のバスターミナルを見下ろすように立っているビルの地下一階にあるこの店は、外国映画から抜け出てきたような豪華な内装ながら、値段がリーズナブルなことで知られている、新宿ではかなり古株の喫茶店だった。
平日の午後四時半過ぎ、髪をオールバックにしたボーイさんの案内で、店の中ほどにあるボックス席に腰を下ろすと、それぞれの飲みたいものを告げてから、僕と弘之は背もたれに身を任せて、おしぼりで手や顔を拭った。
「やーねえ、ジジくさい。あたし、雑誌持ってくる」
鞄とコートを置くと、益美はレジスターの脇にあるマガジンラックのほうへ向かった。地下で電波が届きにくいので、大抵の客は新聞か雑誌に目を通すのだが、この店に置いてある雑誌は大抵お堅いものばかりなので、僕と弘之はいつも、灰皿についている星座占いを引いて、一喜一憂していた。
ちょうど、弘之が良くない結果にしょげていると、飲み物を運んできたウェイトレスの後ろについて、益美が夕刊片手に席へと帰ってきた。
「なんだ、ファッション誌じゃないの?」
弘之が意外な組み合わせに驚いていると、
「ちょうど、夕刊が来たばかりだったのよ。――なんか載ってないかなあ、って思って」
オレンジエードの入った耐熱グラスをのけると、益美は夕刊をテーブルの上に広げた。日ごろ新聞を読んでいる人間というのを父親以外に知らなかったから、ちょっとアンバランスな組み合わせに見えた。
「――なんか面白い記事、載ってるか?」
弘之の問いに、益美はオレンジエードを一口飲んでから、
「全ッ然。今朝、家を出たときに見たのと変わんないもの」
「へえ、益美、新聞読むんだ」
何の気なしに呟くと、益美はテレビ欄のついでにね、と言って、新聞をたたんでしまった。
「変わんないってのはさあ、いっつも同じようなニュースばっか載ってるからだろ?」
ウィンナコーヒーのクリームをスプーンで沈めながら、弘之が言う。
「そうね……。明るいニュース、全然ないもん」
「無理ねえよなあ。あんだけのでっけぇ地震が起こったんだもの。なんにもねえほうが不思議だ。なあ、健壱ィ」
弘之の問いに、そうだねぇ、と上の空な返事をすると、僕はマンデリンの入ったカップに唇を当てながら、あの日のことをゆっくりと思い返した。
平成二十三年の三月十一日は高校の合格発表があった日で、自分の受験番号が張り出された紙に記されているのを見つけると、成績が危なっかしかった弘之はうれし涙と鼻水まみれになりながら、僕の学ランに顔を押し付けて喜んでいた。
各々、親へ合格の旨を伝えると、どこかで集まって簡単なお祝いをやろう、ということになったのだが、今にして思えば、その会場がカラオケやファミレスではなく、僕の家であったのがなんとも幸いだった。
正午過ぎに終わった発表から二時間以上たって、興奮気味だった頭が少しずつ冷静になってゆくのを感じつつ、居間のこたつに足を突っ込んで、戸棚から出したポテチやジュースをつまみながら僕と弘之がゲームに、益美が駅のキオスクで買った女性雑誌に夢中になっていると、どこからともなく、ギシギシという不気味な音が耳に飛び込んできた。
「ネズミでもいるんじゃねのか?」
コントローラーのAボタンを連打しまくる弘之に少しむすっとした僕は、強めの調子で、
「この家、そんなに古くはないんだけど……」
と、そこまで言いかけたとき、いきなり足元が掬われるような感覚に陥り、視界がふらついた。
「――揺れてるッ」
雑誌を天板の上に放り投げると、益美は頭を腕で覆い隠して、こたつ布団の中に潜り込んだ。両の手からいつの間にかなくなっていたコントローラーのことなど気にもせず、あたふたと部屋中を見回しながら、弘之と僕は何が起こったのかを確認しようとテレビの入力を切り替えた。朝のニュースを見たときのまま、NHKに合わせてあったテレビに映ったのは、揺れる国会議事堂の内部映像だった。
「――この地震、三陸のほうからのやつかよ」
議事堂に気を取られていた僕に代わって、弘之が表示されているテロップの内容を拾った。確認したかぎり、この揺れは東日本一帯を襲っている、かなり大規模なもののようだった。
「健壱ッ、この家大丈夫なんでしょうね!」
「益美ィ、そういうこと言うなよォ。――健壱ィ、大丈夫だよなあ……?」
夏に海辺でビニールボートか何かに乗っているときのような、ゆっくりとした周期で揺れる足元に気を使いながら不安そうな顔をする二人に、僕はなんと言ったらよいのか、それだけを考えていた。
「――あのとき、新宿で遊んでなくて正解だったね。山手線がマヒして、帰れなくなった人が大勢いたし……」
ほんのちょっとしたボタンの掛け違いが起こっていたら、いったいどうなっていたのか。考えるだけで恐ろしい。
「ほんとだぜ。――そういや、あんとき健壱の家に行こう、って言ったの、誰だったっけ? なんか、なし崩し的に決まったような覚えがあるんだけどさ」
弘之が口の周りについたクリームをナプキンで拭いながら尋ねた。
「どうだったっけ。オレじゃないのは覚えてるけど……益美だっけ?」
思い出せないのをごまかそうと、視線を益美の方へずらすと、益美はかぶりを振って、
「えー、違う、絶対違う。……もう、この話はなんか気味悪いから止しましょ」
そのまま、しばらく顔を見合わせたまま黙り込むと、僕たちは盛大なため息をついて、プランタンを後にした。