①
窓の外を寝台列車の乗客らしい、大荷物の集団が通り過ぎてゆくのを見送ると、石井さんは口元からカップを離して、
「走るホテルって、一度乗ってみたいわね。そう思わない?」
と、不思議な質問を投げかけた。走るホテル、という言葉が寝台列車のことだと気付くと、僕はしばらく、喫茶室の天井からぶら下がっているビリヤードランプをじっと見つめてから、
「どうだろ、あまり考えたことないなあ。早く着くのに越したことはないし……」
バターをたっぷり塗った厚切りのトーストをちぎりながら、あいまいな答えを返すと、つまんない、と、頬杖を突いたまま不満そうな目で、こちらの顔を覗き込んだ。
あさもやの晴れない休日の朝六時。上野駅の改札口からほんの少し離れたところにある喫茶店は、忙しそうにコーヒーメーカーの支度をする店主のおばあさんと僕たちの他には誰もいない、都会の喧騒から離れた、オアシスの様だった。
「旅行とか、興味ないの?」
「そういうわけじゃあないけれど……。あくまで、移動手段だしさあ」
ちぎった一かけを口へ放り込むと、間違いじゃないわね、と言いながら、石井さんはステンレスの砂糖つぼを開けて、カップの中へ飴色をしたコーヒーシュガーを落とす。
「でも、そういうのも旅の醍醐味だと思うのよね。――途中の駅で駅弁を買って、お茶を飲みながら窓の外を眺める。月の海、夜明けの山並み……素敵だと思わない?」
クリーム色のタートルネックを着た石井さんが、やや栗色をした瞳を細めて、僕を見つめてくる。
「そうかも、しれないなあ……」
「でしょう? ――あさかぜ号、また乗りたかったな」
何年か前に廃止になった寝台特急の名前に、家族旅行? と返す。
「ええ。でも、また乗ろうとしても、その時は一人っきりだったでしょうね」
「どういうこと?」
つまみかけたトーストを皿に戻して、おそるおそる尋ねると、想像ついてるんでしょう? と、石井さんはぬるくなった残りのコーヒーを飲み干して、
「わたし、もう両親がこの世にいないのよ。明日からお世話になる、高崎の叔父夫婦が後見人ってわけ」
どうりで今まで、家族の話題が彼女の口から出てこなかったわけだ。それは、僕が亡くなった母さんのことをあまり人に話したくないのと同じ理由なのだろうけれど、かろうじて父さんが生きている僕と比べると、含まれている重さが段違いだった。
「――病気、か何か?」
「いいえ、自動車事故。飲酒運転の車にアテられて、拘置所の大きな塀にぶつかったの。――あんまり状態がひどいからって、死に顔は見せてもらえなかったわ。きっと、のしいかみたいにペタンコになってたんでしょうね」
あまり気持ちのいい話題ではなかったが、初めて石井さんが自分の内面をさらけ出したことへの驚きから、ただただ頷くより術がなかった。
「そういえば、ちょっと前に白石さんから聞いたんだけど……お母様、だいぶ以前に亡くしてるんですってね。たしか――」
「肝炎だったんだ。B型肝炎って、輸血が原因のやつでさ。症状がだいぶ後になってから出たから、気づいた時には手遅れで……」
ふと、向かいに座った彼女を見ると、空になった皿やカップへ目を落としたまま、まるで彫像か何かのようにうつむいている。
「ごめんなさい。聞くんじゃ、なかったわね」
「あ、こっちこそ……。ごめんね、朝っぱらからこんな話をしちゃってさ」
「いいのよ、高津くんが謝ることないわ。やあね、これから出発だっていうのに」
そこで改めて、待ち合わせ場所になった四ツ谷駅から乗った時に、石井さんの口から打ち明けられた、休学の理由を思い出す。
――もうね、学校にいるのが嫌になっちゃったの。ただでさえ、世の中が暗いのに、あの事件のせいでもっともっと、息苦しくなっちゃったじゃない。わたし、それが我慢できなくって……。
水上にいるという叔父さん達の他に、身近に自分の支えとなってくれる人がいない生活。
冷たい部屋の中で、ただ一人、まんじりともせず壁を、天井を見つめる――。
とてもではないが、僕なんかは思い余って発狂してしまいそうだ。
「――そろそろ、出ましょうか。もう、ホームに列車が入ってる頃でしょうしね」
顔を上げると、石井さんは背もたれにかけてあったダッフルコートを着て、首へ赤いマフラーを、頭へそろいの真っ赤なニット帽をのせて、ハンドバックから財布を覗かせていた。
「そ、そうだね。えっと、いくらだったっけ」
「いいわよ、これくらい。運んでくれたお礼、ってことで」
微笑む彼女に、少し照れた表情を見せると、僕はテーブルの下に置いた、革張りの大きなトランクを抱えて、店を出た。
券売機で入場券を買って、一緒に上越線のホームへ入ると、栗饅頭のような色味をした古めかしい国鉄型の特急「みなかみ」号が、冷たい冷気の漂う構内に、その巨体を控えていた。まだ発車時刻まで間があるせいか、車内で座を占めている人影はまばらだった。
「いかにも旅に出る、って感じだね」
「そうね。――これでしばらく、東京も見納め、か」
ダッフルコートの襟を締めながら、石井さんは遠い目で「みなかみ」や、他のホームを出入りする通勤電車、特急列車を見つめている。きっと、いつ戻ってくるのかわからない、自分の過ごした街を忘れないよう、懸命にその様子を瞳にに焼き付けているのだろう。
しばらく、一緒になって駅の様子を眺めていると、水を差すように構内放送が、「みなかみ」の発車が近づいていることを告げた。
「――これでしばらく、お別れね。たぶん、休み明けに先生が話してくれると思うけれど、あなたの口から、白石さん達にもそっと伝えておいてくれるかしら」
デッキに立った石井さんが右の手に切符入れの封筒を握ったまま、ホーム上の僕へ話しかける。
「もちろん、お安い御用だよ。――じゃあ、元気でね」
「高津くんこそ、風邪なんかひいちゃだめよ」
「大丈夫、僕、バカだからさ……」
冗談交じりに話すうちに、ホーム一杯に、けたたましい発車ベルが鳴り響いた。自動ドアが閉まって、青みがかったガラス越しに彼女が手を振り出すと、車体が少しずつ、じわじわと動き出す。
そして、ものの三十数秒ほどで、石井さんの乗り込んだ特急「みなかみ」は、上野駅の構内を離れて、水上方面へ向けて走り去ってしまった。
「……行っちゃった、か」
誰にともなく呟くと、僕は白い吐息をひと筋、宙に吹いてから、入場券を片手に改札口へと歩き出した。途中、キヨスクの前を通りかかると、まだインクの匂いが新しい朝刊の束が目に留まった。
どの新聞もそろって、あの東学連の関係者が相次いで捕縛されたことを大々的に報じている。警視庁が全機動力をフル活用して行った繁華街への突撃で、渋谷だけで東学連の幹部、下っ端を含めた三十人がお縄にかかったという話は昨日の晩に悠一さんから聞いて知ってはいたのだが、こうして新聞に大きく報じられているのを見るにつけ、改めてことの大きさを思い知るに至った。
それにしても、亡くなった神崎さんや上級生の村山という男子学生は、どのような形で組織と関わっていたのだろうか。僕には皆目、見当がつかなかった。
一時すぎまでベッドの上で過ごして、遅い昼食に父さんの作った煮込みうどんをすすってからのんびり本を読んでいると、弱々しく呼び鈴が鳴った。本に栞を挟み、玄関に向かってチェーンロックを外すと、思いがけない人の顔がそこにあった。
「佐竹、どうしたんだよ急に……」
クラスの持て余し者になっているチンピラの佐竹が、もじもじと両の手をひざ元で動かしながら、こちらをじっと見つめている。
「あのさ……お願いがあって、来たんだ」
いつもの横柄な態度から比べると、いやにしおらしい物言いに首を傾げたが、ひとまず玄関先ではらちが明かないので、部屋へ上げることにした。
「どうしたんだよ、いきなりやってきて。――というか、なんで僕ん家を知ってるんだよ」
「連絡網の電話番号で、だいたい見当つけてさ。あとは根気よく、表札を見て回ってたんだ」
「ああ……」
電気ストーブのついた部屋で、ガラス張りのローテーブルへ向かい合いながら、佐竹はお湯で割ったカルピスを少し口へ含んでから、徐に声を上げた。
「知らないか、渋谷でガサ入れがあったの……」
いきなり相手の口から聞き覚えのある出来事が出てきたのには面食らった。
「うん、知ってる。なんか、ずいぶんと捕まったらしいね。不良グループの、なんていったっけ」
「東学連。――今、二十三区のどこへ行っても、おまわりが東京学生連盟のメンバー探しにやっきになってるぜ」
そこでまた、ホットグラスへ注いだカルピスを口へ含むと、佐竹は盛大なため息をついて、肩の力を落とした。
「らしいね。で? それと僕のとこへ来たのは、どういう理由があるんだい」
いつまで経っても話が進まないのにいらだつと、それが顔に出ていたのか、佐竹は少し縮こまって、
「じ、実はさ……オレも、関係者なんだよ」
佐竹が羽織っていたねずみ色のパーカーのチャックをおろし、生地を裏返すと、見覚えのあるバッチが鈍い輝きを見せながら留めてあった。東学連の、あの記章だった。
「じゃ、まさか――」
背筋を、全速力で駆け上がるような衝撃がつたう。
ガラス板に手をかけて、身を乗り出すように顔を近づけると、佐竹は困った顔をして、
「バカ言え、サツから追っかけられるようなことはなんもしてねえよ。入って、全然間がないんだからよ……」
いつもの威勢のよさはどこへ行ったのか、佐竹は目じりにうっすらと涙をにじませて、座布団の上にすっかりへたり込んでいる。
「……で、なんでそんなことを俺に言いに来たんだ」
皿に広げたビスケットを乱暴にかじりながら尋ねると、佐竹は少し間を開けてから、
「聞いたんだよ。高津が、あの山藤なんとかっていう探偵と知り合いだって。――だから、洗いざらい、オレの知ってることを吐いちまおうと思ってさ。頼むよ高津、山藤なんとかのとこへ、連れてってくれよ」
「わかった、わかったよ。今、電話してみるから……」
思いがけない出来事と、急くような佐竹の口ぶりを少し疎ましく思いながら、探偵社へ電話をかけてみると、うぐいすのような交換手の声が耳へ飛び込んできた。
「はい、こちら、さつき探偵社東京本部でございます――」
「すいません、高津と言うものですが、至急山藤探偵長へお取次ぎ願います」
「少々お待ちください……」
保留音のオルゴールにじらされ、机へもたれかかるようにして電話を待っていると、急に音楽が止んで、
「もしもし、お電話代りました。高津健壱さんですね」
出たのは悠一さんではなく、仁科さんだった。
「あれっ、仁科さん、悠一さんは……」
「また、そちらの生徒さんがやられたんです。探偵長なら今、番町の現場に向かってるところです」
やられた、という感情が、体中を駆け巡る。鳴りを潜めていた殺人鬼が、また牙をむき出しにして襲い掛かってきたのだと思うと、憎悪に近いものが胸の内から沸々と湧きあがってきた。
「いったい、今度は誰です」
「身元は一応、本庁からの連絡で分かっているんです。――ガイシャは一年生の田代一真、有名な田代・轟証券の会長のお孫さんだそうです」
そんな名前にうっすらと聞き覚えがあった。たしかA組の、いつも髪の毛を気障ったらしくオールバックにした、細身のなよなよとした男子生徒だったはずだ。
「――わかりました。実は、その件に絡んで皆さんへご紹介したい人がいるんです。これから探偵社へ向かいますから、悠一さんへもそうお伝えください」
乱暴に電話を切って、服の上へコートを羽織ると、僕は佐竹の手を引いて、家を飛び出した。




