③
「いやあ、向こうはまだまだ夏みたいな日差しでしてね。おかげで、背広が暑くて困りましたよ」
本家本元の文明堂のカステラをお茶うけに、悠一さんと猫目さんは九州での体験をゆったりとした調子で語ってくれた。心なしか、うっすらと日に焼けたような感じがする顔には、一点の曇りもない。
「そういえば悠一さん、送っていただいた小説、読みましたよ。――やっぱり、あれが一連の犯行の下敷きになってるんですか」
鞄の中から、三越の包装紙でくるんだ本を出して見せると、悠一さんはしばらく黙ってから、
「それだけは確かですが、問題は、誰が使ったか、というところにあると思うんです」
そう言うと、悠一さんは立ち上がって、デスクへ軽くもたれかかったまま解説を始めた。
「そもそもあの作品が世の中に出なかったのは、出版点数を絞る必要が出たからなんです。さきの大震災で三陸にあった製紙会社の倉庫がやられて、その影響をもろに被った出版社のひとつが東邦書店だったんです。そのせいで、売れっ子作家の作品のみを重点的に出すことになって、何冊かお蔵入りになっている作品があるそうなんですが、その中の一つがあの『悪魔様登場す』だったというわけなんです」
あの作品が世に出なかった理由は、どうやらあの大津波が原因らしいとわかり、なぜだか納得をしてしまった。そうでもなければ、新刊案内に名前を載せておいて世の中へ出さないなんていう薄情な真似をするわけがない。
「で、ここから先が重要なんですが――」
悠一さんは机の上へ腰を下ろすと、人差し指を立てたまま、僕と猫目さんの方を向いて話を続ける。
「あれから法条に頼んで、『悪魔様』が、『WEBペン』でいつごろから掲載が始まったのかを調べてもらったんです。そうしたら、掲載スタートから出版が決定するまで、ほんの三か月ほどしか経っていないことがわかりましてね。しかも、これがアマチュア作家・諏訪路文香の処女作と言うこともあって、当時はあまり読者数が多くなかったようなんです」
「つまり、そもそもあの作品のことを知っている人間の数そのものが少ない、ということですか?」
僕の問いに、悠一さんは首を縦に振って、
「ええ、そういうことです。前に法条が見つけた、この作品のことを引き合いに出していた書き込みの主のような、かなりのネット小説通でないとわからないレベルのもののようですね」
「まあ、そう考えるのが一番素直かもしれませんね、探偵長」
そうらしいねえ、と返して、机の上から飛び降りると、悠一さんは元いたソファへ戻って、深々と座を占めた。
「じゃあつまり、今度の犯人はネット上での読者ではなくて、作者か、その周辺にいた誰か、ってことになるんですか」
「ええ、そういうことになるんですが……これがまた、問題でしてね」
先ほどまで、朗々たる調子で推理を披露していた悠一さんの顔が急に曇りだしたのがわかった。
「実は、小山田さんの元を訪ねた折に、その点について聞いてみたんです。そうしたら、思いがけない答えが返ってきましてね。――作者の方が、この夏に自分の部屋で首をくくって、自殺なすったんだそうです」
大きな積み木の塔が崩れたような、そんな衝撃が頭の中を駆け巡った。ここまで来て、まさかそんな結果が待ち受けていようとは……。
「いちおう、ご遺族の連絡先を教えていただいたので、近いうちにお話を聞きに行こうと思っています。そういや猫目、住田さんの電話番号、控えてあるか?」
「ええ、控えてありますよ――」
「ちょ、ちょっと待ってください」
暗がりでいきなり光を当てられたような、不思議な感覚に陥ったのが分かった。
「悠一さん、今、住田さん、って言いましたね。――もしかして、諏訪路文香さんって、本当の名前は住田茉理、って言いませんか?」
目の前の二人の顔が青くなってゆくのがよくわかった。
「た、高津さん、どうしてその名前をご存じなんですか」
「――僕、前に住田さんにちょっとだけ会っているんです」
その場の空気が冷え込んでゆくのがわかった。




