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放課後、弘之たちと一緒にプランタンのドアをくぐって、ボックス席に身を沈めながらコーヒーを飲んでいると、益美がそういえばね、と、レモンティーの入ったホットグラスを片手に、
「あの地震の日、誰が健壱の家に遊びに行こうかって言ったの、思い出したの」
「ほんとかい」
誰が提案をしたか思い出せず、いささか怪談じみた終わり方をしたままになっていたので、気にはかかっていたのだが……。
「で、誰なんだ」
身を乗り出して弘之が尋ねると、益美は鞄の留め金を外して、中から四つ折りになったコピー紙を取り出した。
「あの頃、貰い物のノートに、落書きついでに気まぐれで日記をつけてたんだけど、そこに書いてあったの。――この個所なんだけどね」
わざわざコピーしてきたというその個所を見ると、丁寧な字で、次のように記されていた。
三月十一日 曇り
合格発表があった。健壱と弘之とそろって合格。不安から解放された気分。帰る手前に、写真を撮るのを手伝ってほしいと頼まれて、他の学校の子と知り合う。住田茉理ちゃんという、ちょっと笑顔が不器用な、でも、話してみると良い子だった。
健壱たちとも打ち解けて、一緒に渋谷にでも出かけようということになったけれど、風邪気味らしい茉理ちゃんを気遣って、健壱の家でゲームをすることに。「メトロ・オブ・パリ」の新作があるという話に茉理ちゃんはノリノリ。
ただ、その帰り道に具合が悪くなったのか、茉理ちゃんはタクシーを拾ってそのまま帰ってしまった。連絡先を聞きそびれたけど、また春になれば会えるはず。
ゲームをしていたらすごい揺れ方をして驚いた。津波もあったらしい。明日からどうなるのか、茉理ちゃんの体調も大丈夫なのか心配。
「思い出した! そういえば、そんな子と会ってたな」
弘之が手を打つと、益美も食い気味に身を乗り出して、
「ね、そうでしょう。おさげで、ちょっと日に焼けてて、笑顔が少しぎこちない感じの――」
「なあ益美、確かその子、左手の甲にガーゼを貼ってなかったかい」
「そうそう! 火傷したあとが治らないって言ってて……」
ばらばらだったパズルがあっという間に組みあがって、頭の中に一人の少女の顔が浮かんだ。笑顔がぎこちないという益美の言葉通りの、ややぶっきらぼうにも映る顔。
そんな顔の持ち主である、住田茉理という名前には確かに覚えがあった。
「つーこたあ、半年近くほったらかしにしてわけか」
可愛らしくクリームあんみつをつついていた弘之が、ちょっと意地悪い顔を見せると、益美はバツの悪そうな表情浮かべてから、
「なによ弘之、あんただって忘れてたじゃないの――」
「そ、そりゃ、俺だって同罪だけどよお、日記付けてたんだからふいに思い出しそうなもんじゃないか」
「よしなよ、二人とも。――あんな大きな出来事のあったあとじゃ、しょうがないよ」
声量があがるたびに周囲の目がこちらへ向くので、遅まきながら間に割って入ると、二人ともあちこちの席から自分たちへ突き刺さってくる視線に気付いて、頼んだ品をじっと眺め出した。
「ひとまず、明日謝りに行こう。もしかすると、向こうも忘れてるかもしれないけど……」
ここまで口にして、ふと、ある疑問が湧いてきた。
考えてみれば、四月から数えて、かれこれ半年以上は経っている。その間に一度も、向こうからなんの音沙汰もなかったのはどういうことなのだろうか。
「ねえ、ちょっと変じゃないか。同じ学年なんだから、こっちが忘れてるとなれば、向こうから声をかけにやってきそうな気もするけど、どうだろ?」
「言われてみりゃあ……妙だなあ」
弘之が口からスプーンをゆっくり戻しながらつぶやくと、益美は腕を組んでしばらく考え込んでから、
「――ちょっと待って。確認してみる」
ブレザーのポケットから携帯電話を出して、あっという間に一文したためると、益美は送信ボタンを押してから、レモンティーをひとなめした。
「ほかのクラスの知り合いにメールしてみたから、返事を待ちましょ。どこのクラスか分かればそれでいいし……」
どこか歯切れの悪いのにひっかかっていると、メラミン張りのテーブルの上で益美の携帯電話が震えた。女子高生は反応が早いというのは本当らしい。
しばらく、益美は手にした携帯電話をじっと眺めていたが、しばらくして、不機嫌そうに顔を引きつらせると、ソーサーの隅にキャラメルのように包んでおいてある角砂糖を口へほうり込んでかじってから、
「……遅かったわ。B組にいたらしいんだけど、一学期の終わりに転校しちゃったんですって」
「て、転校!? で、どこに……?」
弘之が食い気味に尋ねる。
「それがわからないんですって。夏休みの登校日の時にいきなり、周子先生が発表したみたいなんだけど……」
「弱ったな、あの先生、産休の真っ最中じゃないか」
弘之がB組の担任の名前を口にしながら、くやしそうに言う。
「ほかに事情を知ってて、答えてくれそうな先生は……パッと思いつかないわね」
こちらの持ち駒がすべて、掌の上で崩れたような錯覚に陥った。思い出せたのはよかったが、これではどうしようもない。白けた空気が後押しするように店を出ると、一段と肌寒い、突き刺すような風がビルの間を駆け抜けていった。
「そろそろ降るかなあ」
襟元のマフラーを締めなおしながらつぶやくと、益美がまさかあ、と言って、
「東京はもっと遅いわよ。ま、北海道とか新潟辺りはそろそろかもしれないけどね」
「ったく、健壱は気が早いなあ。年明けになんねえと降らねえよ、東京は……」
そこまで口に出しかけていた弘之がおろ、と言って、新宿駅の壁面に据え付けられた電光ニュースを指し示した。
「見ろよ、なんか速報扱いで出てるぜ――」
だいたいのニュースは二度、たまに三度繰り返して表示されることが多いのだが、僕たちは運よく、その二巡目に出くわした。
【速報】渋谷で違法営業バー摘発 九十人逮捕 人数は平成に入ってから最高
変な話だが、全部読み終わると安心感が湧いた。まさか、三人目の被害者が出たのではないかと気が気ではなかったのだ。
「よかった、三件目じゃなくって……」
益美も同じことを考えていたのか、安堵のまなざしを掲示板からそらした。
「本当だよ。でも、いちどきに九十人も捕まるなんて、すごい事件があったもんだね」
「だなあ。なんかで読んだけど、ああいうとこで踊ると捕まるみてえだぜ」
「それほんと? 踊るだけで捕まるなんて……」
聞きかじりの知識に益美がかみつくと、弘之は少し狼狽してから、
「ちょ、ちょっと調べてみるわ。テキトーにしか覚えてなくて……」
「頼りないわねえ、あんた」
益美がじっと睨みを利かせると、弘之は気まずそうにウィンクしながら舌を出して笑ってごまかした。
急いで帰る理由も見当たらなかったので、二人を改札口まで見送ってから、新宿駅構内をさまようように歩いて時間を潰していると、ポケットの中で携帯電話が揺れた。
「はい、もしもし――」
名前もろくに確認しないまま出ると、聞きなれた声が耳に飛び込んで来た。九州へ出張中の、悠一さんからだった。
「あ、もしもし、山藤です。今、お時間よろしいですか」
「え、ええ、大丈夫ですよ」
人ごみを避けて、壁に貼られた鉄道会社のポスターのそばへ寄ると、僕は意識を集中させてから、で、どうなさったんですか、と尋ねた。
「――昼前にこっちへ戻ってきたんですが、それからちょっと、事件に進展があったんです」
「進展、ですか」
「え、ええ、そうなんです」
食い入るような言い方に、電話越しに悠一さんがぎょっとしたのが分かったような気がした。
「で、ちょっとお目にかけたいものがあるんですが、今はまだ、新宿にいらっしゃるんですか」
「はい、そうです。さっき、弘之たちと別れたところで……」
「なるほど、わかりました。では、お手数ですが、ひとつ、タクシーか何かを拾って、銀座まで来ていただけませんか? お車代はこちらで持たせていただきますので……」
ありがたい申し出だったが、胸の内は穏やかでなかった。九州から戻って早々、こうして僕を呼び立てたというのは、またなにか、新しい事件の火種がくすぶっているからではないのか……?
「――わかりました、これから拾って、銀座まで向かいます。近づいたらまた、折り返し電話しますね」
「お手数をおかけします。では、また……」
電話を切って改札口から往来へ出ると、僕は四、五台控えているタクシーの、ちょうど扉を開けたばかりの一台へ乗り込んだ。




