①
顔をなでるような寒さに目を覚ますと、枕もとの目覚まし時計に目をやった。
午前六時二十分。いつもより少しだけ早く、朝を迎えた。
布団をはねのけて、壁にかけてある制服の上下に着替えると、鞄の中身と時間割を照らし合わせて、忘れ物がないかを確認する。
――よし、何も問題はなし。
鞄を片手に部屋を出ると、みそ汁の匂い、そして目玉焼きの少し焦げたような香りが鼻に飛び込んできた。こたつに入るのをちょっとだけ我慢して台所へ入ると、振り向いた父さんと目が合った。
「健壱、おはよう。今朝はずいぶん早いな」
「早く目が覚めてさ。あ、みそ汁持っていこうか」
「頼む。あ、朝刊とってきてくれるか。その間に弁当の続き、やっとくから……」
五十手前になって、白髪交じりになってきた父さんの頭と、背広姿にとってつけたようなエプロン姿に、妙な感情が沸き上がった。
――母さんが生きてたら、こうして手伝うこともなかったのかもなあ……。
ハンカチで取っ手を覆い、みそ汁の入った鍋をこたつがある居間へ運ぶと、玄関の戸を開け、新聞受けのノブを引いた。つい二、三時間前に刷り上がったばかりの、ほんのり温かいような気のする新聞を手に取ると、つっかけを乱暴に脱いで、こたつへ潜り込んだ。
父さんがずっとそうしてきたのを小さなころから見てきたせいか、中学校に上がった頃から、新聞を読む癖がついてきた。最近、新聞を教育に使おう、とかいう話があがっているから、そういう点からするとよいのかもしれないけれど、なんだか自分で読んでいながら、ませているような気がしないでもない。
「――出来たぞ」
二人分の弁当箱と目玉焼きの乗った皿をお盆の上に一緒くたにして運んでくると、父さんは手をもみながらこたつに入り、背中を丸めながら暖を取った。
「なんか面白い事件、載ってるか」
ご飯をつけながら父さんが尋ねて来たので、
「昨日のとおんなじ。もう半年以上たつのに、全然進展がないや。――いただきます」
と、ぶっきらぼうに答えてから新聞を脇に置くと、湯気の立つご飯に手を付けた。
「あれだけの大津波で、しかも、町が一瞬でなくなったんだ。そうそう簡単に元に戻るもんじゃないよ、ありゃあ……」
うかつな物言いだった、と思って、僕はそのまま黙り込んでしまった。父さんはしばらく、食事に専念するふりをしながら仕切りの僕の様子をうかがっていたが、
「そういえば健壱、年末にいつもより長めの休みが取れそうなんだ。どっか行きたいか」
「……群馬の温泉、また行きたいな」
のりの佃煮をご飯の上にまぶしながら答えると、父さんはいいな、と前置きしてから、
「懐かしいなあ、水上の駅前で、母さんとゆで卵を買って食べたっけな。ちょうどいい、思い出めぐりに行こうじゃないか。旅館はまた、川沿いのあそこでいいか?」
「えーっと……どんなところだったっけ」
「ハハハ、十年も前だ、さすがに覚えてないか。ほら、紙の鍋でどうしてうどんすきができるのか、不思議がってただろう」
「……忘れちゃったよ。かなり前だし」
口ではそういったけれど、本当は覚えていた。ただ、その時は母さんにまつわる思い出にあまり触れられたくなくて、忘れたような口ぶりで答えた。
僕の母さんは小学校を卒業する年の夏、少女時代に行った輸血が原因の肝炎を発症して、秋の終わりに死んでしまった。もともと体が丈夫ではなかった母さんだったけれど、見舞いに行くたびにやせ細っていく姿を見るのは正直つらかった。
そのせいか、僕は自分から話をする以外で、母さんのことをふられるのがあまり好きではない。当事者の一人である父さんだけは別だったのだが、その日に限って言えば、父さんの口から母さんのことが語られるのが苦痛で仕方なかった。
けれど、そのことを面と向かって言えるはずがなかった。母さんの死と前後して部長に昇進した父さんは、比較的ゆとりを持った生活リズムを保つことができていた。その時間を活用して、学校の行事や休日の遠出、家事全般をこなす父さんの姿を見ていれば、なおのことだ。
――きっと、昨日の夜遅くまで、木場美沙緒の番組を聞いてたせいだ。寝不足なだけなんだ。
三時過ぎまで聞いていた深夜ラジオのことを思い出して、一瞬の気の迷いだと言い聞かせるように食事を終えると、弁当箱を鞄に入れてから、
「父さん、行こう」
「おう、ちょっと待っててくれ……。お待たせ。出ようか」
戸締りをしっかり確認してから、父さんと僕は家を出た。日差しはまあまあいいが、とにかく肌をなでる風が冷たい、そんな朝だった。二人そろってコートの襟を立てて、マフラーを念入りに巻き付けると、最寄りの駒込駅まで足早に歩いた。
「じゃあ、気をつけてな。今日は六時ぐらいには帰ってくるから、あんまり遅くまで寄り道したらいけないぞ」
「わかってるよ。じゃ、行ってきます。あと、行ってらっしゃい」
「おう、行ってくる」
父さんが営団地下鉄の改札を抜けていったのを見ると、僕は定期券片手に、新宿行きの通勤快速が止まっているホームへ向かった。
中学生のころ、テレビでよく見る通勤ラッシュの様子が怖くてたまらなかった。近場の高校が不良の巣窟で有名だったから、絶対によその区の学校を受けると決めていただけに、毎朝あんな缶詰め状態で学校へ向かうのかと思うと、それだけで気が滅入った。
ところが不思議なもので、このラッシュには一週間もしないうちに慣れてしまった。それは、見ているほどに混雑がひどくなかったということもあるのだが、つり革につかまっていなくても、自然に降りたい駅のところで人ごみに押されてホームへはじき出されるのがどこかゲームのような面白みを含んでいたからなのかもしれない。
そして、いつものように新宿駅でほかの乗客に押されながらホームへ出ると、南出口から外へ出た。時計を見ると、まだ八時少し前。いつもより一本早い電車に乗ったせいか、見なれたはずの甲州街道が今日は別に道のように見えた。
「――一本違うだけで、人の具合もずいぶん変わるんだなあ」
マフラーの下で呟きながら、街道沿いに十五分ほど歩くと、ビルの間に国旗と校旗がひるがえっている大きなポールが見えた。四月から始まった高校生活の舞台、都立第三高校がそこにあった。
都立、と聞くと、たいていの人はよっぽどの秀才か、MARCHを総なめするような成績の主のいるところだと思うらしい。けれど、第三高校に限って言えば、そこそこの成績の生徒が集まっている、可もなく、不可もない学校だった。
いつものように、四階建ての校舎を真正面に見る校門へ向かうと、白いジャージを着た、いかつい顔つきの先生が声をかけてきた。
「おう、高津じゃないか。おはよう」
「あっ、楠木先生。おはようございます」
門前に立っていたのは、サッカー部の顧問をしている体育の楠木という先生だった。高ほかの体育の先生の例にもれず、めりはりをつけた物言いと態度で知られているが、非常な人格者としてよその教科の先生や生徒からとても慕われている人格者なのだ。
「今朝は早いな。まだ、八時五分だぞ」
「早くに目が覚めたんで、父と一緒に出てきたんです。先生こそ、お早いですね」
「ここのところ不審火が多いというから、見回りをすることに決まってな。どうも、ケータイの電池が熱くなって、それが火元になる場合もあるらしい」
冷えるのか、楠木先生はしきりに手をこすっている。
「きっとそれ、流行りのスマホってやつですよ。外国製のやつで、熱暴走を起こすのがあるってニュースでやってました」
「そうか、スマホの電池か。ハハハ、なら安心だ。オレはまだまだガラケーだからな、あははは……」
豪快に笑う楠木先生に一礼すると、上履きに替えて、教室へ向かった。廊下で日直の女の子に会い、一緒に教室へ入ったのはよかったが、まだ暖房がついていないせいで、空気は氷のように冷えていた。
築四十年の校舎とともに長い間使われている、筒形の石油ストーブが温まるのを待っていると、見覚えのある顔が教室へ入ってきた。幼稚園からの幼馴染・曾野辺弘之だった。
「おっす、健壱。今日もさっむいなあ」
坊主頭を震わせながら近づいて来た弘之は、机の横に鞄をひっかけると、ストーブのそばへ寄って手をかざした。
「弘之、いつもより早いな。どうしたんだ?」
「なんだ、忘れたのかよ。親父とお袋が福引で当てた熱海旅行に行っててよ。遅刻したら怖いと思ってたら、いつもより早く目が覚めたんだ。んで、六時半の電車で新宿に出て、プランタンでモーニングコーヒーとしゃれこんでたワケ」
「優雅だなあ。オレも今朝は早かったけど、いつも通り、父さんと一緒に朝飯を済ませてから出てきた。年末にどっかへ旅行に行こうって言っててさ……」
「いいなあ、健壱ンとこの親父さんは子供思いで。息子を一人家に置いていく親父とお袋に見習ってもらいたいもんだよ……」
表情をころころ変えながらうなる弘之を面白がってみているうちに、クラスの中の人口密度が上昇し始めた。そして、あと五分で予鈴が鳴ろうという頃になって、一人の女子生徒が慌てて教室へと駆け込んできた。
「よう、益美。今朝はずいぶん遅いな。寝坊かあ?」
ストーブのそばへ近寄ると、おなじく幼馴染の一人、白石益美は頬を膨らませて、
「違うわよ! 髪型が決まらなくって鏡の前でにらめっこしてたの。どうやっても、後ろの髪がすとんと落ちちゃって……」
ヘアドライヤーで後ろの髪に癖をつけている益美は、いつも通りに決まった髪をなでると、
「あんたたち男と違って、女は身支度に手間がかかるの。覚えとかないと、彼女なんかできないわよー、だ」
「ケッ、益美みてえな遅刻魔、願い下げだよ」
「ちょっと、二人とも……」
けんか腰になっている弘之と益美の間に割って入ろうとすると、ちょうどよく予鈴が鳴って、争いはそこで中断されてしまった。
朝のホームルームを告げるベルと一緒に、教室へ担任が入ってきたのを見ると、日直が威勢よく、
「きりーつ、れーい。おはようございます」
と、棒読みの挨拶をした。我らが担任・山浦先生は、一時間目の国語で使うプリントに不備がないかを確かめると、おもむろに出席を取り始めた。
「えーっと、瀬山が休みで……白石」
「はい」
「んで、曾野辺」
「はいっ、はーい!」
調子っぱずれな弘之の返事に、山浦先生は戸惑いながら、
「お前がいるのはわかっとる。存在が濃すぎるんだ」
途端に、クラス全体が笑いに包まれた。曾野辺弘之という男は、とにかく目立つ男なのだ。
「はいはい、静かに」
慣れた調子で手を打ってその場をしずめると、山浦先生は教壇に身を任せるような格好で、
「出席を取っていてわかった人も多いと思うが、ここ二週間ばかりの間で学校全体、いや、都内の各学校にインフルエンザの猛威が襲い掛かりつつある。まあ、いくら予防注射をしていても、なるときはなってしまうものだ。これが普通の生活を送っているうえならまだいいが、もしこれが受験の前だったりしたらえらいことになる。手洗いうがいを怠らず、各自で健康管理をするように」
三十七人いるクラスメイトのうち、四人がインフルエンザで休んでいるという状況を重く見たのか、山浦先生は不安いっぱいの目をして、ぼくらの方へ顔を向けていた。
「――ま、辛気臭い話はここいらで止しておこう。『山月記』、前回の続きからいくぞ。じゃあ、今日の日付にちなんで……」
山浦先生の国語の時間では、授業開始のベルが鳴らないうちから教科書を取り出すのはよくある話なので、みんな慣れた手つきで教科書を出し、ノートにペンを走らせ始めた。
大学ノートを横にして、しばらく黒板の内容や先生のつぶやきを書いていたが、話がどんどん関係ないところへ脱線してゆくのが分かると、ペンを持ったまま、僕はよそに目をやった。ふと、目線がある場所にたどり着くと、怪しい記憶を探りながら、
――おととい、見たきりかあ。あの子は風邪、だったっけ。
机を二つ挟んだ左斜め前に出来た空席の主、石井留美という女子の安否が気になって、僕はしばらく、彼女の席をじっと眺めていた。
別に、石井さんに好意があるとか、そういうわけではない。ただ、日ごろあまりクラスのみんなと関わることがない、言うなれば孤高の存在である彼女がいないことに対して、誰も興味を持たないというのが不思議でならなかったのだ。
――かかわりがなきゃ、当たり前かなあ。
話が本線の方へ戻ってきたことを確認すると、僕は再びシャーペンの芯を出して、板書の続きをノートへ書き始めた