②
四月からずっと歩いてきたはずの道なのに、こんな場所があったなんて……。
この前、神田の法条さんを訪ねた時を思い起こさせる、古ぼけたビルの隙間に点在する小さな飲み屋街の隅っこに、目当ての店はあった。元はちゃんと壁材が塗ってあっただろう外壁は、長い間の雨風にさらされたためか、下地のレンガがあらわになっている。
石井さんの案内でたどり着いた「ふみ」という喫茶店は、言ってしまうと悪いけれど、うらぶれたずいぶんと小汚いところだった。
「――マスター、いる?」
樫の木のドアを開けると、頭の上で熊鈴のようなベルが鳴る。そして入れ替わりに、針音の混じった、お腹に響くような音質の交響曲が僕と石井さんを包み込んだ。
「やあ、留美ちゃんか。いらっしゃい」
細身の体に、白髪の混じった頭をしたマスターが、頬杖をついていたカウンターから離れる。同時に、盛り上がっていた交響曲が、中途半端なところで止む。
「あ、すまん、ちょうど終わったとこでね……」
マスターは店の奥にある小ぶりの本棚のようなもの――どうやら蓄音機らしい――のそばへ寄ると、電話ボックスほどの背丈がある棚から、別のレコードを取り出した。
「ここね、蓄音機でレコードをかけてくれるお店なのよ。――マスター、アポロンの調子、どうですか?」
返事の代わりに、マスターはレコードへ針を落として、またあのお腹に響くような音の交響曲を、店の中いっぱいに鳴らした。
「――ときに留美ちゃん、その子は彼氏かなんかかい」
僕が冷やかすようなマスターの言葉に顔を赤らめて、返事に詰まっていると、石井さんは抗議するような口ぶりで、
「違うわよ。――彼、同じクラスの高津健壱くん。学校行くのが嫌になってたみたいで、さっきそこで出くわしたのよ」
「ハハハ、ま、そういうことにしておこうか。――で、お二人とも、ご注文は?」
コーヒーミルの様子を見ながら尋ねるマスターに、石井さんがコーヒー二つ、熱いところをね、と返すと、
「おいおい、まるでうちのがぬるいみたいな言い方じゃないか――少々お待ちを。あ、留美ちゃん、レコードの番、頼めるかい」
「わかりました。じゃ、近場の席、借りますね」
蓄音機に近い席へ腰を下ろすと、石井さんは内蔵されているラッパの前についた扉を両方閉じて、終わりに差し掛かっていたレコードから針を上げた。棚から別のレコードを探して、一緒に鉄針を交換すると、今度は陽気なスイング・ジャズがいっぱいに響いた。
「――大変だったわね、高津くん」
組んだ指の上に顎を乗せたまま、石井さんがじっとこちらを覗き込む。
「まあね。まさか、こんな大きな事件に足を突っ込むなんて、思わなかったよ」
「きっとそのうち、犯人も見つかるでしょうけど……それまでどのくらいかかるのかしらね」
ジャズに似合わぬ、ずいぶん暗い話題だ。
「どうしても気になるのよ。ただでさえ、訳の分からないことが多い世の中だもの。今度の事件がいったい、世間にどんな影響を与えるのかが……」
姿勢を正すと、石井さんは運ばれてきたお冷のグラスを手に取って、シャンデリアの明かりの下へ透かして見せる。
「この水だって、いったいどれだけ安全なのか、わかったものじゃないわ。数字でいくら見せられたって、偉い学者の先生がどんなに大丈夫だっていっても、肝心の私たちは不安で仕方ない。で? その不安、いったい誰が拭ってくれるの?」
「そ、それは……」
どんな答えが正しいのか知らないどころか、考えたこともなかった。どう言ってよいか分からず口ごもっていると、石井さんは椅子へ深々と背を預けて、
「ごめんなさい、変なこと聞いて。でもね、高津くん」
いつの間にかレコードが終わって、ぷつぷつという針音だけが鳴っている。
「――これはね、私たち日本人の肩にのしかかってる、直面しなきゃいけない問題なの」
石井さんの真剣なまなざしが、じっとこちらを見つめている。きちんと答えられなかった自分が恥ずかしかった。
「ま、いいわ。この話は今度、またゆっくりしましょ。コーヒーもきたし、のんびり時間を潰しましょう」
席を立ってから針をあげて、新しいものと替えると、石井さんはレコードを棚に仕舞って、
「マスター、ラジオでもつけてくれないかしら。しばらく話をしてるから……」
「おやおや、レコード番はおやすみかい。せっかく、サービスしたのに……」
銀のお盆に乗った、香りの高いコーヒーが運ばれてくると、一緒になってチョコレートケーキが二つ、お皿の上に控えているのに気付いた。
「あら、じゃあ、やめるわけにはいかないわね。――私のチョイスになるけれど、いいかしら?」
石井さんがそう言うと、マスターはカップをテーブルの上に置きながら、
「いいとも。ほかならぬ君のことだ、信頼してるよ」
「それはどうも。じゃ、はりきって選ばないとね」
ウィンクをしてみせると、マスターは照れたような笑いをあげて、そのまま奥へ引っ込んでしまった。
「――放課後ぐらいまで、ゆっくりしていきましょ。今日は私が誘ったから、お代は任せて」
「そ、それはちょっと……」
「いいのよ、写させてくれたお礼だと思って、遠慮なく。じゃ、お願いできるかしら」
「――わかった。じゃ、始めようか」
お互いに鞄から物理のノートを出すと、石井さんはあの、猫のワンポイントが入った万年筆のキャップを外して、丁寧な筆致で僕の字を写しとってゆく。
昼食のカツカレーと何杯かのおかわりを挟んで、その店には夕方まで滞在することになったが、なんとも有意義なひと時だった。とりとめのない話を、ただなんとなく、それこそ話すことだけが目的のように、だらだらとした調子でするだけだったが。そのうちに、学校をさぼった罪悪感はどこかへ消えて、いつまでも、この空間に身を預けていたいような、そんな感覚が頭を支配していた。
「じゃあまた明日、来てたら学校で……」
「そうね。今日は楽しかったわ。それじゃ、おやすみなさい」
新宿駅前の人ごみで別れると、石井さんはすっと、霧のように雑踏の中へ溶け込んでしまった。
「……会える、よなあ」
急に、心の隅へ穴が開いたような気分に陥った。半日近く一緒にいたのだから無理はない話だ。
そろそろ帰ろう、と改札の方へ一歩踏み出すと、ズボンに突っ込んだ携帯電話がぶるぶると震えた。店を出る間際に電源を入れたのを思い出して、ポケットからはみ出たキーホルダーを引っ張ると、着信画面に「山藤悠一」とあった。
「はい、もしもし――」
「あ、もしもし、僕です、山藤です。ちょっとよろしいですか?」
いいですよ、と口にしかけたところへ、せわしない足取りのサラリーマンが咳ばらいをしながら通り過ぎて行ったので、慌ててひと気のないところへ場所を移った。
「すいません、新宿駅にいまして……で、なんのご用事ですか?」
「いや、実は例の事件で少し進展がありましてね。よかったら銀座の探偵社までお越し願えないかと思いまして……」
進展があった、という言葉に、胸が躍るのが分かった。もちろん断る理由もないので、わかりましたとだけ返すと、僕は改札を離れ、都営地下鉄の階段を勢いよく下った。




