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新宿で僕が悠一さんを紹介したとき、父さんはずいぶんとめんくらっている様子だった。この前、うっかり連絡をし損ねて渋谷からタクシーへ乗ったときに理由をちゃんと話していなかったのもあったが、父さんの会社がかつて、さつき探偵社のお世話になっていた、というのが特に大きかったようだった。
「――いや、その節は大変お世話になりました。皆さんがいらっしゃらなかったら、今頃うちは不本意な吸収合併案を飲まされるところでしたよ」
路肩に止めたクラウンの前で、父さんは悠一さんへ何べんもお礼の言葉を伝えている。それに対して悠一さんは、
「いえいえ、これがうちの商売ですから、当たり前のことをしたまでですよ」
「しっかしまあ、思いがけないところでつながりましたねェ」
人の縁ってのは不思議ですねえ、と、猫目さんも頷いてみせると、父さんは再び頭を下げながら、
「今度また、こうして倅がお世話になるのも、何かのご縁なのでしょうね。ひとつ、捜査のお役に立つということでしたら、遠慮なく連れ出してやってください。そしてどうかひとつ、子供を持つ親の不安を一日でも早く拭い去ってやってほしいのです……」
父さんの口から出てきたのは、切実な、親としての願いだった。その様子を見ると、悠一さんはわかりました、と、少し低い調子で言ってから、
「お任せください。一千万の都民の不安は、きっと僕たちが解決してご覧に入れます」
固い握手を交わすと、僕と猫目さんが乗り込むのを待って、悠一さんは、
「では、あとは私に万事お任せを……」
それだけ言い残してエンジンをかけると、クラウンはあっという間に、往来の中へ溶け込んでしまった。後ろの窓から、こちらへ向かって手を振る父さんがすっかり見えなくなると、猫目さんが手を頭の後ろへ回した格好で、
「いいお父さんでうらやましいな。うちなんか、ああはいかないよ」
「ま、そうボヤくなよ。――そうそう、高津さん。これから行く先をまだお伝えしていませんでしたね」
ハンドルを握りながら、悠一さんがバックミラー越しにちらりと顔をのぞき込んだ。
「いったい、どこへ行くんですか」
僕の問いに、悠一さんは素っ気なく、
「神保町です。そこのはずれにある小さな雑居ビルに、僕らの強力な味方がいるんです」
「強力な……味方?」
「そう。オレたちさつき探偵社にとって、なくてはならない存在……ってとこかな。まあ、会えばわかるよ」
おどけた調子で、逆さにした首をこちらへ向けながら猫目さんが笑ってみせる。それ以上聞くのがなんとなくはばかられたまま、僕は神保町へ着くまでの間に、うとうとと舟をこいでしまった。
けたたましいクラクションに目を覚ますと、窓の外へ身を乗り出して、猫目さんが走り去っていった乱暴運転の軽トラックへ江戸弁で罵詈雑言を吐いているところだった。気づけば、二、三度来た覚えがある、古書店街の雑多なビル群のすそ野に車が止まっている。
「ばっきゃろう、てめえどこみてやがんだ!」
ありったけの恨みをまき散らす猫目さんを、それこそ飼い猫の首でもつかむように車内へ引き戻すと、悠一さんは先に車を降りた。見ると、トランクから三越の包装紙でくるんだ、牛乳パックを二つくっつけたぐらいの大きさの箱を小脇に抱えている。
「お待たせしました、あれが例の、強力な味方のいる場所です」
ドアを開けると、悠一さんは自由な左手で、大通りから三歩ほどひっこんだところにある、うすぼんやりとした街頭の灯りの奥を指して見せた。
じっと目を凝らすと、突き当りのところに、四階建ての古びた雑居ビルが軒先に二十ワットほどの裸電球を灯して、さながら幽霊のように控えている。
「あそこ、ですか?」
お化け屋敷を前にした時のような感覚で尋ねると、猫目さんがしきりに頷いて、
「その通り。あそこの地下一階にいるキザな男に、今夜は用事があるのサ。探偵長、行きましょ――」
そのまま、三人一緒になって暗い裏通りへ入る。軽自動車が抜けるのがやっと、という幅の道を歩いていると、麻雀荘でもあるのか、牌をかき回す音に交じってにぎやかな声が。そして、アパートか貸間の窓からは、テレビのバラエティ番組の音が漏れ聞こえている。そういった音がみんな、コンクリートへとこだまして鳴り響いている様子というのは、なんとも不気味なものがあった。
ソケットの具合が悪いのか、さきほどから瞬き始めている裸電球のある玄関先を潜り抜けると、真新しい蛍光灯の光が、地下へ続く階段を照らしていた。崩れかけている一段一段を踏みしめながら、右手の方向にある廊下を、僕は悠一さんと猫目さんの後ろへくっついてゆく。
「やっこさん、またこの前みたいに寝落ちてたりしないでしょうねえ」
ポケットへ手を突っ込んだまま、猫目さんが愚痴る。どうやら、これから尋ねる相手には、人を困らせる、どこか気ままなところがあるようだった。
「まあ、あり得ない話ではないね。その時は管理人に頼んで、マスターで開けてもらうしかないなあ」
「よしてくださいよ。この前、床に転がってたアリナミンの瓶ですっこけたとき、コブが引っ込むまでずいぶんかかったんですから……」
猫目さんが手で、コブがあったらしい左の側頭をさすってみせる。
「そ、そんなことがあったんですか」
「なに、猫目がちょっと大げさに言ってるだけですよ――」
急に、悠一さんの足取りが止まったので、思わず身構えると、いつの間にか僕は、廊下の突き当りにある、うっすらと錆が浮いたピンク色のドアの前にたどりついていた。
「――ここが、その人の家なんですか?」
怖々と戸を眺める僕へ、悠一さんはその通り、と答える。
「さて、あいつ起きてるかな……?」
呼び鈴を押すと、セミのようなブザーの音がドア越しにこちらへも聞こえてきた。しばらくその場で相手が出てくるのを待ったが、なかなか反応がない。しびれを切らした猫目さんが二度三度ボタンを押したが、結果は同じだった。
「探偵長、もうじき五分経ちますよ。ちょっとこれ、管理人を呼んできたほうが――」
「――おいネコ、オレならここにいるぜ」
声のする方向へ振り向くと、階段を降りたところへ、背の高い人影が買い物袋をぶら下げて立っていた。逆光で顔が見えないので、必死に目を凝らしていると、悠一さんが相手のほうへ軽く手を振った。
「よう、法条。元気にしてたかい」
「よっす、探偵長。オレはまあまあだな。――相変わらず、来るのが早いなあ」
コンクリートを踏み鳴らすブーツの音が近づいて、ようやく相手の顔がわかるようになった。そこにいたのは切れ長の目をした、紺のメッシュが入った金髪の、色白な顔色をした、背丈が一八〇センチばかりある青年だった。
「君の来るのが遅いだけだよ。どっかへ買い物にでも行ってたのかい?」
「まあ、そんなとこだ。――アリナミン、切らしちまってな」
ドラックストアのロゴが入った買い物袋を高々と持ち上げてみせると、青年は八重歯を見せて笑った。
「――高津さん、紹介しましょう。僕らの強力な味方で、情報屋兼、職業ハッカーの法条保美さんです。今度の事件で、一部の情報収集を依頼しているんです」
悠一さんから紹介をされると、法条さんは軽く咳払いをしてから、
「――高津健壱くん、だね? 法条です、どうぞよろしく」
差し出された法条さんの右手を握ると、体温が低いらしく、こちらの手元にひんやりとした触感が伝わってきた。
「で、法条。さっそくだけど、例のものは?」
「やれやれ、もう仕事モードか。まあ、ジュースの一本でも飲んでからにしようぜ。オレ、一時間前に目が覚めたばっかなんだよ」
肩をすくめながら、おどけた調子で言って見せると、法条さんは鍵を開けて、僕らを家の中へと招き入れた。




