②
二限目の授業を受けるために、弘之とのんびりしゃべりながら物理教室へと向かっている時だった。教室棟と特別棟の間にある、トタン屋根とスノコを敷いただけの渡り廊下へ差し掛かると、音楽の授業を受け持っているヒス子というあだ名の、宇野という先生が相変わらずの神経質な表情で、こちらのあいさつなども無視して通り過ぎていった。
「感じ悪いなあ。日頃あいさつをしろとかうるさいくせに、こっちがするとあれだぜ」
「しょうがないわよ、おトシなんだから……」
弘之と益美のやりとりを後ろでぼんやり見ていると、不意に背中を叩かれた。振り返ると、石井さんが教科書とノートを持ったまま、
「高津くん、休んでた分をちょっと教えてほしいんだけれど、いいかしら」
「え、僕でいいの?」
こうやってノートを写させてほしい、と頼まれたのは、入学以来、弘之の他には石井さんが初めてだった。断る理由も見当たらないので、いいよ、と返事をすると、
「ありがとう。――他に頼めそうな人も見当たらないから、心強いわ」
「そ、そんなあ……」
女の子から頼りにされるというのはなかなか気持ちがいいものだ。ひとまず、物理教室へ入ってからノートを見せてあげよう、と考えていると、
「よう高津、楽しそうじゃねえかよ」
聞き覚えのある、けれどもあまり関わりたくないやつの声が耳へ飛び込んできた。声の主は佐竹久という、あまりガラのよくない小柄な男子だった。
「二人そろって学校休んで、楽しく外でデートかい」
「――そんな風に見えるんなら、一度眼科に行って眼鏡でも作ってもらいな」
これ以上関わるのが面倒くさくて、ガラにもない皮肉を言ってやると、佐竹は返す言葉が見当たらなかったのか、チッと舌打ちをすると、そのまま黙り込んでしまった。距離を空けて、再び石井さんと並んで歩きだすと、
「高津くん、結構ハッキリ言うのね。知らなかった」
「そ、そうかな、ハハハ……」
眠たげな印象を与えるような目でこちらの顔をのぞき込んでくるので、思わず照れ隠しに笑ってみせると、
「私、高津くんはもっと、自信もっていいと思うわよ」
「え、どうして――」
と、口から出しかけたが、聞くのはよしておくことにした。
――自信があるほうには思えないけれど、そういう風に見えているなら、見せておいても損はないかな……。
そのまま並んで物理教室へ入って、どこか隅の席で進んだ分を教えようと考えていると、準備室から物理の武田という先生が、枝切りばさみを二回りほど大きくしたようなワイヤーカッターを抱えて、すれ違いざまに、
「みんな、ちょっと自習しててくれ!」
それだけ言い残して走り去ってゆく武田先生に、みんなはあっけにとられている様子だった。
「健壱ィ、武田のやつ、どうしたんだろうなあ」
言いつけを守って自習をする気などさらさらない弘之は、席に着くなり携帯を開きながら、のんびりとゲームの攻略サイトを眺めている。
「あんなに大きなカッターで、いったい何を切るのかしら。石井さん、どう思う?」
そばへ腰を下ろした益美が、石井さんへ質問を投げる。
「さあ、何かしらね。パッと見た感じ、鎖とかは楽々切れそうだけれど……」
猫のワンポイントの入った、細身の万年筆でノートを写しながら、石井さんは目をやや伏せたまま考えを述べる。と、そこへ弘之が鼻の下へシャープペンシルを挟んだまま、
「――まさか、またなんかあったんじゃないだろうなあ」
いきなりこんなことを、しかもあのよく通る大きな声で言ったせいで、物理教室の中がしんと静まり返ってしまった。みんなの視線が自分のほうへ向いているのに気付くと、弘之はバツの悪そうな顔で、
「わ、悪かったよ! だって、あんなでっかいの持ってたら……さあ」
言い訳にも筋が通っている部分があると思ったのか、険しい顔だったクラスの連中は、それもそうだな、と口々に言いながら、次第に表情をゆるめていった。
「弘之、あんたバカじゃないの? みんなあのことでピリピリしてるんだから……」
襟をつかむと、益美は机の下へ弘之の顔を持って行って、小声で説教をし始めた。
「悪かったよ、でも、あんな大きなの見たらさあ……」
「思っても言うんじゃないの! もう、しょうがないんだから……」
こんな調子に机の下で繰り広げられる、弘之と益美のやりとりを石井さんと一緒になって、呆れながら見ていた時だった。どこからかゆったりとした調子のピアノの旋律が流れてきて、再び、その場を沈黙が支配した。
「――これ、なんて曲だっけ?」
「――モーツァルトのトルコ行進曲、それの序曲だったはず」
誰かが曲名を口にして、いったんはこの真下にある音楽室で、どこかの学年が授業をしているらしいという答えにたどり着いた。が、
――妙だ。
よく考えてみるとおかしいことがある。春からの半年近く、何度もこの教室で授業を受けてはきたが、こんな風に、演奏やCDの音が聞こえてくることが、今まで一度でもあっただろうか――?
そのうちに、今度は扉が乱暴に開く音がどこからか聞こえてきた。そして間髪を空けずに、今度は女の金切り声のような悲鳴が、上の階にいる僕らの耳にまで飛び込んできた。
「おい、ほんとになんかあったんじゃねえか」
「ちょっとやめてよ、怖い――」
教室の中がどんどんと騒がしくなってくる。そのうちに、佐竹が戸を開けて、
「オレ、ちょっと覗いてくるわ」
「おい、待て」
「待ちなさい!」
級長や風紀委員の制止も聞かずに飛び出すと、佐竹の姿は扉から見える階段の奥へと消えてしまった。が、それから十秒も経たないうちに、今度は佐竹が悲鳴をあげて、こちらへと足早に戻ってきた。
「おい佐竹、いったい何があったんだ」
級長の問いかけに、佐竹は机の隅へしがみついたまま、何も言わずに震えているばかりだった。
「――ほら、飲んで落ち着いて」
見かねた風紀委員が、流しに置かれていた真新しいビーカーへ水を汲んで、それを佐竹へ差し出す。佐竹はそれをひったくるように受け取って、勢いよく飲み干すと、
「ち、血だ。血が、音楽室のドアのところから……」
血、という言葉に、教室の中が一段と騒がしくなる。焦った級長が肩を揺さぶりながら尋ねる。
「おい佐竹、本当か――」
「嘘なんかつきゃしねえよ!」
「じゃ、じゃあ、今鳴ってるピアノはなんなの……?」
終わることもなく、延々となり続けるトルコ行進曲の序曲に、佐竹を囲んでいた級長と、風紀委員の顔がどんどん青ざめてゆく。
――また、誰かが殺されたんだ。
同時に、僕も自分の体から少しずつ、温もりが引いてゆくのがわかった。




