①
「じゃあ、気を付けてな。今日は帰りが早いから、たまにはどこかに夕飯でも食べに行こうか」
久々に制服へと着替えた朝、出かける支度をしていた父さんが、珍しく外食の提案をしてきた。
「いいね。でも、どこにする?」
「そうだなあ……ひとまず、新宿で待ち合わせ、ってことにしよう。そこからブラブラしながら、考えようじゃないか」
お気に入りのネクタイピンをとめると、父さんは腕時計へ目をやってから、
「よし、出かけようか。健壱、ひさしぶりの学校でちょっと緊張してるかもしれないが、まあ、いつも通りに行きなさい。まずは、弘之くんたちに元気な顔を見せてやるんだぞ」
「わかってるよ。じゃ、ゴミ出ししてくるから、鍵、お願いね」
右手に鞄、左手に空き缶の入ったごみ袋を持つと、僕は一足先に家を出た。とたんに、顔全体をなでるような、季節外れのむっとした湿気に、思わず足を止めた。どうやら、雨雲が近づいている様子だった。
「――ひと雨来るかもしれないな。健壱、折り畳みは入れたか?」
左の肩越しに、父さんが空を見上げながら尋ねる。
「うん、いつも入れてある。父さんこそ、大丈夫なの?」
「お前とおんなじだ。さて、出かけるとするかな……」
ごみ袋を網の中へ入れて、いつものように駅で別れると、何日かぶりに、新宿の雑踏の中へと繰り出した。改札を抜けると、天気の悪くなりそうなのを察知したのか、手元に雨傘や、厚手のレインコートを着ている人の姿があちこちに見受けられた。
「――祝日明けだと、行く気がしねえんだよなあ」
いきなり耳元で声がしたので、驚いて振り返ると、弘之がニヤニヤしながら、益美に馬鹿にされたような視線を向けられてデンと控えていた。
「よう、健壱ィ。元気そうで安心したぜ」
「弘之! 益美も一緒だったのかあ」
同じ方向だもん、当たり前でしょ、というと、益美は鞄の中から緑色の包装紙に包まれた小さな箱を僕へ突き出した。
「全快祝いのキャンディー。弘之と一緒に買ったんだから、味わって食べてね」
「ありがとう。昼休みに、のんびりなめるとしようかな」
休んでいた人間が戻ってくるので、ちょっとよそよそしくなっているものかと身構えたけれど、この二人がいることを思うと、そんな心配はばかばかしく思えてきた。
案の定、クラスへ入るまでの道筋もいつもの通りだった。その代わり、教室へと入った途端に、安否を気にしていたらしい女子たちが、一斉に僕を囲んでしまったのには驚いた。
「高津くん、あんた神崎さんの遺体を最初に見つけたんですって!」
「噂になってるわよ、警察にひどい取り調べを受けたって……」
「犯人から脅迫されてるから学校へ来れなかったって本当?」
まるで覚えのないことを次から次へと尋ねられるので、困って弘之の袖をつかむと、そのまま鞄を置いて教室を飛び出してしまった。ひとまず男子トイレへと隠れると、僕は弘之に、いったい何が起きているのかを尋ねた。
「――それがよお、俺にも全然わからないんだよ。気が付いたら、あんな具合に噂が広まってて……」
いきなりつかんだ左腕が痛むのか、上着の上からさすりながら、弘之は答えた。
「弱ったなあ、いったい、誰がそんなことを……」
弘之はしばらく返事に困っていたが、もしかするとさあ、と、ひとさし指を立てながら、
「他のクラスのやつらじゃないかなあ。知ってる限り、うちのクラスにはお前のことを心配していないやつはいなかった。となると……」
「――ほかのクラスのやつが面白がって話してる、ってかい?」
弘之は僕の言葉を否定も肯定もしなかった。
「……それ以外には思い当たる節がないからなあ。ひとまず、教室へ戻ろうぜ。そろそろ、山浦先生が来る頃だしさあ」
「ありゃ、もうそんな時間か」
休んでいる間に、染みついた習慣が少しずつ抜け出しているようだった。慌てて男子トイレを抜けて、廊下を小走りに急ぐと、階段のところで、見覚えのある顔に出くわした。
――誰だったっけ?
雪のような白い肌で、丸みを帯びた童顔のややうつむきがちの目元。すこし縮れたような毛先のボブカットが、歩くたび揺れている。ほんの一瞬のうちにそんなことを考えたが、やがて、頭の中へきちんと答えがはじき出された。
そこにいたのは、しばらく学校を休んでいた石井さんだった。
「あら、高津くん。――もう、元気になったのね」
色白の顔の口元へ笑みを浮かべると、石井さんは
「おう、石井じゃんか。この通り、健壱はピンピンしてるぜ。よかったよかった、なあ?」
「そうね、よかったわ。曾野辺くん、まだ先生、来てない?」
「――いっけね、急いでるとこなんだよ。一緒に行こうぜ」
すっかり頭から抜けていたのに気付いて慌てふためく弘之を見て、石井さんは唇を手で押さえながらクスクスと笑う。もっと不愛想な子だと思っていただけに、ちょっと驚いた。
そのまま教室へ戻ると、また女子たちがこちらへ寄ってこようとしたが、時を同じくして入ってきた山浦先生の存在に気づいて、そっと席へ着いてしまった。
「――高津、元気か」
「ええ、なんとか元の調子に戻りました。ご心配をおかけして、申し訳ありません」
軽く頭を下げると、山浦先生はなに、気にするな、と言ってから、
「なにか心が辛くなったら、遠慮なく相談しなさい。こういう時のために、大人っていうのはいるんだからな」
「……ありがとうございます」
時間のおかげか、憔悴しきっていた先生の顔はいくらか落ち着いて、いつもの優しい顔へと戻っていた。
――よかった、みんな、元の通りになってる。
余計な心配をして、損をした。戻ってきたら自分の居場所がないんじゃないか、とか、あれっきり学校の中が不穏な空気のままなんじゃないだろうか、とか、何度布団の中で考えたことだろうか。
そんなことはなかった。思っていたよりも、人間というのはタフな生き物だった。
きっとそのうち、悠一さんが犯人を挙げて、神崎の敵討ちをしてくれるはずだ。いずれ、いい知らせがもたらされることだろう……。
鞄の中身を机へ移すと、僕は真新しいノートを開いて、そっとページを平らにした。




