テラス席にて(後編)
「……河田さん、何? また魚釣りの話?」
「いや違う、違う。現実の釣りの話じゃなくて、一種の例え話。ことわざか格言か知らないけど、そんな言葉あるだろう?」
少しの時間ヨウコに見とれていた俺は、頭を切り替えて、彼女の誤解を訂正する。
軽いアウトドア趣味が共通する俺たちだが、もちろん細かい部分では違いもあった。
例えば、俺は魚釣りが好きなのに、ヨウコは嫌い。一度だけ一緒に行ったら「お魚さん、かわいそう」という顔をされたので、以後は二度と彼女を釣りに連れていかないようにしている。
「ああ、男女の恋愛の駆け引きみたいな話ね。そういえば、聞いたことあるかも」
ヨウコは「それが何か?」という口調なので、俺は話を続けた。
「そう、それそれ。そういう話では『釣った魚に餌はやらない』を、いかにも悪いことみたいな方向性で扱ってるけど……。実際、釣ってきて水槽で飼い始めた魚には、餌をやり過ぎると良くないんだよ」
「ああ、やっぱり、現実の魚の話じゃないですか」
……ん?
言われてみれば、そういうことになるのだろうか。
別に、特に深い意味はなかった。とりとめもない話題に過ぎないけれど、せっかくだから最後まで言い切ろう。
「そうそう、ごめん。やっぱり、現実の魚のことかな。ともかく、水槽に餌を入れ過ぎると、食べ残した餌が腐ったり……。あと、たくさん食べれば糞も多くなるから、どちらも水の汚れの原因になるんだよ。『百害あって一利なし』とは、まさにこのことでね」
「河田さん……。私たち今、おしゃれなカフェレストランで、ケーキ食べてるのよ? 排泄物の話題は、ちょっと……」
咎めるような視線で、呆れ声のヨウコ。
職場の昼休みのランチでは食べながら平気で、えげつない動物実験の話もするのが俺たち研究者なのに……。時と場所を考えろ、と言いたいらしい。
「ごめん……」
まるでイタズラが見つかった子供みたいに、背中を丸めて、小さく謝る。
そんな俺を見て、ヨウコは一つ、ため息をついた。
「そういうところは、変わらないのよねえ」
それから間髪入れずに、改まった口調で続ける。
「ねえ、河田さん。私たち、そろそろ終わりにしましょう」
「……は?」
突然、何を言い出すのか。
俺が戸惑っていると、ヨウコは、間違えようのない表現で言い直した。
「恋人から友人に戻りましょう、ってこと。つまり、別れましょう、ってこと」
「……なんで?」
絞り出すような俺の声に対して、ヨウコは努めて明るく返す。
「ごめんなさい。他に好きな人が出来ちゃったの。てへっ」
まるで「失敗しちゃった!」と言わんばかりに、小さくペロッと舌を出す。
もう恋人同士ではなくなったこの瞬間も、そんな彼女を俺は「可愛らしい」と思ってしまう。
同時に、頭の片隅では冷静に考えていた。
忙しさにかまけて、恋人は放置。これが比喩的な意味での「釣った魚に餌はやらない」であり、ちょうど自分自身が今、その結果を目のあたりにしているのだ、と。
(「釣った魚に餌はやらない」完)