これまでの二人
彼女と俺、つまり林ヨウコと河田ハタロウは、同じ研究機関に勤める研究者だ。ただし所属しているラボも専門分野も違う。
彼女の方は、毒性生物が産出する毒物の研究。いわゆる毒物学――toxicology――で、俺の方はウイルスの基礎研究だからウイルス学――virology――だ。
彼女の研究対象は毒という化学物質だから生物そのものではないし、俺のウイルスだって微生物と呼ばれるが、学問的な定義では『生物』とは見做されていない。それでも二人とも一応は『分子生物学者』に相当するのだろう。
要するに、どちらも理系の研究者だ。
世間の人々が理系の学者に対して抱くイメージと言えば、実験室に閉じこもるインドア。根暗な研究オタクだろう。でも実情は違う、と俺は声を大にして言いたい。
俺やヨウコのように、確かに研究は好きだけれど、休日には山や湖を散策する。そんなアウトドア人間だって結構いるのだ。
また、世間では理系の女というと、化粧もしない地味な女というイメージかもしれないが……。こちらは「当たらずとも遠からず」ではないか、と俺は思っている。
俺が初めてヨウコを見かけたのは、職場の廊下だった。
見るからにプニプニな感じのほっぺたで、体格は小柄。そんな女性が白衣を着て、試験管を持ちながら歩いている。
「なんだか可愛らしいな」
と心の中だけで呟きながら、思わず笑顔ですれ違った瞬間。
ふわっと良い香りを感じた。
化粧や香水によるものではない。若い女性の、自然な髪の匂いだった。
中学高校が男子校だった俺は、思春期に女性と接する機会が少なく、大学には普通に女子もいたけれど、偏差値的には最上級の大学だったせいか、化粧に気を使う者は少なかった。
そこから理系の専門職に進んだ結果、人並みに化粧をする女性は周りに少ないという環境が続いてきたし、それに慣れてしまったのだろう。
普通の化粧でも俺は「ケバケバしい」と感じるようになり、それだけで近寄りがたく思ってしまう。自然、ノーメイクの女子とばかり交際するようになってしまった。
いわばノーメイク・フェチとでも呼ぶべきか。
とはいえ、交際経験のなかった頃はわからなかったが、いざ女性と付き合ってみると「男がノーメイクの女を好むのは、フェチズムでも何でもなく、ごくごく当然のことなのではないか」という考えも頭に浮かぶ。
ほら、恋人同士になれば頬と頬が触れ合ったり、キスしたりすることも日常茶飯事。そんな時に化粧品でベタベタしたり、口紅の味がしたりしたら不快に違いない。
まあその辺りは、そういう女性と付き合わない俺には想像の範疇に過ぎないのだが……。
ともかく、そんな好みを持つ俺にとって、ノーメイクで可愛らしく心地よい香りを身にまとっていたヨウコは、一目見た時から好印象が残るのだった。
――――――――――――
そんな第一印象から数日後。
「すいません。こちらに、バイオ・アナライジング・システムがあると聞いて来たのですが……」
ヨウコが、俺の所属するラボを訪れた。
解析装置を使わせてもらいたい、という用件だった。
理系の、特に実験系の研究に疎い人にはわかりにくい感覚かもしれないが、俺たちが使う研究機械は非常に高価なものばかり。ラボの研究費の大半は試薬や器具などの消耗品に充てられるので、大型の実験装置はなかなか購入できない。
特に、同じ建物内で別のラボが所有している装置ならば、そちらに借りに行くのが普通。だから最初にヨウコを見かけた時のように、俺たちは研究サンプル片手に白衣姿で廊下をウロウロすることになるし、他の部屋に出入りするうちにそちらの人々と顔見知りになるのも、よくある話だった。
この日のヨウコも、そんな感じで……。
「バイオ・アナライジング・システム? ああ、BAS装置ね。どうぞ、どうぞ。BAS装置ならこれだけど、使い方はわかる?」
ちょうど彼女の使いたい装置は俺のデスクの近くにあり、しかもたまたま俺は手が空いていたので、俺が対応する形になった。
「ああ、はい。一応マニュアルのコピーは読んできましたが……。でも実際に使ってみると、わからないことも出てくるかも。その場合、誰に聞いたら良いでしょう?」
「それなら俺が教えるよ。俺も何度か使ってる装置だし、俺自身の実験は今、一時間の吸着反応中だから……。そうだな、あと三十分は暇がある」
俺が笑顔を作ると、彼女も表情を明るくした。
「ああ、ありがとうございます! まず最初は……」
「スイッチは、ここ。システムを立ち上げて……」
これが二人の初めての会話だった。
だから彼女の方でも、俺に対する第一印象は悪くなかったはずだろう。
――――――――――――
それから一週間も経たない頃の昼休み。
購買部の前にある食堂スペースにて、自分で作ってきた弁当を食べていると、声をかけられた。
「ここ、空いてます?」
「ええ、どうぞ」
反射的に返しながら顔を上げると、目の前にヨウコが立っていた。
別に俺と食事をしたかったわけではない。ただ単に空席を見つけて、相席の許可を求めてきただけだが、俺の顔を見てBAS装置の横にいた者だと気づいたらしい。
「あら! 先日はどうも」
ぺこりと頭を下げるので、普通に世間話として、その話題になる。
「どういたしまして。それで、あの時の解析結果は、どうだった? 100%の期待通り?」
「うーん、どうでしょう……。80%ってところですかね」
「80%か……。微妙な数字だけど、考えようによっては100%よりベターかもね」
「……100%よりベター?」
少し不思議そうに聞き返されてしまう。
俺は慌てて、補足の言葉を続けた。
「いや、ほら。研究ってさ、いつも100%予測通りの結果が出たら、実験が単純作業になってしまうだろう? 最初に立てた計画に従うだけのルーチンワーク。それじゃ研究者じゃなく技術者で十分だから、なんだか面白くない」
「ああ、そういう意味ならわかります! でも予測と正反対だと、それはそれで研究方針自体が崩壊して困るから……。だいたい合っていて少しだけ違う、それくらいが良いんですよねえ」
「そうそう。80%くらいが続けば、結果を見るたびに考察する余地が出来て、ちょうどいい。そう考えれば、ベストな解析結果だったと言えるんじゃないかな?」
「ああ、ありがとうございます。確かに、これで何とか一つの研究論文としてまとまりそうですし……。残り20%のおかげで『考察』として書くことも捗りそうですし、新しい研究プランも立てられそうです」
「おお、それは万々歳だね!」
彼女の昼食も購買部で買った既製品ではなく、彼女自身の手作り弁当だった。
この時は普通に研究者として言葉を交わしただけだが、何度か一緒に同じ場所で食事をするうちに、少しずつ距離が縮まっていく。
弁当のおかずを交換したり、プライベートな趣味の話をしたり。
特に、二人とも「運動神経は良くないが、体を動かすことは好き。自然の中を散歩するのは好き」とわかった時点で……。
「じゃあ、今度一緒にどこか出かけようか? 車で一時間くらいのところの自然公園に、澄んだ水の美しい湖があるらしくてね」
「ああ、いいですね! そういうの、私も好きです!」
こうして、職場の外で会う約束も取り付けたのだった。
――――――――――――
それから俺とヨウコは、頻繁に二人で出かける間柄になった。ほぼ毎週末というほどのペースだ。
素敵な池や湖を有する自然公園とか、ハイキングコースのある丘程度の小山とか。
車で一時間か一時間半くらいの範囲内で結構、楽しめる場所があった。
ちょっとしたドライブデートだろう。ただし別に恋人ではなく、あくまでも『友人』に過ぎないので、デート気分なのは俺だけだったかもしれないが。
特に俺は魚釣りが趣味なので、もしも自分一人だったら、水辺を散策する方に偏りがち。しかしヨウコと二人ならば、緑の森の中を歩くのも心地よかった。
こういう新しい楽しみ方を発見できるのも、そういうパートナーが出来たおかげだ。
そう思えば思うほど、どんどん自分がヨウコに心惹かれていくのを、俺は強く自覚していた。
そして、ある時。
いつものように湖畔を散歩していたところで、ちょっとした段差のある場所に差し掛かった。
大げさな言い方をすれば、小さな崖だろうか。
俺の身長から見れば、たいした段差ではない。でも女性としても小柄なヨウコにとっては、ちょっと登りにくいかもしれない。
そう考えた俺は、先に上がって、上から手を差し伸べた。
「危ないから、つかまって。引っ張り上げるようにするから」
「ああ、ありがとう……」
ヨウコは頷いて、俺の手を握る。
ああ、程よく柔らかい、良い感触だ。
俺の心の中に、幸せが広がる。それこそ、いつまでも彼女の手を離したくない、と思うほどに。
しかし、その瞬間、ヨウコはパッと手を離してしまった。
「……いや、でも大丈夫です。これくらい、一人で上がれますから」
この時、俺は悟ってしまう。
きっとヨウコは、異性との肉体的接触を嫌がったのだな、と。
今までヨウコは、俺を『男性』としては意識していなかったのだろう。ただ「気の合う友人」と捉えていたのに、触れたことで今初めて、異性として認識してしまったのだ。
そう意識した上で、俺の手を拒絶したということは……。
「これは、脈ナシだな。残念ながら」
心の中だけで、俺はそう呟いた。
――――――――――――
その日の帰りの車の中。
ヨウコは、ポツリポツリと語り始めた。今まで話そうとはしなかった、彼女自身の恋愛話を。
つまり……。
遠くに住んでいる彼氏がいる、ということ。
でも最近は、ほとんど連絡を取り合っていない、ということ。
「これって……。自然消滅ってことなのかなあ?」
ため息をつくように呟く。
そんな彼女をチラッと横目で見てから、運転中の俺は、視線を前方に戻して、言葉だけを彼女に投げかける。
「その彼氏さんのこと……。今でも、まだ好き?」
「うーん……」
少し困っているみたいな声が、耳に入ってくる。
「……正直、もうわからないなあ。物理的な距離だけじゃなく、時間的にも離れたら、なんだか自信なくなっちゃって。最初は、あんなに好きだったんだけど……。それだけは確実だけど……」
「ヨウコちゃんが、自分の恋心に自信ない、って言うなら……」
しっかりとハンドルを握ったまま、俺は出来る限り優しい声で告げる。
「……そんな状態で付き合い続けるのは、相手に対しても失礼なんじゃないかな? なまじ『恋人』という言葉で、互いを無理にキープしているようにも聞こえる。いや、しょせん無責任な第三者の意見だけどね」
実際には『無責任な第三者』どころか、俺の打算的な「早く別れてフリーになってくれ」という願望を込めた意見だった。
「それは……。いっそ別れた方がいい、ってことですか?」
「まあ、そういうことになるかな。月並みな表現で言うと」
「でも……。久しぶりに連絡して? こちらから別れを切り出す? それはそれで、相手に悪い気が……」
「大丈夫、大丈夫。きっと向こうだって、はっきりして欲しいんじゃないかな?」
安全運転を続けながら、頑張って会話の方向性を誘導する。
彼女は俺の意見を受け入れたようで、小さく頷く姿が視界の片隅に入った。
「うーん……。河田さんが、そう言うなら……。男性心理って、そんな感じなのかな」
「そうだね。少なくとも、俺が彼氏さんの立場なら、そう思うよ」
――――――――――――
そして一週間後、緑の木々に囲まれたハイキングコースを歩いている途中だった。
いきなりヨウコは立ち止まり、ひとつ大きく深呼吸。それから吹っ切れたような笑顔で宣言する。
「ご報告です。私、彼氏と別れました」
それは、まさに俺が聞きたい言葉だった。
しかし、正直に喜びを顔に出すわけにはいかない。とりあえず、思いついた言葉を口にしてみた。
「それはそれは……。ヨウコちゃんの笑顔を見てると『おめでとう』って言いたくなるけど、でも……。一般的に、失恋は悲しい話だから『ご愁傷様』なのかな?」
すると、彼女は苦笑する。
「いやいや、河田さん。失恋に対する『ご愁傷様』は、間違った使い方の典型的な例ですよ。それに、別に私、今そこまで悲しくありませんし……」
「ああ、そうだよね。ヨウコちゃんくらい魅力的な女性ならば、いくらでも新しい彼氏が出来そうだもんなあ」
「河田さん、それは言い過ぎです。そんなに私がモテモテなら、こんなに毎週毎週、河田さんとだけ遊んだりしてませんよ」
朗らかなヨウコを見れば、彼女が失恋の痛手など感じていないのは明白だった。強がっている感じでもない。やはり、その男に対する彼女の恋心は、とっくの昔に消え去っていたのだろう。
そう感じた途端、今ここで言うつもりもなかった言葉が、無意識のうちに俺の口から飛び出していた。
「林ヨウコさん。ならば、この俺、河田ハタロウと……」
突然あらたまった口調の俺に対して、彼女は少し怪訝な表情。ただし「いったい何を言うのだろう」と、その続きに興味津々なようにも見えた。
「……付き合ってくれませんか? 友人としてではなく、恋人として」
彼女は一瞬びっくりした顔になり、続いて「やれやれ」という口調で返してきた。
「河田さん……。そういうこと、このタイミングで言いますか? もう少し、女心というものを考えて欲しかったなあ。いくら何でも、彼氏と別れたばかりの私に対して……。それじゃあ『待ってました』って感じですよ?」
まさにその通りだった。俺が黙ってしまうと、口元に苦笑いを浮かべながら、彼女が続ける。
「まあ、でも……。河田さんの気持ち、なんとなく、そんな気はしていましたし……。わかった上で、こうして二人で遊ぶということは、おそらく私も河田さんを受け入れている、ってことでしょうから……。はい、こちらこそ、よろしくお願いします」
ヨウコは首を縦に振ってから、わざとらしく俺の隣に身を寄せて、ギュッと手を握るのだった。
それが、今から八ヶ月前の出来事だ。
ヨウコと付き合う前まで、俺は誰が相手でも長続きせず、三ヶ月くらいでフラれてばかりだったが……。
彼女とは、こうして半年以上も続いている。ようやく俺も、運命の相手と巡り合えたのだろう。
最近は互いの研究が忙しい上に、学会発表のシーズンとも重なったから、週末のドライブデートどころではなかった。一ヶ月くらいプライベートで会う機会はなく、職場の廊下ですれ違うだけ。
それでも今日は、久々のデートを楽しんでいるわけだ。
自然公園をたっぷりと歩いた後の、心地よい疲労感のまま。
小洒落たレストランの、開放的なテラス席で。
たわいないおしゃべりを楽しむ二人……。