高嶺の花
「時雨、お前昨日何したんだよ」
登校してすぐ、教室の前で陸斗に腕を掴まれた。
「別になんもねぇよ」
なんの心当たりもないが、何か騒ぎになっているらしい。
「時雨…?」
柚葉が不安げに俺を覗き込んだ、その時。
「ちょっとごめんなさい、借りるわ」
また違う腕が俺の腕をわし掴んで強引に引っ張られる。
全然ごめんなんて思ってないであろうすみれの横顔を見ながら、大人しく連れていかれる。
彼女が立ち止まったのは理科の準備室前。
「ここ、誰もいないから」
鍵の壊れた扉を開けて、彼女はさっと部屋に入る。
続いて入るとすぐに彼女は扉を閉めた。
薬品の匂いが鼻をつく。
「迂闊だったわ、
昨日のあれ、誰かに撮られてたのよ」
昨日昨日って、みんな何言ってんだと差し出された携帯の画面を覗く。
そこに写し出されていたのは一緒に歩く俺とすみれ。
これがどうして騒ぎになっているのか理解ができない。
「私一応、高嶺の花って呼ばれてんのよ。
まさか知らないの!?」
平然としている俺に口調を荒げて、
それから彼女は小さくなった。
「悪かったわ、迷惑かけるつもりじゃなかった」
ぼそぼそとそう言う彼女に、少し戸惑う。
「困ってた同級生に助け船を出して、どうして迷惑になる?」
今度は彼女がキョトンとして、それから深い溜め息を吐いた。
「ほんと、あんたって激にぶ」
そう言ったまま、準備室の窓に視線を向けてこちらを見ない。
「授業、行かないのか」
窓にもたれ掛かり、漆黒の長い髪を風に揺らした彼女は空に目を向けたまま頷いた。
「じゃあまたな」
部屋を出て教室に向かう中で、沢山の視線を感じた。
高嶺の花って大変だなぁなんて考えながら、
彼女のあの一言については何もわからなかった。
考えてわからないことは忘れるに限る。
痛いほどの視線を無視して、いつも通りの時間は過ぎて行く。
たまに柚葉の沈んだ表情が気にかかったが、
それも放課後になれば消えていた。
「時雨、今日は委員会ないの?」
柚葉が鞄を片手に机に突っ伏していた俺を見下ろす。
「今日はなんもない」
立ち上がって伸びをすると、後ろから軽く抱きつかれる。
「どうした」
細い華奢な腕が静かに俺を拘束する。
返事をしない柚葉の、俺に回された腕を優しく包む。
不安なことは口に出さない柚葉の、精一杯の感情表現。
暫くして離れた柚葉はいつものように笑っていた。
「帰ろっか」
教室に二人でよかった、心底そう思う。
高嶺の花の片翼を担う柚葉とのこんな場面を見られたら、視線を浴びるだけでは済まなくなる。
それでも、柚葉の腕を振り払うわけにはいかない。
横を歩く柚葉を見て、すみれの反応を思い出す。
謝った彼女の表情が悲痛なほど歪んでいて、
いつものつっけんどんな彼女と別人のようだった。
高嶺の花には、大変なことが付き物なのかなんて簡単に考えていた。