序章 メゾン・ド・アマン (9)
玄関に鍵をかけ、階段を慎重に下りる。途中で顔を上げ、賃貸アパートの方に目をやった。
とにかくボロい。ボロ過ぎる。
なんとか地面に到着し、アパートに向かう。幸い、雨はやんでいた。
手前の方がA棟、奥がB棟となっている。ふたつとも木造の二階建てだ。すると、A棟と道路の間に、道路に向かって木の札が建てられていることに気付いた。前に回って文字を確認する。手作りっぽい木札に、書きなぐったようなカタカナが書かれている。
「メゾン・ド・アマン」
その文字を口に出して読み、何だかこっ恥ずかしくなった。このボロいアパートに、こんなこじゃれた名前はあり得ない。これは、即刻撤去することにしよう。
A棟の方は、1階にドアが4つ、2階にドアが4つ。B棟の方は、1階に3つ、2階に3つ。ということは、A棟が1DK8部屋、B棟が2DK6部屋ということだろう。敷地は舗装されていない。さっきの雨のせいだろうか、土は白と茶色のまだらになっている。A棟とB棟の間には、屋根つきの駐輪場が設置されていた。古いスクーターやら壊れかけの自転車やらが、無造作に置かれている。
「私のスクーターとどっこいくらいだな」
要するに、ひどい状態ということだ。
A棟に近づくと、郵便受けが見えた。8つのうち4つの投函口にガムテープが貼られている。ということは、この4部屋が空室なのだろう。
「半分…か」
不安になりながら、B棟に向かう。こちらの郵便受けは、6つのうち3つにガムテープが貼られていた。こちらも3部屋空き。
14部屋中、住んでいると思われるのは7部屋。60万どころか30万だ。平均したら一部屋の家賃は4万円ちょっと。こんなボロいアパートに、そんな家賃を出してまで住む人がいるんだろうか。
「もしかして……」
満室家賃60万円って話も嘘かもしれない。そう思うと、ふっと目の前が暗くなった。
私はなんて馬鹿なんだ。今の家賃がいくらなのかとか、全部確認してから会社を辞めればよかった。
今住んでいるアパートの解約は取り消せるだろうか。いや、収入がないのに、借り続けることなんてできない。まずは次の仕事を探して、それに見合った住まいを探そう。そして、この土地は、もう売ってしまおう。無理だ、無理。
その時ふと、昨日、駒田弁護士からかけられた言葉が脳裏をかすめた。
分割協議書への捺印を済ませ、諸々のお礼を伝える私に向かい、彼はほほ笑みながら言ったのだ。
「実は、私、会長には大変お世話になったんです。正直、あのアトリエとアパートを、あなたに引き継いでいただいて、本当によかったと思っています」と。
その言葉に、私の期待はさらに大きく膨らんだ。しかし、結局は、あの駒田弁護士も、則之や克之とグルだったのだろう。みんなして、私にこんな厄介な代物を押しつけ、ほくそ笑んでいたんだ。本当に悔しい。悔しいけど、どうしようもない。私の考えが浅はかだったんだ。
空を見上げると、再び雨粒が落ちてきた。