序章 メゾン・ド・アマン (8)
2階には、建物の脇についている外階段で上がるしかない。雨は既に本降りになっていた。階段の上にしつらえられたトタン屋根に、バチバチと雨粒の当たる音がする。
「大丈夫かな」
階段は、あちこちにさびが浮いていて、足を乗せるたびキシキシといやな音を立てた。恐る恐る階段を上りながら、建物の壁に目をやった。吹き付けられた塗装にところどころヒビが入っている。この建物、強度は大丈夫なんだろうか。不安が募る。と、今度は顔面に蜘蛛の巣攻撃。
「あー、もう」
もはや悲鳴を上げる気力すら起こらない。
顔の前を手で払いながら、ようやく2階にたどり着いた。鍵を開けて、そうっとドアを開く。この部屋のカーテンは遮光にはなっていないようで、薄い光が入っている。
「さて、と」
狭い土間で靴を脱ぎ、上がり框に足をかけた。持ってきたスリッパをそっと床に置くと、ゆっくり段を上がってそれをはく。振り返ってドアの上にあるブレーカーを上げ、手探りで電気をつけた。
「2階もですか」
下の階でも繰り広げられた「ゴキブリ大脱走」。1階のゴキちゃん達が、2階に移動してきていたのだろうか。もしかして、ここにも同じ数の……いや、これ以上考えるのはよそう。
状況が落ち着くのを待って、中を見渡す。玄関から入ってすぐがダイニングになっている。4畳半くらいか。右手に、かなり古いシステムキッチン。そして、左側には洗濯機置き場。その奥に、ドアがふたつ。手前がお風呂と洗面所、その奥がトイレだ。ダイニングの中央には、二人掛けのダイニングセットが置かれていた。
キッチンには調味料が無造作に並べられていた。お砂糖が入っていると思しき入れ物には、アリがたかっている。使う気など全く起こらない。
「全部廃棄だな」
冷蔵庫は小さなワンドア。ホテルなどでよく見るタイプだ。開けてみると、中身は空だった。代わりによくわからない小さな虫が、何匹も死んでいる。
「これも廃棄」
即決すると、気を取り直して振り返った。奥の部屋に向かう。ダイニングとの間に敷居があり、本来なら引き戸があったはずなのだが、今は全開の状態になっていた。
「和室かあ」
広さは6畳ほど。スリッパを脱ごうか迷ったが、履いたまま上がることにした。ゴキちゃんを裸足で踏んづけたなんてことになったら、ショック死するかもしれない。さすがに死に場所くらいは選びたい。
奥に進み、カーテンを開ける。
「うわっ」
窓の向こう側に、結構大きいヤモリが貼りついていた。吸盤の様子がしっかり見える。
「まあ、家守りっていうくらいだし」
ここは、あえて前向きに考えることにしよう。
部屋の隅には、ベッドが置かれていた。中央には毛足の長いサークル状のじゅうたん。そのじゅうたんの中央部には、三つの丸いへこみがある。小さなテーブルでも置いてあったのだろうか。駒田弁護士は「手つかずのまま」とか言ってたけど、お金になるものは売り払ったりしたのかもしれない。
頭をかきながら、さらに部屋を見渡す。ベッドの脇には、小さな整理ダンスが置かれていた。そっと引き出しを開ける。中には、父の服やタオルがきれいに並べられていた。ふと、父のにおいをかいだようで、目頭が熱くなる。この服は捨てられないかな。でも、ずっと置いておくわけにもいかないし。
「後で考えよう」
ひとりごちながら、引き出しを押しこむ。
次に、押入れの中をチェックする。大惨事を予想していたが、数匹のゴキブリが慌てて立ち去るくらいのことで済んだ。既に、私の心臓は、無駄にドキドキすることさえも無くなっている。慣れとは恐ろしいものだ。
押入れの上の段には、布団一式が置かれていた。天井まで空間があるため、上の隅には蜘蛛の巣が張られているのが見える。そして、下の段にはたたまれたイーゼルと、白い布が掛けられた四角い物――おそらく何かの絵だろう――が、側面に立てかけられていた。ここにも、蜘蛛の巣の残骸と思しきグレーの塊が、ふわふわと付いている。どんな絵なのか確認してみようかとも思ったが、陰からまた黒光りする奴らが飛び出してきそうな気がして、そのまま押入れを閉めた。
他には何もない、殺風景な部屋。あの大量のゴキブリ達と、アリ達と蜘蛛達と、ヤモリと共に生きて行くことになるのか。
「賑やかになりそうですねえ」
言いながら、泣きそうになる。そんなもの達と同居するくらいなら、ひとり寂しく生きている方が、まだマシだ。
叫び出したい気持ちを抑えながら、私はカーテンを引き直した。