表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
78/91

第7章 A棟104号室 伊佐治太作さん(8)

 それから数日後の午前中、私は一人で再び警察に来ていた。留置管理課の受付で眼鏡と本、憲二郎から渡された見積書を差し入れる旨を伝え、必要書類を書く。併せて、面会用の書類も書き込んだ。

 差し入れの手続きが終わるのを待っていると、小窓の左隣にあるドアから、警察官が現れた。手には、私が差し入れた本を持っている。

「これなんですが、差し入れはできません」

 警察官に差し出されて驚く。

「何でですか?」

 すると、彼はパラパラと本のページをめくって見せた。

「ほら、こうやって書き込みがされていますよね?」

 漢字の隣に、鉛筆でふり仮名がふられている。

「書き込みって……これって、ふり仮名ですよね?」

「ええ。多分そうだと思うのですが、書き込みがある本は差し入れ禁止になっているんですよ。決まり事なので、お持ち帰りください」

 警察官にきっぱり言われ、仕方なく受け取る。その後、書類を訂正するよう指示があり、言われるままに書き直した。

「それでは、面会室へどうぞ」

 うながされるまま、この間と同じドアを開けて中に入る。椅子に座って待っていると、少しして伊佐治が現れた。目には早速先ほど差し入れた眼鏡をかけ、手には見積書を持っている。前回と同じく、後ろに控える警察官によってタイマーがセットされ、面会が始まった。

「大家さん。何度も申し訳ありませんね」

 伊佐治が語り掛けてくる。前回会った時よりも更にやつれた感じがして、少し心配になった。

「こちらこそ、ごめんなさい。なんか、本に書き込みがあると、差し入れができないみたいで」

 片手に本を持って見せる。

「ああ、そう言えば……。すっかり忘れていましたよ」

 伊佐治が頭をかく。

「これ、私がお預かりしておきますね。出てこられたら、またお渡ししますので」

「そうですか。ありがとうございます」

 伊佐治は小さく頭を下げると、手にしていた紙片を持ちあげた。

「この見積書、ありがとうございました。こんなに安くていいんですか?」

 正直、憲二郎からこの見積書を見せられた時には、私も驚いた。家具等の片づけは植原不動産の社員たちがやってくれるそうで、請求額は無し。引っ越しゴミも、市の方で片づけてもらえるよう手続きしてくれたため、格安の料金になっていた。憲二郎という男にも、意外といいところがあるようだ。ただ、だからと言って、これまでの悪行がチャラになるわけでない。

「ええ。憲二…えっと、植原さんの方がそれでとおっしゃるんですから、いいんだと思いますよ。伊佐治さん、タバコも吸われないですものね。綺麗に使っていただいて、助かります」

「そうですか。それはよかった」

 ほめられることに慣れていないのだろう。伊佐治が照れくさそうに首筋に手を遣る。

「それで、お支払いの方は問題ないですか?」

 刑務所の中で使う日用品などは、受刑者が私費で購入するらしい。少しでも多く手元に残る方がよいだろう。

「もちろんです。すぐに手続きをとりますので。あの管理会社さんにも、よろしくお伝えくださいね」

 伊佐治が答えると、しばし沈黙が流れる。

「じゃあ、これで」

「あ、ちょっと待ってください」

 話を終えようとした伊佐治を止める。

「実は、角田さんと山崎さんと仁科さんから、ご伝言があるんです」

 私の言葉に、伊佐治の表情が強張った。

「出て来られたら、またマージャンやりましょうって。それから、お体にはくれぐれも気を付けてって。そうおっしゃってましたよ」

 伊佐治がほっと息を吐くのがわかった。

「それから……」

 言おうかどうしようか迷っていたが、意を決して続ける。

「角田さん、伊佐治さんに前科があるってこと、ずっとご存知だったみたいです」

「えっ、本当ですか?」

 伊佐治が台に手をついて身を乗り出した。

「ええ。本当です。それに、伊佐治さんが酔っぱらっていたなんて信じられない、よほどの理由があったんだろう、ともおっしゃってましたよ」

「そうですか」

 伊佐治が再び、椅子に深く腰掛ける。彼はしばらく目を閉じていたが、やがてゆっくり目を開けた。

「お嬢さんとこのアパートに住ませてもらえて、本当によかった。人生の最後に、いい思いをさせてもらいました。お嬢さん、本当にありがとう。あの世に行ったら、大家さん…お嬢さんの親父さんにも、よくお礼を伝えておかないといけませんね」

「あの世に行ったらなんて、縁起でもないことを。マージャン仲間さんたちも待っておられるんですから、元気に戻ってきてくださいよ。その時に空室があったら、またうちに住んでくださればいいですから」

 憲二郎がいたら、またヤイヤイ言われるところだ。一人で来てよかった。

「本当にありがとうございます。なんとお礼を言ったらいいか。皆さんにもよろしくお伝えください」

 伊佐治は、何度も何度も頭を下げた。

「もう、やめてくださいよ、伊佐治さん。とにかく、健康には注意してくださいね」

 時間はまだ余っていたが、これ以上話すこともなさそうだ。その空気を察したのか、伊佐治がゆっくり立ち上がる。それに合わせて、後ろに座っていた警察官も立ち上がった。

 面会室を出ようとした時、彼は何か思いついたように振り返った。

「お嬢さん、『銀二貫』を勧めてくださったの、角田さんなんですよ。その本を読んで、人の温情についてつくづく考えさせられました。その本、角田さんに渡してもらえませんか。もし受け取っていただければの話ですけど」

「わかりました。必ず」

 私は立ち上がってうなずいた。伊佐治は、その無骨な顔に穏やかな笑みを浮かべると、ドアの向こうへと消えて行った。そして、それが、私が見た伊佐治の最後の姿となった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ