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第7章 A棟104号室 伊佐治太作さん(6)

「お嬢さん、申し訳ありません」

 白いTシャツにグレーのスウェットを履いた伊佐治が頭を下げる。いつもきちんと整っている伊佐治の髪が、あり得ないほど乱れている。顔に刻まれたしわも深くなっているようだ。1週間見ていないだけで、こんなに老け込むものなのだろうかと、私は愕然とした。

「伊佐治さん、頭を上げてください」

 私の言葉に、彼が顔を起こす。

「大丈夫ですか。お体の調子が悪いってことはないですか」

 私が語り掛けると、伊佐治は乱れた髪を撫でつけながら答えた。

「ええ。ありがとうございます。大丈夫です」

「そうですか。何か、差し入れてほしいものとか……」

「おいおい」

 憲二郎が遮る。

「時間が限られてるんだから。さっさと本題に入れよ」

「ああ、そうだったわね」

 タイマーを見ると、残り時間はもうすぐ12分台に入ろうとしている。

「伊佐治さん、どうですか。えっと、その、刑務所とか、長くなりそうですか」

 どういう言葉を使ったものか迷いながら、しどろもどろで尋ねる。

「そうですね。相手にけがさせちゃいましたからね。殴ったつもりはなかったんだけど」

 伊佐治が困ったように頭をかく。

「でもね、酒はまったく飲んでなかったんですよ。そこだけは譲れない点なんですが、飲酒検査をしなかったもんだから、どうしようもなくてねえ」

 ウン、と後ろの警察官が咳払いをする。事件に関する深い話は、しない方がいいのかもしれない。

「そうなんですか」

 私がうなずくのを見て、憲二郎がもどかしそうに口を挟んだ。

「伊佐治さん、時間が無いので、すみません。管理会社の植原です。今日は、お部屋に関する同意書に、署名と捺印をいただきたくて来たんですよ。伊佐治さんがしばらく戻ってこられないとなると、お部屋の方が……」

「ああ、なるほど。自分がいない間、部屋が無駄になりますからね。さっさと明け渡せって話ですよね?」

 伊佐治が事もなげに言う。

「いえ、さっさと明け渡せだなんて、そんなことは……」

 私が慌てて口を挟むと、伊佐治は表情を変えずに答えた。

「いいんですよ。これまでにも逮捕されてますから、そこらへんのことはよくわかってます。むしろこうやって、きちんとお話に来てくださったことに感謝しているくらいです。今までは、こちらの断りなしに色々捨てられていましたからね。訴えようにも、金がないことを知ってるもんだから。まあ、前科者なんてそんなもんですよ。バレたら人として扱ってもらうこともできない」

 この人は一体、これまでどんな目に遭って来たのだろうか。そう言われてみれば、私はこれまでに一度も、伊佐治の笑顔を見たことがないような気がする。ただ不愛想なだけかと思っていたが、心に深い闇を抱えていたのかもしれない。

「今のアパートの方たちも、きっと驚かれたでしょう。前科者なんかと仲良くしちゃって、後悔してるでしょうね」

 伊佐治は感情を表に出さずにそう続けると、後ろに座っている警察官の方を振り返った。

「すみません、同意書ってやつは、後で差し入れてもらうっていうことでいいんですよね?」

 警察官がうなずくのを確認して、こちらに視線を戻す。

「きちんと署名と捺印して渡しますから、安心してください」

「本当にすみません。よろしくお願いします」

 何だか申し訳ない想いにさいなまれ、台に付きそうなくらい頭を下げた。

「なんで大家さんが謝るんですか。謝らなくちゃいけないのは、こっちの方なのに」

 伊佐治が慌てたように声をかけてくる。

 タイマーを見ると、残り時間はあと7分になっていた。もう半分が過ぎている。

「ねえ、伊佐治さん。残置物の中に、どうしても捨ててほしくないものとか、こちらに差し入れてもらいたいものとか、ありませんか」

「差し入れてほしいもの……。それじゃあ、お言葉に甘えて」

 伊佐治は台の上に手を置き、続けた。

「遠近両用の眼鏡が、部屋のテーブルの上にあるので、それを。ここでも老眼鏡は借りられるんですけど、ボクシングの影響で視力が落ちてるもんですから、どうしても遠近両用じゃないと見にくくて……。それから、本も。整理棚に一冊置いてあるんです。『銀二貫』って本なんですが」

「『銀二貫』って高田郁さんのですか? なんか、伊佐治さんとはイメージが違いますね」

 思わずほほ笑むと、彼は恥ずかしそうに鼻をくすんと鳴らした。

「ある人に勧められましてね。でも、学も無い上に目も悪いから、1冊読むのにどれだけかかったか。ここではヒマなので、もう一度読み直してみたいと思いましてね」

「そうですか。わかりました」

「それ以外のものは、捨てていただいて結構ですから」

 伊佐治が頭を下げる。

「で、滞納されている家賃と、部屋の原状回復費の入居者負担分、ゴミの処分費なんですけど、伊佐治さんに請求させていただいてよろしいですか?」

 横から憲二郎が口を挟む。

「ええ、もちろんです。お見積もりを持って来ていただけたらお支払いしますので、よろしくお願いします」

「そうですか。で、いつ頃まで、こちらにいられますかね?」

 憲二郎は容赦ない。

「さあ、拘留期限ぎりぎりまでいられれば、あと10日間くらいでしょうかね。もし、こちらにいないようでしたら、弁護士さんの方に預けてください」

 伊佐治の答えに、憲二郎は満足げにうなずいた。

「それじゃあ、弁護士さんのお名前と連絡先を教えていただけますか?」

「えっと、山…何とか言う若い男性なんですけど、連絡先は今わからないなあ。どうしたらいいですかね?」

 伊佐治が振り返って警察官に尋ねる。

「あなたさえいいなら、こちらで連絡先を教えられるけど」

 警察官の答えに、伊佐治がうなずいた。

「じゃあ、よろしくお願いします」

 その時、タイマーが鳴った。

「これで面会時間は終了です」

 警察官が立ち上がり、タイマーを止める。伊佐治も立ち上がると、私たちに向かって会釈をし、部屋を出ていった。

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