第5章 A棟201号室 星本実莉さん(6)
「え?」
直人が驚いたように顔を上げる。すると、山下は私の方を見た。
「ねえ、大家さん」
「何ですか?」
まさか、奥義・家賃で支払うの術を使う気ではあるまいか。ドキドキしながら返事をする。
「もう、なんて顔してるんですか。別に、家賃をタダにしてくれなんて、頼むつもりはありませんから安心してください」
彼は一瞬ほほ笑んでそう言うと、きゅっと表情を引き締めた。
「僕は以前、あなたに野添の話をしましたよね? 自分のことを売り込みたいあまり、一人の女性の人生をメチャクチャにしてしまったって」
「ああ、そういえばおっしゃってましたね」
たしか、彼がここで野添と殴り合った夜のことだ。
「実は、その女性っていうのが、森戸志穂未さんのことだったんですよ。だから、費用はいらないと言ったんです。僕のせめてもの罪滅ぼしです」
「どういうことですか?」
直人がソファに座り直して、尋ねる。
「志穂未さんの写真を撮り、情報を流したのは、探偵の野添なんです」
「野添って、あの、よくテレビに出てる野添光太郎のことですか? たしか、山下さんが以前勤めていた探偵事務所の所長でしたよね?」
山下の言葉に、憲二郎が驚いたように尋ねる。
「ええ。そうです」
そして、山下の恋人でもあった。
「あの頃はちょうど、探偵事務所がようやく軌道に乗り始め、野添にもちょくちょくテレビ出演の依頼が来るようになっていました。他にスタッフも雇えるようになり、僕はそれで十分だと思っていたんです。でも、あいつはもっと有名になりたかったみたいで」
山下は小さく息を吐くと続けた。
「別件で張り込んでいた現場に、たまたま志穂未さんが現れたそうなんです。それで、写真を撮って……。その後、何かの取材を受けた時に、記者から『特ダネを持ってきてくれたら、情報番組の上の方を紹介してやる』と言われ、志穂未さんの写真を渡したみたいです。あいつはその見返りとして、レギュラーコメンテーターの座を勝ち取りました。本当に最悪な男ですよ」
山下は苦渋に満ちた表情で、吐き捨てるように言った。
「あいつが自分の欲望と引き換えに壊してしまったのは、志穂未さんの未来だけではなかった。直人さんのご家族の人生まで、踏みにじってしまっていたんですね。本当に申し訳なかったと思っています」
山下が直人に向かって頭を下げる。直人は何も言わず、うつむいた。
「だけど、手掛かりも何もないのに探し出せるものなんですか?」
憲二郎が尋ねる。すると、山下の口から思いがけない言葉が飛び出した。
「志穂未さんの居場所なら、もうわかっていますから」
山下は小さく咳払いした後、続けた。
「彼女は今、このアパートに住んでいるんです」
「はい?」
「へ?」
私は憲二郎と、同時に声を上げた。お互い顔を見合わせる。
「このアパートに、森戸さんなんて人、いないわよね?」
私が憲二郎に尋ねると、彼はうなずいた。
「いないはずだぞ。そもそも、若い女性なんて、A棟201の星本さんくらいなもんだし」
「その、星本さんですよ。彼女が、森戸志穂未さんなんです」
山下に言われ、憲二郎が情け無い声を出す。
「お前、気づいてたか? 俺には別人にしか見えなかったけど」
「私もよ。全然わからなかった」
「たしかに、髪型を変えたり眼鏡をかけたりして雰囲気は変わってますが、間違いありません」
山下はそう言うと、続けた。
「それに、名前です」
「名前?」
憲二郎が聞き返す。
「ええ。『もりとしほみ』を並べ替えてみてください。『ほしもとみり』になりませんか?」
「あ、ほんとだ」
思わず声が出る。
「簡単なアナグラムです。偽名を作る時に、考えたんでしょう」
「――そうか。それでか」
直人がつぶやくように言う。全員の視線が彼に集まった。




