第5章 A棟201号室 星本実莉さん(2)
「じゃあ、ちょっと屋根の方、見てみますね」
B棟の2階のすべての部屋を確認し終わった後、直人は屋根まで届く長いハシゴを立てかけながら言った。首からカメラをぶら下げ、はしごを上り始める。憲二郎がハシゴを押さえてはいるものの、きしむたびにヒヤヒヤする。直人は器用に上っていき、屋根の上に立った。
「ああ、瓦が何枚か剥がれ落ちちゃってますよ。おっと、割れてるところもあるなあ。ところどころ、漆喰も剥がれてますし。これ、葺き替えしないとダメかもしれませんねえ」
屋根の上で立ったり座ったりした後、直人はそう叫んだ。
「A棟の方は見えるか?」
憲二郎が叫び返す。すると、ややあって声が返ってきた。
「A棟の方もひどい状態です。ああ、戸建ての方もやられてますよ。雨漏りしてるんじゃないですかね」
「え? うちも?」
思いがけない指摘に、首をかしげる。
「どうなんだ?」
「別にどこも雨漏りなんて、してないと思うけど」
すると、屋根の上から直人の声がした。
「いずれにしても、A棟の2階の部屋も岩内さんの部屋も、確認した方がいいでしょうね」
「だってさ」
憲二郎が、直人の言葉を受けて私の方を見た。
「3棟全部となると、結構なお金がかかるわよね」
絶望的な気分で尋ねる。
「仕事辞める時、退職金もらったんじゃないのか? それ使えばいいだろう」
憲二郎が能天気なことを言う。
「退職金なんて、引っ越し代とか、うちの1階を直す時の修繕費とか、相続税とかでほとんど消えちゃったわよ」
生活費のために切り崩した分もある。とても屋根の修理に回せるような金額は残っていない。
「預金はないのか? 俺の従妹、5年くらいOLやってるけど、がっつりため込んでるみたいだぞ。お前、10年以上もOLやってたんだから、それなりにあるだろう。別に浪費するわけでもなさそうだし」
憲二郎に言われて言葉に詰まる。男に持ち逃げされて全然ありません、なんてこと、口が裂けても言えない。すると、憲二郎がバカにしたように口元を緩めた。
「まさか、男に貢いでスッテンテンなんてことはないよな」
「そ、そんなわけないでしょ」
思わず声が上ずる。すると、憲二郎が呆れ顔でこちらを見た。
「なんだ、図星か。昔からずっと思ってたけど、ホントにお前は救いようのないバカだな」
「はあ?」
とりあえず怒った表情を作ってはみたが、自覚しているだけに反論できない。
「植原さん。写真も撮り終わりましたし、下りますのでハシゴの方、いいですか?」
屋根の上から直人が叫んだ。
「おう、わかった」
憲二郎がハシゴを押さえる。直人はヒョイヒョイと下りてくると、地面に立って私の方を見た。
「一昨日の夜中に、この辺りをかなり強い風が吹いたらしいんですよ。局所的なものみたいなんですけどね。実は、昨日もいくつか相談が入ってたんです」
直人は、戸建ての方を指さすと続けた。
「屋根の被害の状況から推察すると、あっちの方、つまり、戸建ての方からこっちのアパートに向かう形で、吹き抜けたんだと思います」
確かに、一昨日の夜は風の音がすごくて、よく眠れなかった覚えがある。
「他の物件も同じような感じでダメージを受けてますから、風災で保険がおりるんじゃないですかね」
「風災?」
聞き慣れない言葉に、憲二郎の方を見る。
「台風とか突風とかが原因で被害が出た場合、保険の対象になるケースもあるんだよ。お前、建物の火災保険には入ってるだろ?」
「火災保険? あれって、火事の時だけのものじゃないの?」
相続の手続きの時に、名義変更の書類を書いた覚えがある。
「証券を見れば、風災も対象になってるかわかるはずだ。入ってるかどうか、後で確認しとけよ」
「うん。わかった」
私がうなずくのを見て、直人が口を開いた。
「もしかしたら、A棟の方も雨漏りしてるかもしれませんね。早めに確認しておいた方がいいと思います。修理の見積もりにも影響してきますから」
「そうか。じゃあ、今から行ってみるか。A棟の人にも、話をつけておけばよかったな」
憲二郎はいったん言葉を切り、足元に置いていたバッグから書類を取り出した。めくりながら続ける。
「A棟の方は202と204は空き家だから、すぐに入れるとして……。今日は土曜日だから、勤め人なら家にいる可能性は高いかな。えっと、201は星本実莉さんか。職業欄は空欄になってるな。あとは203号室の平本さん。彼は会社勤めだから、家にいるかな。――まあ、急で中に入れないってことだったら、また日を改めよう」
「わかったわ」
私はうなずいた。
A棟の階段を上がって、201号室の前に着く。憲二郎に促されてインターホンを鳴らすと、少しして応答があった。
「大家の岩内です。雨漏りがないか確認させていただきたいんですけど、よろしいですか?」
すると、小さな声で「お待ちください」という返事があった後、ドアが開いた。ロングヘアで黒縁の眼鏡をかけた、若い女性が顔をのぞかせる。家賃回収日に何度か会っているが、声が小さく物静かな印象だ。
「こんにちは、星本さん。突然失礼します。管理会社の植原です。実は、一昨日の突風で屋根に被害が出たみたいでしてね。雨漏りしてないかどうか、ちょっと調べさせていただきたいんですけど、今よろしいですか?」
私の隣にいた憲二郎が、声をかける。
「雨漏りですか? 気づきませんでしたけど……」
星本が困ったように言うと、憲二郎の後ろに控えていた直人が、声をかけた。
「おはようございます。砂橋工務店の吉田と申します。雨漏りって、意外と気づかれないことも多いんですよ。ちょっと見せていただければ助かるんですが……。今日、ご都合が悪いようでしたら、日を改めさせていただきますけど」
「吉田…さん?」
星本の目が大きく見開かれた。沈黙が流れる。
「あの、星本さん?」
憲二郎に声をかけられ、彼女はひきつった笑顔を浮かべた。
「どうぞ、散らかってますけど」
大きくドアを開ける。
「失礼します」
私たち3人は、部屋の中へと入った。




