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第4章 B棟101号室 高田育代さん(8)

「実は私、椎野には借りがあるんです。以前、うちの兄が経営している会社が危ない状況になった時、その借金を、取引先だった椎野の実家が肩代わりしてくれたんです。そのお陰で会社は存続できました。その時に、私を嫁にという話が出て……」

「お兄さんの借金を肩代わりしてくれたお礼に、結婚されたということですか?」

 憲二郎が驚いた顔をする。なるほど、そういう条件でもなければ、あんな男のところに嫁ぐ女性はいないだろう。

「そうなんです。まあ、私も特に付き合っていた相手がいたわけでもありませんでしたし、それでもいいかなって……。もし離婚なんてことになったら、その借金を返せとも言われかねません。そう思って長年耐えてきたんですけど……。もう限界でした」

 高田は小さくため息をつくと、続けた。

「兄のところには、既に連絡がいっているかもしれません。あの人のことですから……。それが怖くて、兄とも連絡を取れない状況なんです」

 高田が目頭を押さえる。私は思わず身を乗り出した。

「それって、椎野課長の方に明らかに非があったとしたら、事情は変わってきますよね? 例えば、浮気してるとか」

「浮気? 椎野がですか? 私は全然気づきませんでしたけど」

 高田が首をかしげながら続ける。

「まあ、機嫌さえ損ねなければよいと思って、あの人のことはあえて詮索しないようにしていたという点もありますので……」

「大家さん、さては、何か情報をお持ちなんですね? 同じ会社にお勤めだったんなら、色っぽい噂話も耳にされるでしょうし」

 山下がいささか場違いな笑みをたたえて、私の方を見た。

「ホテル街を、女性と歩いていたという話を聞いたことがあるんです。ただ、確証はありません。なので、探偵さんにでも依頼して調べてみられたらどうかと思って。相手に不貞行為があれば、こちらだけが責められることもないでしょう?」

 私の言葉に、憲二郎が私の腕を引っ張った。

「ちょっと待て。相手に非があって、慰謝料だ、養育費だってもらえるようになったら、生活保護が止まるんだぞ。そしたら、お前のとこにも家賃が入らなくなる。どうするんだよ」

「別に、生活保護から家賃をもらわなくても、直接お支払いいただいたらいいじゃないの」

「生活保護が出るからっていうんで、上限の4万8千円にしてもらったんだぞ。それが出ないとなったら、せいぜい取れて4万円だ。年間で十万円近く減るんだぞ。いいのか?」

「別にいいわよ。うちの家賃より、高田さんと大樹君の人生の方が大事でしょ?」

「ああ、まただ。また出たよ。その、大家とは思えない発言が」

 憲二郎が大げさにため息をつく。

「お前、ほんとに大家に向いてないな。やめちまえ」

「売るより貸せって言ったのは、どこのどなたでしたっけ?」

「まあまあ」

 山下に割って入られて、はたと我に返る。

「お見苦しいところをお見せしちゃって……」

 顔が赤くなるのを感じながら高田の方を見ると、彼女は目に涙を浮かべていた。音山も潤んだ目でこちらを見ている。

「大家さん、そんなに私たち親子のことをお考えくださって……」

「普通は、厄介ごとに巻き込まれたくないとおっしゃる大家さんが多いんです。でも、こんなに親身になってくださるなんて……」

 口々に発せられる言葉を聞き、憲二郎が肩を落とした。

「ただのお人よしの大ばか者なんですよ、こいつは」

「まあ、次の一手は、ご主人の浮気調査の結果を見てからでもいいんじゃないですか? よろしかったら、僕が請け負いますけどね。まあ、2週間も張り込めば、結果は出ると思いますが」

 山下が高田の方を見る。

「でも、調査費用がかかりますよね? とてもお支払いできる状況ではないので……」

「それなら、大丈夫ですよ。ね、大家さん」

「はい?」

 山下に振られ、聞き返す。

「うちには、奥義・家賃で支払うの術があるじゃないですか」

「奥義?」

「家賃で支払うの術?」

 高田と音山が顔を見合わせる。

「ええ。この事務所の家賃を何か月かタダにしてもらうっていう条件で、仕事を請け負うってことですよ」

 山下が、こともなげに言う。

「ということは、つまり、調査費用を私が負担するってこと?」

 尋ねると、山下は当たり前だろうという表情でうなずいた。

「僕が見たところ、大家さん自身の私怨も大きいような感じがしますからね。この場合、大家さんにご負担いただくのが筋でしょう」

 たしかに、それで椎野課長にぎゃふんと言わせてやれれば本望ではあるが。

「家賃、2か月分でいかがですか?」

 9万円か。どうしようかと思ったが、他の探偵に頼むよりは安く済みそうだ。

「わかりました。それで」

「マジかよ」

 私がうなずくのを見て、憲二郎が悪態をつく。

「家賃が下がる手伝いをするだけでもビックリなのに、その上、調査費用まで負担するってか。ほんとにお前は、バカとしか言いようがないな」

「あの、本当によろしいんでしょうか?」

 高田が申し訳なさそうに私の方を見る。

「ええ。勝手に話を進めてしまって、こちらの方こそよろしかったですか?」

 私が尋ね返すと、高田は大きくうなずいた。

「どうもありがとうございます」

 高田と音山がそろって頭を下げる。

「もし、調査結果が出る前に椎野課長がこちらに押しかけてくるようなことがあったら、すぐに植原不動産にご連絡くださいね。管理会社として、きちんと対応してくれるはずですから」

 私の言葉に、隣で憲二郎が盛大にむせた。

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