第4章 B棟101号室 高田育代さん(4)
高田親子がうちのアパートに入ったのは、それから1週間後のことだった。軽トラック1台で運べるほどの荷物しかない引っ越し。子供がいる世帯としては、かなり寂しい気がする。せめてここで、平穏な生活を取り戻してくれるとよいのだが。
その日の夕方、来客用のチャイムが鳴った。覗き窓から覗くと、高田の顔が見えた。急いでドアを開ける。
「こんばんは。お忙しい時間帯に申し訳ありません」
彼女の後ろには、小さな男の子が所在なげに立っていた。小学校2年の息子だろう。
「あら、こんばんは」
私は精一杯の笑顔を作って応えた。男の子が恥ずかしそうに、高田の腰の辺りにしがみつく。
「申し訳ありません。しつけができてなくて」
高田が困ったような顔をして、頭を下げる。
「いえいえ」
私は微笑んだまま、高田に視線をうつした。先日会った時より、顔色は若干良くなっている気がする。
2人は、引っ越し終了の挨拶に来てくれたそうだ。息子の名は大樹というらしい。やんちゃなので皆さんに迷惑をかけてしまうかもと、高田は恐縮した様子で言った。
「大丈夫だと思いますよ。ここにお住まいの方は、皆さん優しい方ばかりなので。――あ、そうだ、ちょっとお待ちいただけますか?」
私はそう言うと、食器棚に向かった。一番下の開き戸を開け、段ボール箱を取り出す。中には、子どもが喜ぶ必殺アイテムが入っていた。昆虫マンチョコ。私が以前勤めていたタバサ食品の主力商品のひとつだ。中に入っている昆虫マンカードが、子ども達の収集欲をそそるらしい。昆虫を模しているのだが、中でも人気があるのはオオクワガタマンというキャラクターだった。本物のオオクワガタと同じく、滅多に入っていないところが子ども達の射幸心をあおるのだ。
私がまだタバサ食品の社員だった頃、友人の子どもへのプレゼントに最適だと思い、社員割引で購入してストックしていた。1個150円プラス消費税なので、3個で約500円、6個で約1000円分になる。あげる子どもの学年によって、調整できるのもちょうどよかった。
以前、友人の子どもにあげた時には、たまたまオオクワガタマンのカードが入っていたらしく、それ以降、私は神様のような扱いを受けている。カードの中身がなんであれ、これまでこのチョコをあげて喜ばない子供はいなかった。まだスーパーなどでは目立つ場所に置かれているし、人気は衰えていないはずだ。
私は中から昆虫マンチョコを3個取り出すと、賞味期限を確認した。まだ大丈夫だ。急いで段ボールを戻して戸棚を閉め、立ち上がって2人のもとに戻った。
「はい、これどうぞ」
大樹の喜ぶ顔を想像しながら、私はニコニコと昆虫マンチョコを差し出した。すると、大樹の表情がみるみる険しくなった。
「こんなもの、いらない!」
彼はそう叫んで、私の手を振り払った。手にしていた昆虫マンチョコが、バラバラと音を立てて床に落ちる。予想外の展開に、私は言葉を失った。
「申し訳ありません。――大樹、謝りなさい! せっかくいただいたのに、何てことするの!」
高田がおろおろと、足元に落ちた昆虫マンチョコを拾い集める。大樹は唇をかみしめ、こぶしを握ったまま、顔をそむけていた。このチョコに、何か嫌な思い出でもあるのかもしれない。
「あ、高田さん、大丈夫ですから。――ごめんね、大樹くん。今度は、何か違うものを用意しておくからね」
私がそう言うと、大樹は上目遣いにこちらを見た。反省しているようにも、怯えているようにも見える。私がほほ笑んで見せると、伏し目がちに顔をそむけた。
「申し訳ありません。これ、ありがたくいただきます。本当に申し訳ありません」
高田は気の毒なくらい何度も頭を下げると、大樹の手を引いて帰っていった。彼は後でこっぴどく叱られることになるのだろう。何だか気の毒なことをしてしまった。
私はちょっと憂鬱な気分で、夕食の準備を始めた。




