序章 メゾン・ド・アマン (4)
古い病院を前に、懐かしさを覚える。私が住んでいた頃より、だいぶん壁は黒ずんでいたが、建物の雰囲気は変わらぬままだった。
入院受付で父の部屋番号を確認し、病室に向かう。デラックスな個室だった。地元では名士で通っているだけに、こういうところにも気を遣わなくてはいけないのだろう。
ドアの前に立って深呼吸をし、コンコンとノックする。
横開きの扉が開き、則之のお嫁さんが顔を出す。私は軽く会釈すると、病室へと足を踏み入れた。ベッドの脇に並んで座っていた則之と克之が立ち上がる。しばらく見ないうちに、かなり老けたなあと思った。もちろん、私もなんだろうけど。
ベッドには、見る影もなくやせ細った父が寝ていた。バッグを部屋の脇に置き、枕元に向かう。父の頭の横にしゃがみこみ、耳元で声をかけた。
「お父さん、麻奈美です」
すると、父がうっすらと目を開けた。口元に小さく笑みが浮かぶ。
「元気だったか……」
聞こえるか聞こえないかのような声がする。メニエールが少しは軽くなっていてよかった。もっともひどい時だったら、この声は拾えなかったに違いない。
「ええ。元気です」
本当はいろいろと患っているのだが、ここでその説明をしたところで仕方ない。私は、無理やりほほ笑みをつくって答えた。
「そうか。よかった」
父はそう言うと、目を閉じた。目尻からすっと涙が一筋こぼれる。私はその涙を指先で拭うと、無精ひげの生えた父の頬を見つめた。泣き叫びたくなる衝動を、必死で押さえこみながら。
その日は、実家の空き部屋に泊めてもらうことになった。本当はどこかホテルを取りたかったのだが、則之から話があるからと言われ、やむなく実家に宿泊することになったのだ。
荷物を部屋に置き、居間に向かった。ガラス戸をあけると、部屋の中央に置かれたソファには則之夫婦と克之(彼はまだ独身だ)が腰かけていた。見知らぬ男性が1人いたが、胸のバッジを見ると、どうやら弁護士らしい。おそらく、則之の会社の顧問弁護士だろう。私は空いている場所に腰を下ろした。
「親父はもう駄目だろう」
則之が唐突に口を開いた。
「気が早いと思われるかもしれないが、親父の遺産をどうするか、今のうちに考えておいた方がいいと思うんだ。親父は、遺言状を書いていないらしいからな」
まだ生きているというのに、何たる不謹慎。話を聞く気になれず、私は席を立った。
「おい、麻奈美。落ち着けよ。親父に何かあったら、通夜やら葬式やらいろいろと大変なことになる。うちの会社の会長だったんだから、社葬もしなくちゃならないしな。遺産分割の協議なんて、のんびりやってる暇ないんだよ。俺の立場も考えてくれよ」
則之が苦虫をかみつぶしたような顔で言う。すると、弁護士が口を開いた。
「通常、会長のようなお立場の方は、遺言状を作っておかれることが一般的です。私も作成されるよう勧めていたのですが、もう少し待ってほしいとおっしゃって……。そのうちに、こんなことに……。ただ、亡くなられる前に協議をされることは、大きな資産を遺される方の場合には、よくある話なんですよ」
皆の視線を受け、私は渋々、ソファに腰を下ろした。その姿を見て、則之が話しかけてきた。