第4章 B棟101号室 高田育代さん(3)
その2日後、私は再び植原不動産に出向いた。先日話があった女性が、うちのアパートを気に入ってくれたそうで、入居が決まったというのだ。
店に入ると、奥の応接セットのソファに、2人の女性が並んで座っているのが見えた。既に重要事項説明が始まっているらしく、彼女たちの向かい側で、丸山がせっせと話をしている。
「あ、岩内オーナー、いらっしゃいませ」
カウンターの中にいた女性社員が、私に気付いて声をかけてきた。首から下げているカードには「田久保」と書かれている。
「もうすぐ重要事項説明が終わると思いますので、カウンターの方でお待ちいただけますか」
「ええ、わかりました」
私は、手近なところにあった椅子を引いて腰かけた。
「お茶でもいかがですか?」
田久保がにこやかに尋ねてくれる。
「そうねえ、時間がかかるみたいなら、いただこうかしら」
私が答えるのとほぼ同時に、丸山の隣に座っていた憲二郎が立ち上がった。
「おい、岩内。そんなとこに座って何やってんだよ。早くこっちに来いよ」
横柄な態度で手招きしてくる。またしても、社員の感じのいい対応がぶち壊しだ。まあ、変態女と言われなかっただけでも、よしとするか。
ふと見ると、田久保が申し訳なさそうな表情をしている。目が合った途端、謝るように頭を下げてきた。
「大丈夫ですよ、慣れてますから」
私は、ほほ笑みながら立ちあがった。
「ご紹介しますね。こちらがメゾン・ド・アマンのオーナーの岩内さんです」
丸山が立ち上がりながら、テーブルの脇に立った私の方に視線を向ける。
「重要事項説明は済みましたので、こちらへどうぞ」
ソファの脇に退き、今いた場所を手で示す。
「すみません、失礼します」
一言かけると、私はテーブルとソファの間に体をすべりこませた。憲二郎の隣に腰を下ろす。
「岩内オーナーは、うちの社長の植原と同じ中学の同級生なんですよ」
丸山が2人の女性に向かって言うと、憲二郎が口を開いた。
「ええ。そうなんです。彼女のことは昔から知っていますが、信頼できる人間ですので、ご安心ください」
憲二郎の口からそんな言葉が聞ける日が来るとは。軽い感動すら覚えつつ、向かいの女性2人に向かって頭を下げようとしたその時。
「まあ、ちょっとトロいところはありますけどね。バレーボール大会の時なんて、トスを上げようとして、顔面でボールを受けてましたから」
その言葉に、女性たちの表情が緩む。丸山は、顔を横に向けて笑いをこらえていた。
あの時は、選手はおろか、審判までもが笑ってしまい、試合が一時中断してしまったのだった。よくもまあ、消し去りたい記憶ばかり思い出させてくれるものだ。
「何も、こんなところでそんな話をしなくったって、ねえ」
大家の威厳もへったくれもあったもんじゃない。私はひきつった笑みを浮かべながら、憲二郎の足をそっと蹴った。もちろん、そんなことで反省するような男じゃないことは、承知の上でだ。
案の定、憲二郎は何事もなかったかのように、2人の女性に視線を向けた。
「えっと、こちらが入居される予定の、高田育代さん」
右側の女性を手で示しながら説明する。頬がこけていて、私よりかなり年上のようだ。彼女はきゅっと表情を引き締めて、私の方に会釈してきた。私もあわてて頭を下げる。
「それから、こちらが福祉事務所の職員の音山さん。高田さんのご担当の方だ。アパートの方にもちょくちょく顔を出されることになると思うから、よろしくな」
「音山です。よろしくお願いします」
高田とは対照的に、ふっくらとした女性がほほ笑みながら名刺を差し出してきた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
その名刺を受取りながら、頭を下げる。
「それでは、高田さん、契約書にサインと印鑑をお願いします。あ、ご住所はとりあえずシェルターのご住所で…おわかりになりますか?」
丸山がテーブルの脇で腰をかがめ、書類を指差してあれこれと指示し始めた。高田は音山に確認をしながら、書類に必要事項を書き込んでいく。そこに記された彼女の生年月日を見て、私は驚いた。彼女は私と同い年だった。苦労が見た目を老けさせたのだろうか。
「おい、ぼうっとしてないで、書類に署名してくれよ。押印もな」
隣から、憲二郎が私の腕をつつく。
「あ、うん、わかった」
我に返って頷くと、私はバッグから認印を取り出した。




