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第3章 A棟203号室 平本浩太さん(11)

 それから約1カ月半後。早くも第4回目の家賃回収日を迎えていた。午後8時を過ぎても、平本は現れない。先月は、まだ支払えそうにないと連絡があったが、今月も無理なのかもしれない。

「ま、来月にはなんとかなるでしょ」

 あえて前向きに考えることにしよう。

 私は、空になったスパゲティの容器を片付けるべく、立ち上がった。最近の冷凍食品は、本当に美味しくなっていて助かってしまう。プラスチックの容器を袋に入れて口を縛る。蓋つきのゴミ箱に放り込んだ時、テーブルに載せてあったスマホがメロディを奏で始めた。画面を見ると、憲二郎の名前が出ている。

「もしもし」

「おう、俺だ。さっき、平本さんから連絡があってな。3カ月分の家賃が支払えるようになったってさ。これからお前の所に家賃を払いに行くって話だったけど、俺も顛末を聞きたいし、とりあえず山下探偵事務所で集まろうってことになった。午後9時に集合な」

「わかった」

 私はそう答えて、スマホを切った。

 店子さんには、植原不動産の電話番号しか教えていない。それで、憲二郎の方に連絡があったのだろう。それにしても、自分が話を聞きたいからといって、家賃を支払おうという店子さんを引き止めるとは。管理会社の越権行為ではないのか。

「ま、いいか」

 私はスポンジに洗剤を付けると、夕食に使ったフォークとコップを洗い始めた。


 9時ちょっと前に探偵事務所に出向くと、既に平本と憲二郎の姿があった。勝手に集合場所にされた山下も、機嫌よく椅子に座っている。私は、平本に向かい合う形で、一人掛けのソファに腰を下ろした。

「これ、3カ月分の家賃とお借りした1万円です」

 封筒を渡されて、中を開ける。入っている1万円札を数えると、10枚あった。

「はい。確かに。領収書、今持ってきてないから、後で書いてポストに入れておきますね」

 そう言うと、憲二郎が横から口をはさむ。

「3カ月分の家賃をまとめると、9万円になるだろ? 収入印紙も必要になるし、面倒でも、領収書はきちんと1カ月ずつに分けて出した方がいいと思うぞ」

「そうなの。ありがとう」

 素直にお礼を言っておく。

「で、家賃を支払えたってことは、問題は解決したってことですか?」

 山下が平本に尋ねると、彼は頷いた。

「はい。弁護士さんのおかげで、無事に解決することができました。マチ金にも通知してくださったので、督促もやんだんです。それだけでも、精神的に楽になりました」

「それで、クーリング・オフはできたんですか?」

 私の質問に、平本は首を横に振った。

「契約書はほぼ完ぺきで、クーリング・オフをすることはできなかったんです。でも、弁護士さんがいろいろ問題点を指摘しながら、業者と交渉してくださって。結局、叔母にあげてしまった商品だけ買い取るってことになりました。

 弁護士さん、本当はもっと頑張ってくれるつもりだったみたいなんですけど……。僕が早い解決を望んだので、これで話をつけることになりました。

 あげた商品は30万円分だったんで、残りの170万円が戻ってきて。返金された分でマチ金の借金も返済しました。1社は完済できて、もう1社は少し残ってますけど、月々の返済額が減ったので支払っていけそうです。弁護士費用も、かなりまけていただいた上に、分割でいいって」

「よかったですね」

 後で駒田弁護士にお礼の電話をかけておこう。

「で、これからどうされるんですか?」

 憲二郎の言葉に、平本が彼の方を見る。

「実は、仕事が決まったんです。先週から、試用期間に入ってます。それで、今日は遅くなってしまって」

「それじゃあ、大学の方は辞められたんですか?」

 驚いて尋ねる。

「ええ。ずっと、大学に残りたいと思って意地になってたんですけど。苦労して博士号までとったわけですし、なんかプライドが捨てきれなくて」

 彼はそう言うと、ひとつ咳払いをして続けた。

「今回のことで、目が覚めました。しがみついてても、いいことなんてないなって」

「職場って、ここから通える所なんですか?」

 憲二郎の質問にハッとする。そうか。場所によっては、出て行ってしまうこともありうるのだ。

「ええ。バイクで30分くらいかかりますが、ここから通えます。学習教材に特化した出版社なんですけどね。前から教授に紹介してもらってたんですよ。なかなか踏ん切りがつかなくて断ってたんですけど、今回のことがあって、やっぱり就職させてもらうことにしました。完全なコネ入社ってやつですね」

 平本が頭をかく。

「正社員なら、収入は安定しますよね? それに、バイクで30分もかかるんだったら、その会社の近くで他の賃貸を探された方がいいんじゃないですか? こんなボロアパートに住み続ける必要もないでしょう」

 憲二郎め、大家がいる前で、よくそんな悪口が叩けるものだ。でも、これがうちの店子さんじゃなければ、私も同じことを言いそうな気がする。

「たしかに、そうなんですけど……」

 平本はそう言うと、照れくさそうに微笑んだ。

「僕、このアパートに住み続けたいんです。――大好きなんで」

 すると、憲二郎があきれ顔でつぶやいた。

「へえ、平本さんも、物好きですねえ」

 その言葉に、山下が吹き出す。それを合図に、平本と憲二郎も笑い出した。私もつられてほほ笑みながら、そっと指先で涙をぬぐう。父の優しい笑い声が、ふと聞こえた気がした。

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