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第3章 A棟203号室 平本浩太さん(1)

「どうしたのかなあ」

 時計を見ながら、私はひとりごちた。午後8時。

 今日は、私が賃貸アパート「メゾン・ド・アマン」の大家になってから、2回目の家賃回収の期日だ。探偵事務所の山下も含めた店子さん8人のうち、7人は既に家賃を支払ってくれている。最後のひとり。

「A棟203号室、平本浩太ひらもとこうたさん、か」

 前回の家賃回収の時に一度会っただけだが、真面目で気弱そうな青年だった覚えがある。

 午後3時が過ぎた頃、銀行口座の方に振り込んでくれていないか、ネットバンキングで確認したが支払いはなかった。これまで、一度も滞納歴はないはずだ。

「これから持ってきてくれるつもりかも」

 日にちが替わるまで、まだ4時間もある。気長に待つことにしよう。

 ――しかし、日付けが変わっても、平本は現れなかった。


「そうか。ちょっと電話してみてやるよ。お前も、直接部屋を訪ねてみてくれ」

 翌日、私はアパートの管理を委託している植原不動産の社長、植原憲二郎に連絡をとった。彼は、中学時代の同級生で天敵でもある。

「わかった。よろしくね」

 そう言って電話を切る。

 昨日、平本と父が交わした契約書で、彼の属性を確認した。彼は、ここから自転車で15分ほどの所にある砂橋大学文学部の大学院生だった。ただ、もう3年も前のことなので、今は既にどこかに就職しているかもしれない。連帯保証人として、彼の叔母が署名しているのを見て、複雑な気持ちになる。学生時代にアパートを借りる時って、普通は親が保証人になりそうなもんだけど。何か深い事情でもあるんだろうか。

 考えていても仕方ない。ピンポンを鳴らした途端、「忘れてました」とか言って、その場で支払ってくれるかもしれないし。

「ちょっと見てくるか」

 ついでに、敷地の掃除もしてしまおう。昨日は風が強かったから、敷地内に枯れ葉が吹き込んでいるかもしれない。ちょうど明日はゴミの日だから、まとめて捨ててしまえばいいや。

 私は立ちあがって、ジーンズの尻ポケットにスマホを突っ込んだ。

 

 戸建の陰に置かれた倉庫の中から、ほうきとチリトリとゴミ袋を取り出す。それらを手に、アパートの方に向かった。案の定、アパート1階の廊下や駐輪場の端に、枯れ葉ががっつり積っている。

 私はA棟の郵便受けの上に畳んだままのゴミ袋を乗せ、ほうきとチリトリを壁に立てかけた。203号室の郵便受けを差し入れ口から覗き込むと、中に郵便物が入っている。今日はまだ郵便屋さんは来ていないはずだから、昨日以前のものを取り出していないのだろう。

 ローン会社からの封書らしきものが見え、少し気になった。しかし、いくら大家だからと言って、勝手に中を見るわけにもいかない。

 葛藤していたら、肩をポンと叩かれた。

「うわあ」

 悲鳴と共に振り返ると、A棟の103号室に住む角田が微笑んでいる。

「掃除かい? 精が出るねえ」

 そして、郵便受けに目をやった。

「何か気になることでも?」

「いえ、ちょっと郵便物がそのままになっている方がいらっしゃるなって思って」

 家賃を支払ってないから確認しにきたなんて話、他の店子さんにはできない。すると、角田は顎に手を当てて考える様子を見せた。

「それ、203号室の平本さんじゃないかい?」

「ええ、そうですけど」

 千里眼なのか? おののく私に気づかず、角田は続けた。

「うちの部屋は平本さんとこの下だろ? 平本さんって結構ドンドンと足音を鳴らして歩くんだ。別に、うるさくて困るってわけじゃなくて、ああ、今日も元気だなあって思って嬉しくてね。それが、一昨日くらいから聞こえなくて、気になってたんだ。それに……」

「他にも何か?」

 続きを促すと、角田は答えた。

「いつもなら、顔を見かけると大きな声であいさつしてくれるんだよ、おはようございますとか、こんにちはとか。それが、一昨日の夜にすれ違った時には、心ここにあらずって感じで、俺に気づきもしなかった。様子がおかしいなあとは思ってたんだが、年寄りに根掘り葉掘り聞かれるのもうっとうしいだろうと思ってね。あえて声をかけなかったんだけど」

「そうですか。――私、ちょっと様子を見てきます」

 上の階を軽く指さしながら、角田に微笑んで見せる。

「そうかい。俺はこれから、これ、さ」

 角田は、右手の人差し指と中指を重ねて、上下に振って見せた。囲碁の会にでも行くのだろう。

「あら、楽しそうですねえ。行ってらっしゃい」

 私が言うと、角田は「うん、行ってくるよ」と一言残し、駐輪場へと向かって行った。その後ろ姿を見送った後、再び階段へと視線を移す。

「昨日くらいから帰ってないのかもしれないな」

 ため息をつきながら、私は階段を上がった。

 203号室の前に到着し、チャイムを鳴らしたが、誰も出てこない。ドアを軽くたたいて、名前を呼んでみたが反応もない。

「どうしたもんかしらねえ」

 色々考えて立ちつくしていると、スマホが振動を始めた。慌てて取り出して確認する。それは憲二郎からのものだった。

「平本さん、携帯電話にも固定電話にも出ないんだ。部屋の方は見に行ってくれたか?」

「今、203号室の前にいるんだけど、ピンポン押しても反応がなくて。郵便物もそのままだし、どこかに出かけちゃってるのかも」

「そうか」

 ややあって、憲二郎が続ける。

「でも、これまで滞納は無いんだろ? 状況によっちゃあ、部屋の中の様子を見ておいた方がいいかもしれないな。念のため、保証人にも連絡とっておくから。ちょっと、そこで待っててくれ」

「わかった。じゃあ、鍵、持ってきた方がいいよね」

「ああ、頼む」

 そうして、電話は切れた。

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