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第2章 事務所 山下忠久さん(5)

 大急ぎで着替えた後、植原不動産の店舗に移動した。

 私と憲二郎が横並びに座り、テーブルをはさんで向かい側に山下が座る形で、今まさに賃貸契約を結ぼうとしている。

 丸山という若い店員が呼ばれ、山下の隣に座った。何やら免許証のようなカードを示して、重要事項説明を読みあげる。宅地建物取引士とかいう資格がある人しかできないらしい。免許証のようなものは、その資格がありますよという証明のようなもので、しっかり示さないといけないそうだ。そう言えば、自分が借りる時にもそんな手続きがあったような気がする。

 山下は、神妙にその話を聞いた後、色々な書類に書き込みをしていた。

「山下さん、昨年の年収は1千万もあったんですか。失礼ですけど、源泉徴収票ってありますか? それから、住民票も」

 憲二郎が彼の手元を覗きこみながら尋ねる。

「ええ。そう言われると思って、持ってきました」

 山下がペンを置き、バッグからガサガサと封筒を取り出す。中から取り出された源泉徴収票を見て、憲二郎が顔を上げる。

「以前のお勤め先は、ハロー探偵事務所ですか。これって、あの有名な野添探偵が所長をされている事務所ですよね?」

 またしても、すごい偶然だ。

「ええ、そうです。まあ、大きい事務所ですから、野添とはそんなに話したことはないんですけどね」

 たしかに、あれだけテレビ出演していたら、事務所にいる時間も取れないだろう。でも、頼めばサインくらいはもらえるかもしれない。八重子が聞いたら、よだれを垂らしてうらやましがりそうだ。

 山下は再びペンを持つと、書類に記入を始めた。憲二郎は住民票に目を移す。

「都心の一等地にお住まいだったんですね。家賃、高かったんじゃないですか?」

「いえ、事務所から家賃が出てましたので、私にはよくわかりません」

 山下が、手を止めずに答えた。

「あの、お父様にはご実印をいただきたいので、お父様の印鑑証明もご用意いただけますか」

 丸山が横から口をはさむ。

「わかりました。市役所の支所にいけば自動発行機がありますから、それで取って来ます。今日は父が休みで実家にいますので、ついでに保証人のサインとハンコももらってきます」

 山下が頷く。

「それにしても、1千万円も収入があったのに、それを捨てて独立って大変ですね。何か事情でもおありなんですか?」

 憲二郎が何気なく尋ねる。

「それって、言わなくちゃいけませんか?」

 山下が顔を上げた。

「お話できない事情でも?」

「いえ、そういうわけでもないんですけど……」

 何だか歯切れが悪い。憲二郎と丸山がちらりと視線を交わす。

「何かトラブルでも起こして辞められたとなると、今後のお仕事が大丈夫なのかとか、色々と考えてしまう部分がありましてね。収入がなければ、家賃も払っていただけませんし」

 憲二郎の言葉に、山下は困ったようにペンを置いた。

「その件については、私を信用してくださいとしか言いようがないです。蓄えもある程度はありますし、家賃は必ずお支払いしますから」

 目が必死だ。何かよほどの事情があるのだろう。

「探偵事務所って、普通、駅前にあることが多いですよね。あの場所、そういう意味でも不利だと思うんですけど」

 丸山が畳みかけると、山下が答えた。

「最近は、ネットで探偵を探す場合も多いんです。それに、人目に付かない方がいいという方もいらっしゃいますし。依頼人の方には、西砂橋駅からバスでお越しいただくように、ご案内しようと思っています。別に問題ないと思いますが」

「たしかに、メゾン・ド・アマンから最寄りのバス停まで、3分くらいですけどねえ。西砂橋駅からのバスは1時間に数本しかありませんし、ちょっと不便かもしれませんよ」

 憲二郎の言葉に、山下は反論した。

「どうしても無理な場合は、私が車で駅までお迎えに行きますよ。それなら、特に不便もないでしょうし」

「同じような条件の物件なら、駅から少し奥に入った所にもありますよ。そこなら、特に人目にもつきませんし、駅からも歩けますし。むしろ、その方がよろしいんじゃないですか?」

 大家の前で他の物件を紹介するとは、憲二郎もなかなかナメたことをしてくれる。しかし、たしかにうちの物件より、もっといい物件はありそうな気もする。

「でも、私はあの場所が気に入ってるんですよ。それではダメですか?」

 山下の懸命な説明にも、憲二郎と丸山は納得できないようだ。目に明らかな不信感が浮かんでいる。

「まあ、そんなに気に入っていただいているんだったら、私の方は構いませんけど」

 山下が気の毒になり、私は思わず口をはさんだ。

「職場を辞める事情は、人それぞれ色々あるでしょうし。きちんとお家賃をお支払いいただけるんであれば、問題ありませんよ」

「おい、岩内、ちょっと待て」

 憲二郎が私の方を見る。

「滞納されたり、トラブルに巻き込まれたら、困るのはお前だぞ。人がいいのも大概にしろよ」

「でも、保証人さんだってつけていただけるんだし。――大丈夫ですよね?」

 山下を見てほほ笑むと、彼は真面目な顔で頷いた。

「もしご心配なら、敷金と礼金、2カ月分ずつお支払いします。あの物件、本当に気に入ってるので」

「それで、探偵事務所の経営の方には差し障りませんか?」

「ええ」

 山下は続けた。

「初期費用が少しでも抑えられたらと思って、ダメ元でお願いしてみただけなんで。それで信用していただけるのであれば、2カ月お支払いします」

「わかりました。じゃあ、そういうことで」

 私が答えると、憲二郎がため息をつきながら、山下の方を見た。

「書類にご記入が終わられましたら、さっき言っていた書類をそろえていただきたいんですが。今日はお車ですか?」

「ええ。西砂橋駅前のパーキングに停めてますけど」

 ここから3分ほどの場所だ。

「そうですか。あのパーキングなら、使える駐車券がありますよ。――おい、丸山。山下さんにお渡ししてくれ」

 憲二郎が、丸山の方を見て言う。

「わかりました」

 丸山はそう言うと、私の方に軽くほほ笑みかけて立ちあがった。

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