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第1章 A棟103号室 角田昭光さん(6)

 アトリエには、シャッターを開けて入った。ガラスの引き戸になっていて、こちらも鍵を開けて中に入る。この間は気づかなかったが、かなり明るい光が差し込む状態になっていた。今回も、ゴキブリがさっと散ったが、この間よりは数がかなり減った気がする。

「まずはホウ酸ダンゴをまくところからだな」

 憲二郎が苦笑いしながら、部屋の中を見まわした。視線が壁で止まる。

「この絵、全部、親父さんが描いたもんか?」

 掛けられた絵を指さして、驚いたように尋ねてくる。

「うん。そうだと思うよ。私宛の絵手紙にも、同じような絵が描かれていたし」

「そうか」

 彼はしばし黙ったまま、順番に絵を鑑賞していった。

「弁護士が来たんだよな?」

「うん。そう聞いてるけど」

「ふうん」

 また沈黙が続く。

「何? 何かひっかかることでもあるの?」

 私が尋ねると、憲二郎はこちらを見た。

「この絵、売ったら結構な値段になると思うぞ」

「え?」

 ダジャレではなく、驚いて聞き返しただけだ。

「俺の祖父さんが絵画の会に入っててさ。そこにお前の親父さんも、入ってたらしいんだよ。で、会で展覧会なんかやると、お前の親父さんの絵が結構売れるんだって言ってた。俺も見たことあるけど、素人とは思えない作品で、群を抜いて上手かったな。親父さん、本当は画家になりたかったけど、親に反対されて諦めたんだって話をしてたらしいぜ」

 父にそんな過去があったとは、全く知らなかった。

「それなのに、どうしてこれだけの絵をそのままにして行ったんだろう?」

「さあ、処分できるものは何もなかったって言ってたから、これが売れるとは思わなかったんじゃないの?」

 弁護士だからって、絵の価値が見抜けるわけではないだろう。それに、売れたと言っても、小さなコミュニティの中での話だ。

「まあ、そうかもしれないけど。あの株式会社イワウチの会長が描いた絵だぜ。こんな田舎から世界に通用するファッションブランドを作り上げたって、神様みたいに思ってる人もいるじゃないか。うちの祖父さんも、金さえあれば1枚ほしいって言ってたぐらいだし。それに、取引先とかだったら、ゴマすりがてら買いそうなヤツもいる気がするけどな」

 憲二郎は、どうにも納得できていないようだ。

「もう仕事も引退したお爺さんが、趣味で描いた絵よ。過大評価なんじゃない?」

 あの弁護士が、そんな良い話を棒に振るとは思えない。私は呆れ気味に答えた。

「そうなのかな」

 憲二郎は首をかしげつつ、1枚の絵に手をかけた。

「この部屋を貸すとなったら、この絵を全部片づけて、釘跡を消さないといけないな」

 そう言いながら絵をはずした途端、ゴキブリがすごい勢いでその陰から飛び出した。

「うわあ」

 憲二郎は大声を上げると、絵を持ったまま尻もちをついた。ゴキブリは、開け放った入口から外へと飛び立っていく。こうして見ると、一応昆虫なんだな、ゴキブリも。

 私が変なことに感心していると、憲二郎がお尻をはたきながら立ちあがった。絵を元あった場所に戻し、くるりとこちらの方を見る。と、同時に、鍵束を投げてよこした。目が血走っている。

「俺は、今からドンキに行って、ホウ酸ダンゴを買ってくる。もう我慢できない」

 憲二郎はそう言い残すと、小走りに車へと向かった。よっぽどゴキブリが嫌いらしい。もちろん、私も嫌いだが、これは一種の職場放棄じゃないのか。

 私はひとりぽつんと、アトリエに残された。何をやればいいのかわからず、途方に暮れる。

「とりあえず、座るか」

 さっきから結構な時間、立ちっぱなしだ。私は、父が絵を描く時に使っていたと思われる椅子に、腰を下ろした。作業台に置かれたままのスケッチブックを開く。

 と、その時、ガラス戸をノックする音がした。驚いて振り返る。そこには、70代半ばくらいのお爺さんが立っていた。

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