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序章 メゾン・ド・アマン (1)

 その建物を見た途端、すべての時間が止まった気がした。

「うまい話なんてなかったんだ。やっぱりね」

 私は思わず空を仰いだ。

「まことに申し訳ございませんでした。はい? ちょっと声が遠いようで、もう一度お願いできますでしょうか。ええ、もちろんこちらの電話機の調子だと思います。申し訳ございません。はい、なるほど。ご意見ありがたく頂戴いたします。必ず関係部署に伝えますので……。はい? ああ、ええ、必ず。申し訳ございません。ご意見、ありがとうございました」

 相手の電話が切れるのを待って、受話器を置く。

「おつかれさま。男性? 女性?」

 隣の席の須田八重子すだやえこが、私の方を見て尋ねてきた。

「60代の男性だったわ。名前を聞いたんだけど、言いたくないって言われちゃった」

「匿名じゃないと、意見が言えないのかしらねえ」

 八重子が眉をひそめる。

「にしても、電話の調子、悪い? 私の方は大丈夫だけど」

「私も、さっき受けた女性のお客様からの相談は、問題なく聞こえたんだけどね。なんか、今回は声が遠くに聞こえる感じで、聞き取りにくかったわ」

 パソコンをスリープ状態から復帰し、苦情内容を入力する画面を呼び出す。そこに必要事項を打ち込みながら、私は頷いた。

 ここはタバサ食品株式会社の苦情対応室。私、岩内麻奈美いわうちまなみはそこで苦情処理係をやっていた。今の苦情は、わが社の新製品、「しょっぱミルク」という、塩味を少々利かせたミルク風味のキャンディーに関するものだった。

「ミルクキャンディーなのに塩辛い」というのが、その苦情の内容だ。パッケージには大きく「しょっぱミルク」と商品名が書かれているし、岩塩の絵も描かれている。塩辛いことは、予想がつくと思っていたのだが。

「名前に『ミルク』と書いてあれば、当然練乳みたいな甘い味を想像するだろう。大体、『しょっぱい』っていうのは、方言じゃないか。少なくとも、自分が育った地域では塩辛いはあくまでも『塩辛い』であって、『しょっぱい』なんて言わなかった。こんなわかりにくい名前をつけられたら、きっと塩辛いと思わずに購入する客がたくさんいるはずだ。塩味をやめるか、商品名を『塩辛ミルク』に変えるか、どちらかにしろ」

 新しい商品が出た時、私たちは「こういう苦情があるのではないか」といった想像をし、想定問答集を作る。しかし、これはちょっと想定外の内容だった。

 私がパソコンに打ち込んでいる内容を見ながら、八重子が苦笑いをする。

「なるほどね。『関係部署に伝えます』以外に言いようがないわね」

 すると、後ろの席に座っていた椎野しいの課長から、声が飛んできた。

「おい、岩内君、お客様の声が遠くに聞こえたって、耳を澄ましてきちんと聞きとらなきゃだめだろう。新たな苦情につながるんだから。それに、必要以上に謝り過ぎなんじゃないのか。こちらに落ち度があるわけじゃないんだし、もっと毅然と言ってやればいいんだよ」

 その言葉に、思わず目を閉じる。この間、クレーマーから理不尽な要求を突き付けられても何も言えず、意味もなく謝り続けていたのは誰ですかって話だ。

「じゃあ、次にこういう苦情が来たら、課長に回しますのでよろしくう」

 八重子が振り返ってそう言うと、私の方に片目をつぶって見せる。

「別にそういうことを言ってるんじゃないんだよ」

 課長の苦笑いする顔が目に浮かんだが、私は振り返らなかった。

 椎野課長が人事異動でこの部署にやってきたのは、今年の4月。それから今日までの5カ月間、ずっとこんな調子なのだ。特に私には、当たりがきつかった。なんでも、自分を振った昔の女に似ているらしい。そんな理由できつく当たられた日には、たまったもんじゃないのだが。

 内容を打ち込み終わると、関係部署にメールを出す。これで、1件処理完了だ。

 私は、お手洗いに行くため立ち上がった。と、周りがぐるっと一回転し、そのまま倒れこんだ。

「ちょっと、麻奈美、大丈夫?」

 八重子があわてて私の腕をとった。向かいの席の井上希美いのうえのぞみも駆け寄ってくる。

「ごめん、どうしたんだろう」

 立ち上がろうとするが、目が回って動けない。

「薬の飲み過ぎなんじゃないの?」

 課長が座ったまま、呆れたように言うのが見えた。

「仕方ないじゃないですか。麻奈美は十二指腸潰瘍の治療中なんですから」

 八重子が怒ったように言い返す。

「まったく、十二指腸潰瘍はインテリがなるって聞くけど、岩内君みたいな頭の悪い女でもなるんだな」

 先月、私が病気休暇届を提出した時と同じことを、再び課長が言う。そういう嫌みな言い草の繰り返しが、私の十二指腸に潰瘍を作った一因になったという自覚がないのだろう。

「大丈夫、ありがとう。今日はちょっと、早退させてもらおうかな」

 みんなに助けられながら、どうにか椅子に座る。途端に課長から嫌みが飛んできた。

「別にかまわんが、また長期療養して給料ドロボーするのはやめてくれよ」

「すみません」

 言い返せないこの性格。上腹部がきりきりと痛んだ。

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