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天才の滑稽譚

 以前投稿した、「ばかのおはなし」のサイドストーリー。

 2窓で読み進めるのがお勧めです。


 ウィズが自分を天才と自覚したのは、13歳の頃だった。


 「天才と自覚」などというと、他の人からすれば小娘のくせに傲慢、不遜に思えるだろう。

 だがその自覚は、ウィズ本人にとっては遅すぎるほどだったと言えた。


 それまでウィズは、なぜ周囲の人間が自分と違うのか理解できなかった。ウィズには彼らが非論理的で、非生産的で、非効率的な行いをわざわざ手間をかけてしているようにしか思えなかったのだ。いつだってウィズは「それは無駄だよ」と言っていたのに、皆はそれを受け入れなかった。


 13歳になったウィズは、自覚した。

 自覚すると同時に、理解した。


 世界は、自分よりもずっと無知で、愚鈍で、馬鹿なのだと。

 彼女が常に正しいことをいっても、彼らは…世界は自分を受け入れてくれないのだと。


 ウィズは、学校に行くことをやめた。

 13歳にして学校で習う魔術と学問をとっくに習得していた彼女は、その愚鈍な空間に居続ける意味を感じなくなっていたからだ。だから自分が決してその空間になじむことができないことを理解したとき、そこを離れることになんの迷いも後悔もなかった。


 それからは日がな一日、図書館や古本屋、骨董店に居座った。

 学問書や魔術書を読みふけり、骨董店で実際の魔法具を見定めた。



 やがて、そんな日々も終わりを告げて。


 そしてウィズは、『魔女』になった。





 『魔女』としての日々は、気楽だった。


 居を構えたのは、町から大きく離れた木立の奥。ここまでの距離が空くと魔獣との遭遇の可能性も馬鹿にならないため、町の連中も来ない。もっとも、十分な魔獣についての知識と魔法の才能を持つウィズには、ここら程度の魔獣は恐るるに足らないほどのものでしかなかった。


 人付き合いのない、平坦で無感情な、それでいて気楽な日々。

 植物学にも動物学にも明るかったウィズは、一人で生きていくことができた。


 野山で木々を、動物を、湧水を得て暮らす。

 その原始的な生活は、最初は大変だった。

 いくらウィズに知識があっても、それを実践することはまた別だからだ。


 けれども、ウィズは『天才』だった。

 驚くほどの速さでその技術を吸収し、より効率的なものへと昇華させた。

 驚くべき発想力で、まったく新しい魔法を生み出し生産性を高めた。


 そして、幾年もの年が過ぎ。

 ウィズはほとんど自分で動かずとも生きていくことができるまでになっていた。

 だからやることは、知識を貪ることだけ。


 ただただ怠惰に、無感動に、知識を貪欲に求め続ける。

 その姿はまさしく、『魔女』だった。


 誰もが恐れ、疎み、嫌悪する存在。

 だがそれを、ウィズは苦だとは感じなかった。


 あるいはそれを、自身の当然の結果…あるいは末路だと思っていた。



◆ ◆ ◆



 日も高くなった時間に聞こえた警告音に、ウィズは気怠そうにと体を向けた。

 覗いていた『知識の水晶玉』から視線を外し、横に置いていた珈琲をすする。すでに冷たくなっていたそれに顔をしかめると、再び水晶玉へと向き直ってその手をかざす。本来の用途ではないがこれも一応は水晶玉だ。魔法の触媒にも使える。


 「さあ、おしえて水晶の眼。来たのは何?」


 それは決して簡単ではない、遠くの場所を見渡す魔法。

 ただ天才であり、『魔女』であるウィズにとっては造作もなく使える魔法でしかなった。


 「ここ数か月は、魔獣もここを避けるようになっていたのだけれどね」


 呟く。


 来た魔獣の強大さによって、差し向ける刺客を変える必要がある。地下にいる『合成獣』を使えばどんな魔獣が来ようと無問題だろうが、もし万一あれが暴れだせば少々手を焼くことになるのはウィズ自身

だ。適材適所の使い魔を呼び出さなければ。


 だが、その水晶に映ったのは、魔獣ではなかった。


 「あら?」


 一人の、愚鈍で貧弱そうな、男の子だった。





 少年は、まるで警戒感など言葉も知らないような様子で魔女の家の扉を叩いた。

 これには、ウィズも苦笑いするしかなかった。


 「君はどうしてこんなところに来たの?」


 ウィズは問いかける。相手はただの少年だ。ウィズがその気になれば一瞬で燃え滓にも氷漬けにもできるような、脆弱な存在。だがそれでも彼は、「人間」なのだ。馬鹿で、無知で、愚かな人間。そして愚かであるが故に、時折過ちを犯す者達だ。だから、彼が何の目的でここに来たのかを、知らなくてはならない。


 少年は困ったような、泣きそうな顔で言う。


 「わかんない」


 当然ウィズは、それを真に受けたりはしない。彼女の眼が怪しく光る。魔法の眼の前では、誰も自分の本心を隠すことはできない。世の中がとても馬鹿で、無知で、愚かなことを知っているウィズは、少年の言葉を信じず、その本心を探る。


 けれども、それは、徒労だった。


 (本当に、わかっていないのね…)


 少年はなにもかんがえていなかった。ただ純粋に、何もわからずここに来ていた。

 とすると、別の疑問が湧く。


 「魔女は悪い奴だから、ここにきたら駄目って言われなかった?」


 この質問にも、やはり少年は本心から「わからない」と答える。


 町の人々は、魔女の…ウィズの恐ろしさを重々分かっている。身に染みて理解している。だから決してこの地に近づこうとはしないし、周囲の人間にここへと近づかないように警告を欠かさない。学校でも仕事場でも、定期的に確認がなされているはずだ。


 (だったら、孤児、かしらね…)


 魔獣の跋扈するこの世界、珍しいことではない。

 あるいは家族や周囲から疎まれ、まともな情報すら与えられないほどの立ち位置の者か。


 だが、それはウィズに対してさほど興味のあることではなかった。

 興味があったのは。


 「君は、馬鹿なの?」


 少年の心の在り方。愚直なほど真直ぐで、それでいてどこかがひどく冷えたような独特な精神。

 ウィズの、ともすればひどく礼を失した質問に、しかし少年は嬉しそうに答えます。


 「うん、ぼくはばかなんだ!」


 そう答える少年の心に浮かんだのは、質問に答えられることが嬉しい、そんな素直な喜び。ただ、その中に、おそらく少年自身でもはっきりと自覚できないような負の感情があったことが、ウィズの眼には見えた。その感情に名前を付けるなら、諦念…あるいは、煩悶、とでもいうのか。


 だから、ウィズは尋ねた。


 「どうして、自分のことを馬鹿だと思うの?」


 少年はやはり、屈託なく答える。


 「だって、みんながぼくのことをばかだって言うから」


 そして、今度は少年のほうが、思いついたように尋ねた。


 「ねえ、まじょさん。まじょさんは、どうすればばかじゃなくなるか知ってる?」


 (あら、ずいぶんと哲学的なことを尋ねる子ね…)


 ウィズは困惑したように眉を寄せる。そして、ずいぶんと昔のことを思い出した。

 それはまだウィズが、町の中で過ごしていた時期に考えたことだ。周囲の人間に何とか自分のことを理解させられないか…平たく言えば周りの馬鹿を治せないかと画策したのだ。そんな過去の自分の突拍子のなさを、ウィズは何とも言えない気分で思い返す。


 その研究の答えは。


 「馬鹿じゃなくなるのは、難しいのよ」


 本当は、「できない」、だった。馬鹿な世界を変えるなんて、できなかった。それでもウィズが「できない」と言わなかったのは、心のどこかでまだその「馬鹿を治す方法」がどこかに存在するかもしれない可能性を信じているからかもしれなかった。


 だが、少年はそんなウィズの心の機微を感じ取れるほど、賢くはなかったようだ。


 (あらあら…)


 少年は、声を上げて泣き出してしまった。

 おそらく少年自身でもその理由は分からなかったのだろう。


 その反応は、ウィズにとって予想外だったと言っていい。正直なところ、馬鹿でなくなる方法なんてものを少年が本気で求めているとは…あまつさえその答えが得られなかったせいで泣き出してしまうなんて、さしもの魔女でも想像できなかったのだ。


 だから。


 「でも、馬鹿だったらどうすればいいかは、教えてあげられるわよ」


 そんなことを口走ってしまった。

 そんな、できるはずもないことを。





 (…参ったわね…)


 ウィズが頬杖をついて、『知識の水晶玉』を眺める。当然、その中には「馬鹿でなくなる方法」なんてどこにも映し出されてはくれない。遠い昔に何度か確かめていることは知っていたのに、どうしてこんなことをしているのか、と自問しながら。


 教えてあげる、と言ってしまった。

 けれども、そんな方法は存在しないことを、誰よりもよく知っていた。


 だから。


 「…まあ、『魔女』らしいと言えば、らしいかしらね…」


 少年を、騙した。


 適当な筋トレと、適当なランニング。まあ、ここまでであればあながち絶対的な間違いとは言えないだろう。確かに、馬鹿に限ったことではないものの体を鍛えておくに越したことはない。少年の気力がいくら続くからはわからないが、嘘は言っていない。


 だが。


 「魔大樹に、毎日触れろ、だなんてね…」


 丘の上の、魔大樹。


 それは、ウィズだけが知る、本物の『魔法の木』だ。「触れる」者の魔力を吸って呼吸し、その代わりにその体に呪術的な活力を宿す、呪われた樹木。まだウィズが一人暮らしに慣れていなかったころに、よくその力を借りに訪れた。当時その呪術的な活力は、一時的にしか作用しないものであっても彼女には大きな助けとなったものだ。


 けれども今ではそれは。


 (…邪魔だった。…重荷だった)


 魔法の力で何でもできるようになった彼女には、不必要な力だった。

 それでも魔大樹を維持するためには、毎日数回「触れる」必要がある。


 それを、少年に押し付けた。


 (…いつまで続くかしらね……)


 魔大樹の活力は、いわばまやかしの力だ。たとえ一時の力を得たとしてもその力は数時間も持たずに体から失われゆく。そして訪れるのは、力を得る前よりも深い脱力感だ。それは麻薬のように中毒性を持って人を蝕み、そしてその心を砕く。


 少年は、どれくらいもつだろうか。

 一週間か、二週間か。

 それとももっと早くに、木に吸い尽くされる前にその無意味さに気づいて辞めるか。


 ウィズは、脱力感と疲労を湛えた瞳でぼんやりと水晶を眺めた。





 ウィズは、驚いた。


 少年は、ウィズの想像を超えていた。

 想像を超えて、素直で、真面目で…そして、馬鹿だった。


 馬鹿だから、自分の魔力が吸われゆくことを自覚しなかった。

 馬鹿だから、自分の体が魔大樹によって作り変えられることに気づかなかった。

 馬鹿だから、魔女の言葉を疑うことをしなかった。


 (…これは……)


 魔大樹に触れたウィズは、驚愕していた。

 木の成長は、ウィズがその力を利用していた時よりもはるかに加速していた。彼に特別な才能があったわけではない。ただただ、ウィズの何倍も、何十倍もの回数、その木に「触れた」だけだった。そしてウィズが気休めに教えた体力作りは、失っていく活力に拮抗して…いや、失われる分を取り返すほどにその体に力を与えていた。


 繰り返す呪術的な活力の影響は、外見にも表れていた。

 小柄で細身だった体は、遅れてきた成長期を迎えたように育ち始めていた。


 ウィズの背筋に、冷たいものが走る。

 それは理屈ではない、直感的な悪寒だった。



◆ ◆ ◆



 少年がウィズのもとへ訪れてから、三か月。


 その頃の彼の体は、不自然なほどの勢いで成長していた。骨格そのものが大きく頑健になり、背が明らかに伸びた。筋肉もしなやかに引き締まり、貧弱だった体を均衡のとれた肉体へと変貌させた。明らかにそれは、「強い者」の体だった。


 けれども彼は、その体に似つかわしくない困り顔で言った。


 「まじょさん。ばかだと、むしされるんだ」


 逞しい体で、しかし涙ぐみながら言う。


 「のろまじゃなくても、とろくなくても、ひよわじゃなくてもだめだって」


 少年の言葉に、ウィズは笑ってしまった。

 真剣に悩んでいる相手に対して悪いとは思ったものの、笑いを堪えられなかった。


 少年は、自分が馬鹿だから無視されているのだと思っているらしい。少年自身にそんな自覚はなかったのかもしれないが、もしかしたら彼は自分自身が拒まれ、疎まれる理由の全てが「馬鹿だから」ということに集約されると思っているのだろう。あるいは、そうであってほしいと無意識下に願っているのかもしれない。


 愚かなことだ。

 疎外される理由など、星の数ほど存在するというのに。


 だからウィズは、笑って言う。

 その体を、強く逞しく成長しつつある体を見据えて言う。


 「無視しなさい。そうされるなら、あなたもそう仕返しなさい」


 少年は、馬鹿だ。

 だが、この体を作り上げた熱意と、実直さは本物だ。

 ならばその力で、十分に孤独を乗り越えられるはずだ。


 かつて自分が、そのための力として「知識」を振り翳したように。


 少年は驚いたように目を丸めて言う。


 「でも、そうすると、一人ぼっちになるよ。一人ぼっちは、よくないよ」


 その言葉も、かつて自分が葛藤し、答えを導き出したものと同じ。だから、にんまりと笑って答える。ああ、今の自分の笑顔はとても『魔女』らしいものだろう、と考えながら、笑って言う。


 「一人が悪いと、誰が決めたの? 悪くないわよ、一人でも。なんにも悪くない。」


 口ごもる少年に、語りかける。


 「やってみなさいな。きっと大丈夫だから」


 ウィズはこのとき、自分が彼を奈落へと導く『魔女』だと、ぼんやりと自覚していた。





 直感的な悪寒は、初期からあった。

 だがその正体に気づいたとき、悪寒はなくなった。

 なんだ、そんなことだったのかという苦笑を伴った脱力を感じた。


 (…あの子は、私だ)


 少年は、過去のウィズと同じだったのだ。

 能力ではなく、境遇が、だ。


 百八十度方向性が違うとはいえ、己の能力のせいで周囲から疎まれ、弾かれている。


 だから彼が自分と同じ道を辿ることが、容易に想像がついていた。

 そして彼の努力が積み上げた力が、孤独を跳ね返しうるに足ることもわかっていた。

 自分の積み上げた努力が、ウィズに一人で生きる力を与えてくれたように。


 「…気楽なものよ」


 孤独は、一度手をつないだ瞬間、気楽な友人となる。

 少なくとも、周囲に無理に合わせようとするよりも、ずっと気楽な。


 「……大丈夫よ。あなたは、馬鹿だから」


 そしてウィズと違って、彼は馬鹿だから。

 勘のいいものだけが気づくようなことには、きっと気づかない。


 孤独という居心地のいい友人は、実は一度手をつなぐと容易には手を放してくれないことに。

 孤独という気楽な空間は、実は酷く限定された牢獄でしかないということに。



◆ ◆ ◆



 そして、また三か月。

 その日は、やってきた。


 そう、ウィズはその日がいつか間違いなく来ることを知っていた。少年が自分と同じ境遇にいるのであれば、それはいつか必ず来る日だったから。しかしそのことを知っていながら、その対策を立てようとはしなかった。


 あるいは、対策を立てることを、わざと拒んだのか。


 「まじょさん。ばかだと、たたかれるんだ」


 少年が言う。


 「ばかのくせになまいきだって」


 そのこと自体は、ウィズにとっては予想の範囲内だった。

 自分もそうだったから。生意気だ、傲慢だ、不遜だ。その言葉とともに、振り下ろされる暴力。


 だが、予想外だったことがあった。


 (…なぜこの子は、こんなに傷だらけなの…!?)


 理解できなかった。


 少年の体は、ますますその頑強さを増していた。しなやかで力強い筋肉は、普通の人間であれば…いや、たとえ王宮勤めの屈強な騎士であっても、まともにぶつかればひとたまりもないだろう。それだけの力を、その肉体は内包していた。まして少年と同年代程度の人間であれば、十回殴られても彼はびくともしないだろうし、逆に相手は一回で昏倒してしまうだろう。


 そんな少年が、傷だらけだった。無数の打撲傷、擦過傷。明らかに鋭利な刃物でつけられた傷。さらには人に対して使うことは厳に制限されている魔法による熱傷、凍傷まで見られる。一度のいじめでつけられた傷ではないことは、明白だった。


 なぜ。


 「…その時、君は相手をどうしたの?」


 訝しんだまま、低くウィズが問いかける。


 「ばかだから、どうしていいかわかんなかったから、どうもしなかった」


 少年の言葉。その言葉が、ウィズを貫いた。ウィズの胸の奥が、ずきりと疼き、軋んだ。そして賢い彼女は、それが何かを即座に理解した。そして同時に、その顔が内面を、痛みを、疼きを隠すための仮面の笑顔を顔に張り付ける。


 疼いたそれは、嫉妬。


 (…ああ、私は)


 軋むそれは、後悔。


 (…私は、なんて醜いんだろう…)


 その心のままに、しかし顔には笑顔を張り付けて言う。それはウィズ自身からすれば酷く歪で、滑稽なものだという自覚があったが、それは目の前の素直な、それでいて愚かな少年は見抜けないだろうという確信もあった。その確信を抱いたまま、笑顔で言葉を紡ぎだす。


 「君は、強いね。体だけじゃない。自分を律する、その心が」


 言えば言うほど、そうできなかったウィズ自身が己を弱く感じる。


 「君は、強いんだよ。実際に振るったことは無くても、その力は誰にも負けない。誰に媚びることもない、誰の顔色を窺う必要もない、世界を敵に回せる、そんな力だ。君がそれを振るえば、皆を簡単に平伏させることができるんだよ」


 畳み掛けるように言う。

 こんな言葉では少年には伝わらないと知りつつも、口調を治せない。なぜならそれは。


 (…まるで、自分への弁解みたいだ…)



 どれくらいそうしていたか。

 少年の困り顔が深まるにつれて、だんだんとウィズは冷静さを取り戻す。

 仮面の笑顔が、心の中の苦笑に一致していく。


 「絶対に、やり返してはいけないよ」


 そして、優等生な答えを返す。それができなかった自分を、心中で嘲笑しながら。

 同時に、考える。

 考える。


 どうやって、この少年を助ける。

 この少年は、強い。だから、ここまで耐えている。

 けれどもそれは、とても無限には続かない。


 どこかで、どこかでその我慢を断ち切らなければ。

 その、手段。


 その、手段は。

 ウィズの体の温度が、すっと下がった。


 「…毎日、魔法の木のところに行ってるのよね」


 その言葉が、冷たく響く。


 「明日、王様の星が空に光る時間に、魔法の木のところに行きなさい」


 それは、どろどろに歪んだ感情の響きだった。



◆ ◆ ◆



 なぜ、あんなことを言ったのか。

 なぜ、こんなことをするのか。


 何もかも分からないまま、『支度』を行う。

 それはどう見ても、浅ましく唾棄すべき『魔女』の所業だった。


 ―――もう一度、僕を使うのかい?


 手にした呪符が言う。

 これにもう一度魔力を宿せば、もう戻れない。

 辞めるなら、ここが最後。


 少年の顔を思い浮かべる。

 ウィズは、普段の彼を知らない。彼の知る少年はいつだって困って、泣きそうな顔をしていた。その気弱な表情に似合わず、彼は出会うたびに強くなった。体は会う度に着実に大きく強靭になり、心は無垢で悪意を知らないそれから強く挫けない強度を得た。


 そしてその強さは、一旦反転してしまえば、容赦なく血の雨を降らすだろう。


 かつての自分のように。

 だから。


 (…私は今日、彼を殺すかもしれない……)


 彼を、この手で殺す。

 なぜ、そうするのか。その理由が、ウィズにはとてもよくわかる。


 (私は、過去の私を、ずっとこうしたかったから)


 あの日。

 ウィズが町にいられなくなった、あの日。


 今でもはっきりと思い出す。

 かつて幼いウィズが、殴られた痛みと恨みのまま作り上げた合成獣は、その圧倒的な力で町を恐怖に陥れた。爪が胴体を薄布のように引き裂き、頑強な牙は頭蓋をあっさりと噛み砕いた。羽根は悲鳴を上げて駆ける者たちの逃亡を許さず、足は立ち塞がる輩を残らず踏み潰した。


 悲鳴と怒号。

 爆音と火炎。

 そして、涙声。


 やめて、と。こんなつもりじゃなかったと泣く、幼いウィズ。


 ―――望んだのは、あなたでしょう?

 ―――それを求めて、そのために僕を作り出したのは。


 暗く冷たい、彼女だけに聞こえる獣の声。

 それは『魔女』の操る最強の力である、狂気の合成獣。呪符に封じられた、かつて文字通り街一つを滅ぼしかけたとさえいえる恐るべき魔物。そして、彼女の犯した罪の象徴。


 そんなものを使うのは、もちろん理由がある。


 (……あの子の体が、十分に魔大樹の力を吸収しているなら…)


 可能性は、ゼロではない。


 魔大樹の呪術的な肉体変革は、術者の思考にわずかだが依存する。本来は一時的なものに過ぎないが、彼はその「一時的」を継続させるほどの頻度で魔大樹に触れている。その蓄積された魔力を一気に防御に特化した力として変えさせることができれば。そしてそのためには、彼の強靭な肉体に圧倒的な攻撃を加え…本気の「死」の恐怖を呼び起こさせる必要がある。


 彼の体が十分な魔力を蓄えている可能性。

 合成獣が魔大樹の肉体変革を起こさせるほどの恐怖を感じさせる可能性。

 そしてなにより、彼が合成獣の攻撃に耐えられる可能性。


 すべてあわせた可能性がいかに低いか、ウィズは重々分かっていた。そして。


 (……私は、なんて嫌な奴なんだろう…)


 それが、「失敗してもかまわない」ということを、ウィズ自身は心のどこかで思っていたのだ。万が一…いや、万に九千九百九十九の確率での失敗で、彼が死んでしまっても、それはウィズは起こりえた彼の暴走を未然に防いだというだけのことなのだから。


 そして何より。


 (……私は、「昔の私」を殺したがっているだけだ…)


 ウィズは、彼を殺したいと、ちらりと、ほんの僅かにせよ思ってしまった。

 かつて取り返せない過ちを犯した自分と、同じ彼を。


 ―――それなら、僕はかまわないさ。


 獣の声に、ウィズは無言で耳をふさいだ。


 ―――久しぶりの、人間の血だ。

 ―――「愚かなもの達の血を求めろ」。あなたは僕をそんな風に作ったんだから。





 星の瞬く夜、合成獣はその姿を呪符から現した。

 狼の何倍も鋭い牙のある顎。大鷲よりはるかに強い鉤爪を持つ前足。体は生半可な剣では鱗一枚剥がせない皮膚に覆われ、背中には前足とは別に空を翔るための皮膜の翼がある。後ろ足は馬のそれを模しているが、馬とは桁違いの体重を軽々と支える強靭な力を秘めている。


 ―――久しぶりだよ。外に出たのは。


 合成獣は吼えることなく、目だけでウィズに語りかける。


 ―――あなたが強くなってから、僕はめっきり出番が減ってしまったからね。


 心なしか、その牙の覗く口を嬉しそうに歪めながら。


 ―――全く、こんなものまで付けられるほどに成長するなんてね。

 ―――僕を創るくらいだから、ただものじゃないとは思っていたけど。

 ―――まさに、『天才』。『魔女』の名にふさわしいね。


 ちらりと獣の瞳が見やったのは、首についた鈍色の鎖。ウィズの渾身の魔力で作り出されたその束縛は、いかに強靭な合成獣と言えどもそうそう簡単に引き千切れはしない。そしてその先端は魔大樹に繋がれ、引き抜くこともできない。


 「無駄口はいいわ」


 ウィズが、感情を押し殺して言う。怖かった。何か感情を表に出してしまえばその流れはとどまることなく自分を飲み込み、壊してしまいそうな気がしていたから。それは『魔女』になってから感じることのなかった、久々と言うべき感覚。


 恐怖。


 「いつものようにやりなさい」


 それだけを残して、ウィズは呪文を唱えて姿を消す。

 獣の鋭敏な嗅覚や聴覚をごまかすには若干足りないだろうが、彼に大してなら十分だ。


 やがて訪れる虐殺を、ウィズは静かに待った。

 心の中で、声にならない幼い自分の叫びとの終わり無い口論を続けながら。





 そして、空に王様の星が光る刻。


 彼は。

 自分が馬鹿だと嘆いていた彼は。


 純粋で、素直で、愚かなほどにまっすぐだった彼は。


 「…なんで…!?」


 ウィズの予想をはるかに超えていた。

 はるかに超えた体力だった。

 はるかに超えた精神力だった。


 そして、はるかに超えた馬鹿だった。


 「…なんで、立ち上がるの…!?」


 彼は、何度でも立ち上がった。

 初撃で穿たれた胸からはそう遠くなく致死量に達するだろう出血が迸り、なんども弾かれて転がった四肢は擦り傷と血と泥に塗れている。首筋と太腿にはあとほんの少し深ければ大血管を切り裂いていただろう裂傷が刻まれ、その顔は失った血のせいかそれとも恐怖か、もう真っ青だ。


 両目はもう、暗く濁っている。

 おそらくもう、何も見えてはいまい。


 なのに。


 「……ねえ、どうして…!?」


 ふらふらと立ち上がっては、またウィズの引いた線まで歩み寄る。そこは、鎖で魔大樹に繋がれた合成獣の顎が、かろうじて届かない場所。たどり着いた彼の体が、ふらりと揺れる。あぶない、とウィズが心で叫ぶ。その声が聞こえたわけでもないだろうが、満身創痍の体はなんとか片足を投げ出すようにして踏みとどまる。


 と。


 ―――チッ…


 獣の牙が空を噛み砕く。もし倒れていれば彼の頭がそこにあったという事実に、ウィズの背筋に冷たいものが走る。そして踏みとどまった彼の体に、再び合成獣は鋭い爪を振り翳す。振りぬかれると同時にその体から噴き出す鮮血。その深い傷ですらも、魔大樹の呪力によって肉体を強化されている彼だからこそそれで済んでいるのだ。常人なら指一本で体は両断されて不思議のないレベルの力が、この合成獣にはあるのだから。


 そしてもう、その均衡はいつ崩れてもおかしくない。

 次に立ち上がった時に彼が今度こそ前に倒れてしまうかもしれない。

 そもそも、次に立ち上がれるかもわからない。


 それを。

 そんな綱渡りを。


 「…もう、何度繰り返しているの……!?」


 馬鹿だとか、賢いとか、そんな問題ではなかった。

 とにかく彼はもう、とっくに正気ではなかった。


 けれど。

 その正気を失くした、狂気の中で。

 彼はウィズと交わした約束を守り続けていた。


 いいように叩かれなさい。


 ウィズは確かにそう言った。けれどもそれは、深い意味を持つ言葉ではなかった。少なくともウィズ自身はそう思っていた。どうせ合成獣の爪に打たれれば、一撃で死ぬか昏倒してしまう。体が作り替わるのはその気絶している間だ。


 だから。


 「…立ち上がることに、意味はないのよ…!?」


 ウィズが頭を抱える。


 だが、少年は、馬鹿だった。

 愚かしいほどに、滑稽なほどに、馬鹿だった。

 ウィズの思惑などかけらも考慮せず、ただただ言われたことを繰りかえす。


 立ち上がり、己を切り裂く爪のもとへ、歩み寄る。


 その体が。


 「………っ!!!」


 ぐらり、と揺れた。

 それは、彼に訪れた限界。

 いかに鍛え抜かれた肉体といえど、その体力は無尽蔵ではない。


 瞬間、世界がスローモーションになる。



 ぐらりと揺らぐ、体。


 剣呑に光る、合成獣の眼。


 鋭く振りぬかれる、妖しく輝く爪。



 そして。





 ―――なんのつもりだい?


 獣が、問いかける。

 己の爪から、赤々と輝く鮮血を滴らせながらも、目だけでウィズを見つめながら、だ。


 「…もう、十分よ」


 かろうじて、震える声で返す。

 震えているのは、腕に走った激痛のせいだ。


 とっさに駆け出して少年を抱きとめたウィズの腕は、見るも無残に切り裂かれていた。纏ったローブはそこらの魔獣では噛み付こうが切り裂こうがほつれすら生まれない魔法の品だが、それですらも獣の爪を防ぎきることはできなかった。三本の爪に切り裂かれた腕からは痛々しく血が流れる。


 「…もう、十分だから」


 繰り返す。


 「…あなたも、その血で満足なさい」


 獣を睨みつけながら、ウィズが言う。

 獣はその視線を涼やかに受け流して笑う。


 ―――そう?

 ―――そっちがそう言うならば、僕は文句はないよ。


 まさしく、悪魔の…『魔女』の使い魔に相応しく、嗤う。


 ―――キミの血は、さぞかしおいしそうだしね。


 そう言って、その爪を牙の隙間から除いたざらつく舌で舐め取る。

 その瞳が、極上の供物を飲み干したようにすっと細まる。


 そして。


 ―――じゃあ、僕は還るよ。

 ―――また呼ばれるのを、楽しみにしながらね。


 その体は煙のように掻き消えて、もとの呪符へと戻った。

 合成獣…使い魔の特徴である、収納の力。その解除には魔力を有するが、逆はコストなく…さらには使い魔本人の意志でさえ、可能だ。一般的な使い魔、魔獣は呪符に封印されることを嫌い、ひどいものでは主に逆らって暴れることさえある…が、この合成獣はそこまで愚かではなかった。


 『魔女』の葛藤だけで、十分に愉悦に浸るくらいには。





 少年は、いつ醒めるかもしれず眠り続けた。

 ウィズは、少年の大きな体を横たえて、その頭を膝に抱えたまま待っていた。


 ウィズの…いや、二人の体には、傷はない。ウィズの使った魔法のためだ。だが魔法とて、万能ではない。傷そのものは塞げても、それによって失った活力や血液を取り戻すことはできない。また、大きすぎる傷は跡が残ってしまう。


 たとえば、青い顔で眠りつづける少年のように。

 たとえば、少年の胸に刻まれた、大きな傷跡のように。


 「君は、強いね…」


 少年の体を…正確にはその体をめぐる魔力の流れを見ながら、ウィズはつぶやいた。


 少年は、賭けに勝った。

 彼の体は強く造り替えられ、もう町の馬鹿共程度では傷一つ付けられないだろう。


 いや、今回だけではない。

 彼は、きっと闘い続け…そして、勝ち続けたのだ。


 地味で苦しい鍛錬を毎日欠かさず続ける日陰の戦いに。

 魔大樹に魔力と活力を吸われ続ける、目に見えない戦いに。

 無視され、孤独と向き合う辛い戦いに。

 同じ人間に、敵意と害意を持って己を害される恐怖の戦いに。

 その理不尽に対する怒りを、人知れず堪え続ける己自身との戦いに。


 少年はそれらすべての、孤独で終わりの見えない戦いに、完全なる勝利を収めたのだった。


 それは。


 「私は、勝てなかったからなあ…」


 ウィズには、できなかったことだった。


 この時、ウィズは分かっていた。

 少年は、自分のように堕ちたりはしない。今日このとき、今までの辛い戦いに勝利した報酬として得た力で、正しき道を強く歩き始める。これだけの屈強な肉体と強靭な精神力があれば、ウィズはいくらでも方法は思いついた。自分がそれを教えてあげれば、彼はもう一人で。


 そう、ひとりで。


 「…もう、一人で…」


 空は、もう白みがかっている。

 王の星は地平線の下へと消え、姫君の星が薄紫の夜明けの中で存在を誇示する。


 そして、そんな中で。


 「…ん、んん…」


 ゆっくりと、少年が目を覚ます。

 そんな少年を見つめながら、ウィズはこれから自分のやるべきことを考える。


 ウィズの表情は、硬かった。

 なぜなら、感じ取っていたから。


 彼がきっと、この先…遠くない未来に、自分のもとを離れていくということを。




◆ ◆ ◆




 それから、三か月。


 「ねえ、魔女さん。馬鹿じゃなくても、いじめられるの?」


 その日は、唐突にやってきた。


 いや、唐突ではない。

 彼が自分を超えていったあの日から、ウィズにはこの日が来ることがわかっていた。


 「僕じゃない子が、いじめられてた」


 分かっていた、のに。


 「ねえ魔女さん。こんなとき、どうすればいいの?」


 その声を聞いた瞬間。


 「何もしなくていいわ」


 今まで考えていた助言は、泡となってウィズの頭の中から消えてしまった。口をついて出た言葉は、自分の口から出たとはとても思えないほどに冷え切っていた。それはまるで昔の…そう、『魔女』だったころの彼女のような声色。


 彼の顔が、驚きに…あるいは、悲しげにゆがむ。

 開かれた口から、「でも」の言葉が漏れる。


 ウィズは、止まらない。

 言うべきことは違うと頭で解りながらも、心が叫ぶのを止められない。


 「出ていって!!!」


 こんな声を今まで出したことがあっただろうかと思うほどの大声が、喉から響いた。


 「出ていきなさい!!!」


 二度目の叫びで、彼が出ていく。

 まるで自分のことのような、つらそうな顔をして。


 そして。


 「うぐっ…ひっく……!」


 ウィズは、泣いた。


 分かっているのに。これはうれしいことだと、頭では理解しているのに。彼が己の問題をすべて解決して、他者に目を向けた。そして、とても素晴らしいことに、その相手の苦しみを助けてあげたいと思った。自分が今まで味わった苦しみを糧として、同様の苦しみを持つ相手を救おうとした。


 「…私は、なんて…醜いんだろう……」


 自分が同じ環境にいたのなら、きっと彼のようには思えない。

 ともすれば自分が味わった苦しみを、貴様らも味わえとすら思ったかもしれない。


 「…嬉しく思わないと、いけないのに……」


 涙を拭いながら、自分に言い聞かせるように口の端から洩らす。


 苦しい。

 心を占めるのは、暗い感情ばかり。

 彼の無邪気な正義感への反感。

 彼が助けようとしている、いや、必ずや助けるだろう少女への嫉妬。


 そして、彼が自分のもとを離れていくことへの、恐怖。


 そう、恐怖だった。


 「…離れたくない…」


 それが、ウィズの偽らざる本音。

 だが、ウィズは。


 「…離れたくない、のに…!」


 悲しいことに、「天才」なウィズは。


 「…私は、一緒にはいられないよぅ……!」


 自分が彼の足かせになることを、この上なく理解してしまっていた。彼はたとえ自分が今どんな対応をしたとしても、問題なく彼女を救うだろう。それだけの力が、彼の肉体には宿っている。もちろん彼は馬鹿だから、思いもつかない失敗をするかもしれないが、それは決して高い確率ではない。そして彼は、友人と名声を同時に得る。もともとの性能が違うのだ、一度目立ってしまえばその名声はうなぎのぼりに高まっていくだろう。


 そして、そんな彼にとって。


 「私は、いちゃいけないの……!」


 異端なる『魔女』との親交など、汚点以外の何物でもない。


 「だから…これでいいの……」


 あの様子では、もしかしたらもうここにはこないかもしれない。きっと彼はなぜ自分が怒ったのかなど想像すらできないだろう。途方に暮れて他の人間に助けを求めるか、あるいは自分で必死に知恵を絞って手段を考えるか。


 そのいずれでも、彼はきっと成功を成すだろう。


 いや、或いは。


 「……」


 ウィズは、心を決める。

 先延ばしには、できないから。


 もし彼がここを再び尋ねるなら、明日。

 その時は。


 笑って彼を送り出してあげよう、と。





 「んもう。そんな顔しなくてもいいじゃない」


 ウィズは、思わず笑ってしまった。


 次の日ウィズの家を訪れた彼は、いつもよりもずっとずっと困った顔で、恐る恐るとしか言えない様子で控えめに扉をノックして、こそこそと中の様子を窺ってきたのだ。屈強な戦士のような肉体の大男の、気弱をそのまま絵にしたような態度は、ひどく滑稽だった。


 「…ごめんなさい」


 彼が謝る。

 ウィズは、それを笑い飛ばす。


 「どうして謝るの? 君は何も悪くないよ。君は馬鹿だけど、なんにも悪くない。いい馬鹿だよ」


 そう。悪いのは、自分だ。

 幼くて、醜くて、浅ましい自分だ。


 だから、笑う。

 こんな自分は、彼のように眩しい人間とは一緒にはいられないから。


 だからせめて、笑って送り出そう。

 素直に、そう思える。


 簡単に、今回の作戦を教えてあげる。

 いや、それはもう、作戦とすらいえないかもしれない。

 そんなものを熱心に聞きこむ彼が、どうしようもなくほほえましくて。


 だから。


 心の痛みを隠して、いたずらっぽく微笑んで。

 くちびるに、立てた人さし指を当てて。


 「あとは、君の思うように動けばいいさ」


 やさしく、やさしくウィズは少年を突き放した。




◆ ◆ ◆




 それから、三か月。


 ウィズの日々はゆっくりと、空しく流れた。風の便りに聞く、村の噂。屈強な体と優しい心を持った、純朴な青年のこと。胸に大きな傷跡を持った、真面目で一生懸命な男のこと。それを聞くたびに、ウィズは何とも言えない胸の痛みを感じる。


 それはちょっとした、気恥ずかしさ。幼かった彼に、ほんの僅かにとはいえ、教えを施したことがあるという、くすぐったいような誇らしさ。それはささやかな、もの寂しさ。彼が立派に成長すると同時に自分のもとを巣立って行ってしまった、ちくりと痛む寂寞感。


 ウィズはそれに、後悔はなかった。


 自分は、彼から身を引いて。彼は、優しく歩み去って行って。

 自分がまた一人になった。それだけのこと。そして、一番正しいこと。


 なのに。


 だったのに。

 そうだと、わかっていたのに。


 「どうしたんだい? 今日は、君は、質問はないだろう?」


 笑う。


 いや、必死に笑おうと表情を作る。

 もう会えないかもと思っていた、目の前に立つ、精悍な彼に対して。


 彼は、ウィズが今まで見たことのない表情をしていた。いつもの気弱な、涙ぐんだ困り顔ではなく、少しだけはにかんだ、けれどもどこか嬉しそうな笑顔。その初めて見る顔のまま、彼はウィズの問いに答える。


 「僕は、魔女さんにお礼を言いたいんだ」


 真直ぐに、真直ぐな瞳を向けて。

 その言葉に、ウィズはますます心が疼く。


 違う。お礼を言われるなんて筋違いだ。

 自分は彼を騙していただけだった。

 騙して、働かせて、そして最後には殺そうとだってした。


 「でも、僕は馬鹿だから、三か月考えてもどんなふうにお礼を言えばいいか分からなかった」


 困ったように、でもどこか嬉しそうに。

 ああ、本当に馬鹿な子だ。三か月もそんなくだらないことで悩むなんて。


 「たくさんお礼がありすぎて、どこからお礼を言えばいいか」


 強くなったとはっきり分かる顔で笑う、彼。

 違う。お礼を言うのは、自分のほうだ。

 自分の色褪せた日々を再び色付かせてくれた、彼に対して。


 なのに。

 それなのに、彼は。


 「魔女さん、ありがとう」


 真直ぐな瞳で、真直ぐな笑顔で、「ありがとう」と言ってくれた。

 その素直さは。


 「そうかい。それは、よかったよ」


 まぶしすぎて。

 汚れた自分には、耐えきれないほどに眩くて。


 流れる涙が、止められなくなるほどで。

 それを見せたくなくて、くるりと身を翻して。


 (ああ…)


 音もなく流れる涙から、手を離して。

 少しだけ、顔を上げて。


 (私は、この人が好きだ……)


 そして。


 (…本当に、本当に、大好きだから)


 喉からこぼれそうになる喘ぎを止めて。

 声の震えを抑えて。


 「ねえ、フール。もう、ここには来る必要はないね」


 はっきりと、彼の名を呼ぶ。

 それから。


 「フールは馬鹿だからよく分からないだろうけど、ここには来ないほうがいいんだ」


 しっかりと、言葉にして告げる。

 彼がもう二度と来ることのないように。





 ウィズは、泣いた。


 ―――魔女さんがそう言うなら、そうなんだね。


 そんなことを言えてしまうほど自分を信じてくれた彼を騙してしまったことに。


 ―――魔女さん。僕に出会ってくれて、本当にありがとう。


 恥ずかしげもなくそんなことを言うような彼を、裏切ってしまったことに。

 そして何より。


 「……やっぱり、離れたくっ、……ないよぅ…!」


 こぼれ出た、自分の本当の心に。

 溢れ出た醜い心は、理性を超えた苦しみは、涙と一緒に一晩中流れ続けた。





 眠気か、あるいは他の何かのせいか、やけに重たい頭を振る。

 どうやらそのまま泣きながら眠ってしまったらしい。


 (まるで子供みたいだ…)


 自嘲気味にそんなことを思う思考も、ずいぶんとぼんやりしている。

 しばらく…一年ぶりくらいだろう、ひどい倦怠感のせいで、起き上がる気力もない。


 その原因を思い描いて、やめた。


 (…彼がここに来るようになって以来、か…)


 そして、その思考の霞は、彼女が魔女になって以来、ずっと続く昏い微睡みだった。


 彼だけが、そこからウィズを救ってくれた。

 彼だけが、ウィズを必要としてくれた。

 彼だけが。


 (…だめだなあ…私は…)


 もう、二度と会えないというのに。

 自分はもう、この思い出だけで生きていかなくてはいけないというのに。


 醒めない深い、悪い夢のようなこの世界を。


 (…やめよう……)


 そして再び、今度こそ無理矢理に意識を落として。


 ―――とんとん。とんとん。


 聞こえたノックの音が、それを引き留めた。

 あるいはその深い奈落の底から、強い力で引っ張り上げた。





 「おはよう、魔女さん!」


 ああ。

 どうして。


 「魔女さんは言ったんだ。僕の思うように動けばいいって」


 もう来ないでといったのに。

 もう自分にはしてあげることなんて何もないというのに。


 「僕は、魔女さんが困ってると思うんだ」


 君の体には、もう日の当たる場所へといける力が宿っているというのに。

 自分のように、影の中にいる者なんて、気にすることはないのに。


 「でも僕は馬鹿だから、どうして魔女さんが困っているか、分からないんだ」


 ああ。


 君は。

 君という人は。


 「だから、魔女さん。魔女さんを助けるために、僕はどうすればいい?」


 無意識なのだろうか。馬鹿ゆえの自覚なしなのだろうか。

 それとも、すべて分かって。


 すべて分かっていて、私から。


 私の口から、言わせようとしてくれているのか。


 「……て…」


 私は。

 私が、私を助けるためには。


 「…い……て…」


 私の望みは。私の願いは。


 「いっしょに…ずっといっしょにいて…!」


 叫ぶ。


 世界が、スローモーションになる。


 そして、彼の体に、ぶつかるようにしがみつく。


 大声で泣き叫んだ。力いっぱい叩いた。

 何かへの、あるいは何もかもへの妬みを、恨みを、醜さを、全てを込めて。


 彼の強い体は、そのすべてをしっかりと受け止めてくれた。

 それはウィズが初めて感じる、人の温かさだった。





 ある国の、ある町。

 その町のはずれにある一軒家には、長いこと魔女が住むと言われていた。


 だが、そこを訪れた冒険者たちはみな、口を揃えてこういった。


 ―――一組の、穏やかな夫婦がいただけだった、と。

 ―――女は魔術に、男は腕力に長けていたが、どちらも親切な御仁だった、と。


 そしてもう一つ。

 この言葉も、共通していた。


 ―――二人はとても、とても幸せそうだった、と。


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― 新着の感想 ―
[一言] 僕自身も彼女と同じような不満を抱き同じような醜さを持つため、彼女と自分を重ね合わせた上で、最後に訪れた恋愛ストーリーに思わず涙を流してしまいました。 おもしろ話だと思って読み始めたために不意…
[良い点] 上手い言葉が出てこない・・・。 ただ一言、前のと合わせて大変胸に響く物語でした。
[良い点] 感動する、良いお話でした。 [一言] 周りの人間がなにより醜い、普通にそう思った。 人がそう言う物だと知っているけど、この醜さはどうにかならないのかと思う。
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