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All my loving

作者: 柳羽 紫樹

『All my loving』by Beatls.


Close your eyes and I'll kiss you

Tomorrow I'll miss you

Remember I'll always be true

And then while I'm away

I'll write home every day

And I'll send all my loving to you


目を閉じて……キスをしてあげるよ。

明日になれば二人は別れわかれ。

だけど、いつでも

あなたを想っているよ。

家を離れている間、

毎日手紙を書いて

ありったけの愛を君に送ろう。




12月20日――。

毎年この日が近くなると、独り部屋でベッドに横になっている僕に、病院で渡された覚悟の瞬間が鮮明に甦ってくる。

後ろが光る黒い写真の白い部分を懸命に噛み砕いて説明する医師の姿。

僕の隣で耳の遠い祖母が不安そうな顔で医師の話を良く聞こうとしてるが、医師と僕との間では複雑な専門用語が往来していた。

複雑な専門用語――。

母と一緒に過ごした何年もの月日。

インターネットで調べたり、知り合いの医師に聞いたり、教えてもらったりしたこと。

それが医師と僕との間を言葉となって行き来していた。

僕も祖母のように何も知らなかったら、残りの道のりを医師に思い切って聞くことができたのかもしれない。

いつも優しくて親切な医師はとても真剣な顔をしていた。

僕の隣に座っていた祖母はきっと必死で息を整えていたに違いない。

もう冬を迎えようとしていた季節に応じて、場の空気も乾燥していたのかもしれない。

僕の喉の血管は波打ち、ひどく乾き、声はかすれていて、いつもより通りが悪くなっていた。

耳の中で機械音にも似た独特の高音の響きが流れ続けていた。

優しい闇の、静かな夜の、病院のナースステーションで僕は涙をこえらえることができなかった。

冷静に、冷静にと、頭をクリアに働かそうと考えるのに反比例して頬を伝う滴は一向に止んでくれなかった。

医師の言葉はいつまでも僕の耳と頭の中に残っていた。

病院からの帰り道。

寂しい茜色からすっかり澄んだ紫色に変わっていた夜の空を、病院のエントランスの窓から見上げる。

切なくなるような宵闇にビルの明かりは眩しかった。

滲んだ世界と、情けもないこちらの世界を唯一繋いでくれていたのは祖母の優しくて悲しい寂しい声だった。

それはとても、とても滲んで聞こえて、僕の中に染み渡っていった。







1.僕と病院の奇妙な間柄


僕と病院には奇妙な関係があると思う。

思い返してみれば僕の人生はいつも病院にいた。

3つ下の妹が生まれた時の記憶は定かではない。

産後にしばらく入院していた母と妹をお見舞いに行ったことや、退院した日に父と母と妹と家族全員で家に帰ったことは覚えている。

病院からの帰り道、母は車の中でずっと産まれたばかりの妹を抱いていた。

小さい僕は自分に妹が出来たことが一体どういうことなのかは正直わかっていなかったと思う。

でも家に着いた時に母が「ただいま」と声に出して言い、空いた両手で抱きしめてくれたのは覚えている。

5人兄妹である母の1番上の姉が「脳腫瘍」という、頭の中に悪いものができる病気で入院した。

もちろん家族みんなで叔母さんの入院している病院にお見舞いに行った。

家に居る時は恐いと評判だった叔母は、ベッドの上ではいつも優しかった。

「よく来たね」

「小学校に上がったら勉強をたくさんしないといけないよ」

そう言って笑顔で引き出しから溢れていた小袋のお菓子を2つ、3つ僕にくれたことを覚えている。

僕は自分が足し算や引き算ができるようになったことや、小学校に上がるためのランドセルを買ってもらったこと、

最近読んだ図鑑の珍しい虫の話や大きい恐竜の話をしてあげた。

叔母さんはこの他愛のない幼子の話を笑顔で聞いてくれた。

そして「いっぱい勉強してね」「いつも笑顔でいなさいね」と幼い僕に言ってくれた。

周りの大人たちの気も知らずに病院からの帰り道は楽しかった。

外食になることもあったし、理由はわからなかったけど叔母さんが喜んでくれたことが嬉しかったから。

だから小学校に上がってから少しして、優しかった叔母さんにもう2度と会えないと知ったことは悲しかった。

疑問に思うことはたくさんあったけど叔母さんが「いない」ことは怖かったのだと思う。

僕はとても悲しくなって、いつまでも泣きじゃくっていた記憶がある。


妹が産まれてから3年が経ち、今度は弟が産まれた。

一緒に人形遊びをすることや、ピンク色のおもちゃ達と友達の妹に飽きていた僕は弟が出来たことがとても嬉しかった。

彼が大きくなってから遊ぶことを考えるとわくわくした。

公園でキャッチボールやサッカーをしようとか、子分みたいに引き連れて色んなところに連れて行ってやろうとか。

彼が虐められるようなことがあれば、僕は真っ先に正義の手先に変身したことだろう。

弟が産まれてからしばらくして「生まれつきの障害を持っている」と母は医師に言われたらしい。

弟は生まれつき歩けなかった。

小児麻痺による体幹機能障害。

それから僕は毎週、弟のリハビリのために病院に通った。

妹は保育園だったので小学校から帰った僕と母と弟と、大きな荷物の掛かった乳母車と一緒に。

地下鉄には今のようにエレベーターなんてなくて、階段は母との共同作業が大変だった。

母が弟を抱いていたので僕は主に荷物と乳母車を担当した。

僕の弟への親分家業は病院の行き帰りに限定された。

「お夕飯はちゃんと食べなさいよ」と言いながら母は、病院の近くにあったコーヒーショップでホットドックを買ってくれた。

残念だったことは、まだ幼かった僕はマスタードの重要性を理解していなかった。

ケチャップとソーセージとパンだけの甘いホットドック。

それが母と弟との病院の帰り道の味だった。

僕が中学校に上がる頃になると今度は祖父が具合悪くなって入院をした。

祖父が大好きだった僕は当然の如く病院にお見舞いに行った。

政治のニュースや時代劇の流れる病室で祖父の話をたくさん聞いた。

祖父が戦争に行って、背中と肘に機関銃を受けた話は小さい頃に一緒に入ったお風呂で何度も聞いていた。

だけど話の上手い祖父から直接聞くと、いつも違って聞こえた。

天気の良い日は病院の周りを祖父の乗る車椅子を押して一緒に散歩した。

季節が変わる度に道を彩る花も違った。

僕は祖父が大好きだったから病院から帰るタイミングをいつも逃していた。

そうするといつも「お前はまだやることが残ってるだろう」と病室を追い出そうとした。

「また来ます」なんて格好をつけて病室を後にしていた。

祖父が家に帰ってきてからは毎日一緒に居た。

寝返りを打つのを手伝ったし、食事の用意もした。

祖父が永い永い眠りに着いた日に1番最初に「おはよう」の挨拶をしたのも僕だった。

――それから。

それから、母が入院する度に何度もお見舞いに行った。

何度も、何度も。




2.嫌いな母


母は家ではいつもガミガミとうるさかった。

そのくせ僕が病室に入ると顔をぱっと明るくして「あら、来てくれたの?」なんて言って、読んでいた本を置く。

入院をしているので母が得意としていた時代遅れの下手くそなお化粧はない。

そのおかげもあって顔色が良いのか悪いのかが医者でもない僕にでもはっきりわかった。

だから僕が病室に入ると言葉通りに母の顔がぱっと明るくなるのが楽しかった。

僕は「仕事までちょっと時間があったから」と、できるだけ普通の顔で言うようにしていた。

母の嬉しそうな顔が見るのは好きだったけれど、思春期まっただ中の僕は何故か恥ずかしかった。

当時の僕は友達の前で明るく前向きな性格で通ってた。

その前向きな僕からしてみれば母の入院はいつもガミガミうるさい母親が、長い旅行にでも行ったような感覚だった。

家の中では好きなことはやりたい放題だったし、ご飯は近くにある母の実家で食べていた。

生活をする上で不自由なことと言えば今までやってことがなかった洗濯という家事くらい。

でもそれも自動で洗濯機がやってくれることなので、洗剤を入れて干す、畳むという作業があったくらいだった。

初めのうちは全部自動でやってくれる洗濯機すら使い方がわからなかった。

湿っぽい変な匂いのする洗濯物が僕の初めての洗濯結果だった。

今になって振り返ってみると当時の僕は、前向きというよりは楽観主義と言った方が正しい。

僕は病院では否定的な言葉や、後ろ向きな雰囲気を出すのが嫌いだ。

これは幼い頃から具合が悪い人たちを見舞うことで培った癖なのかもしれない。

若さ故のものだったのかもしれない。

だけど「成せば成る」という言葉や「病は気から」という言葉を当時は狂信していた。

いや「信じていたかった」と言い直した方が正解かもしれない。

家の中でのうざったい毎日は、また当たり前のように再生されるはずだったから。

うざったい毎日――。

僕が自分の部屋で始めたばかりの下手なギターを弾いていると母がやかましく入ってくる。

部屋に入ってくる時の理由はいつだって他愛のないものだった。

チョコをひとつ持ってきて「おやつを持ってきてやった」とか、そんな他愛のないものだった。

僕の部屋に侵入することに成功した母はビートルズの話やジョン・レノンの話、自分の大学時代の話をひと通りしてリビングに帰っていく。

大学時代はろくに授業も出ず、部室で友達が弾くギターをBGMに読書をしていたらしい。

まるで会社の先輩が過去の武勇伝をひけらかすように語って、母は満足して去っていった。

僕からしてみれば嵐に出会ったような出来事だった。

しかし母は青春時代の再現を息子とできるのがとても楽しいと言っていた。


僕はどちらかというと母が嫌いだった。

ある程度成長してから知ったことなのだが、母は甲状腺というホルモンバランスを司る器官に持病を持っていた。

人間は感情的になり、興奮するとアドレナリンというホルモンが出る。

アドレナリンが出るということは人間が興奮状態にあるということらしい。

そして通常の人間は興奮が行き過ぎないように、ノルアドレナリンというホルモンが出て興奮状態を鎮めていく。

しかし僕の母が抱えていた病気は興奮状態を鎮めるノルアドレナリンの分泌が通常の人よりも少なくなるそうだ。

感情的になると手がつけられない人だった。

周りの人は「癇癪持ち」「ヒステリック」なんて言葉で片付けていた。

そんな持病持ちだったから、例えば「飲み物をこぼした」などという、くだらない理由でよく叩かれた。

うそをついたり、学校でやんちゃをして先生から電話がかかってこようものなら3日間くらいは殴られたり、無視されたりした。

「ごめんなさいで済んだら警察は要らない!」

叱られた後の謝罪で「じゃあどうすればいいんだ……」なんて頭を抱えることは日常茶飯事だった。

母が妹や弟を叱っているときにも注意が必要だった。

今思えば叱っているなどと高尚なものとは程遠く、怒りという感情を全力でぶつけていたという表現が事実に近い。

関係のない八つ当たりが飛んでくるのを華麗にかわすことは重要なことだった。

たまに兄貴風を吹かせて「止めろよ」なんて仲裁に入ることもあった。

けれどそれが徒労に終わり、かえって燃えている火を加速させることなんて日常茶飯事だった。

何をポリシーに生きているのかわからない人だったのだが、気に食わないことがあれば誰彼かまわずに食って掛かった。

身内だろうが他人だろうが関係ない。

妹弟を見ていればわかるように機嫌が悪ければ本当に何も関係ない僕の友達にまで食ってかかった。

小学校6年間と中学校3年間の合計9年間。

僕の母は「怖いお母さんランキング」でぶっちぎりの1位だった。

揺るがないこの大記録を友達は懐かしむように笑ってくれる。

当時の僕は友達のお母さん達を本当にうらやましく思ったものだ。

学校から帰り友達の家に寄ると「よく来てくれた」と友達の母は笑顔で出迎えてくれる。

友達と部屋で笑い話に花を咲かせているとおやつや飲み物を出してくれる。

友達は自分の母の機嫌を特に気にする必要もない様子だった。

これがもし自分の家であったら、友人の訪問などお構いなしに傍若無人に振る舞う母を僕はいつも気にしていなければならなかった。

僕らが何をしてようと自分の用事を思い出したように放り投げてきた。

「終わったらやる」などと言いようものならば「あんたは前もそう言ってやらなかった」と過去の恥事を持ち出してくる。

こうなったら最後なのだ。

自分の用事を効率的に済ませたいのであれば、最適な時を見計らって進めれば良い。

火を消している最中の消防士に地域の防災をインタビューする記者はいない。

しかし、そんなことは母にとって構うことではないのだ。

小学校の高学年や中学のような思春期にもなると僕はそんな母から遠ざかりたかった。

僕が部屋でおとなしく本を読んでいようが事件は毎日のように起る。

本当に些細なことが多かった。

だけど母の手にかかると、魔法のように誰かが痛みを伴うような事件に発展する。

僕は母から出来るだけ離れたところに居たかったし、出来るだけ家に居たくなかった。

「変わった愛情表現なんだよ」

叱られ、叩かれ、泣き疲れる僕に親戚の誰かがこっそり言った。

幼すぎて「愛」なんてものが何なのかはわからなかった。

それが果たして必要なのか。だとか、愛がある故にこのようなことが起こるなら不合理だと思っていた。

母が何がしたいのか、何を言いたいのかよくわからなくなることなんていつもだった。

本当にわからなくて聞いたこともある。

「何がしたいの?」

答えはたいてい「何がよ」だった。

僕の分析によると母は自身も何をしたいのかがわからなくなっているようだった。


母のようで母ではないモノ。

僕はそのモノが大嫌いだった。





3.学生の本分


正体がよくわからない母の愛情への反動はあったのかもしれない。

僕は中学に入ってやんちゃの道を極めた。

ケンカ、タバコ、万引き等、数え切れずの悪行を働いた。

悪行と言っても所詮近所の中学生がやることなので、程度はたかが知れている。

更に狡賢いことに定評のあった僕は、悪行が露呈することは何一つなく、せいぜい疑いをかけられる程度だった。

しかし疑いをかけられる度に母が学校に呼び出された。

学校に呼び出されると母は指導室に入るなり先生が止めに入るくらい僕を殴り、罵倒した。

まだ僕がやったと確定してもいないのに、だ。

人の話を聞かないのか、聞かないようにしていたのかはわからない。

これがとても面倒で僕は、事によっては自分がやったことにしたこともある。

だが中学校も2年生になると母の「力」をはるかに陵駕する力が僕にもついてきた。

母が言っていることを空返事で適当に聞き流すことができるようになった。

反抗期ではないつもりだったが、自然と家に帰ることは少なくなった。

友達の家を転々と泊まり歩くことが多くなった。

僕が通った中学校は私立だった。

小学校6年生の夏休みのある日。

突然リビングに呼び出された僕は、僕を呼び出した相手である目の前の改まった母から衝撃の一言をもらった。

「お前をこのまま野放しにしていたら、将来に世の中にとんでもない悪を生み出すことになる」

何のことを言っているのか真意はわからなかったので僕は話半分で苦笑するしかなかった。

「このまま地元の公立の中学に進めば良いことにならない」

何が良くて何が悪いのか、そもそも母が何を言いたいのかが相変わらず僕にはわからなかった。

「だから中学は私立に行きなさい」

いつになく真剣な母は受験に合格したら最新のゲーム機を買ってくれると言い出した。

この当時の中学受験する友人たちはみんな小学校3、4年生の頃から塾に通っていた。

学校の勉強とは別の受験のための勉強をするために。

僕の従兄弟たちもそうやって受験勉強をしていたのを僕は知っていた。

気軽な気持ちで母の提示した計画を引き受け、最新のゲーム機を買ってもらう予定となった。

約半年に渡る勉強期間を経て僕は受験し、そして合格した。

ここでも僕の狡賢さが評価を上げることとなった。

そんな風に受験をして入った中学で様々なやんちゃをした。

先生たちから目をつけられ、学校で行う行為は閉塞感だけを感じるようになった。

学校と勉強――。

こんなにもお互いが密接に関係しているものもあまりないだろう。

そもそも勉強をするための場所が学校なのだから、至極当たり前なことだ。

だけどとにかく僕は学校に対してやる気を失くしていたのだ。

やがて遊びが本業になり、勉強は得意な学科しかできなくなっていた。

それでも得意な学科だけは学年でトップを取り続ける程度の努力はした。

これだけが当時の僕の勉強への矜持だった。

「退屈だから――」

なんて恰好をつけて気取って高校はまた別の学校に行きたいと母に言った。

母は「公立だったら良い」と言ってくれたので僕は少しだけまた受験用の勉強をした。

ところが当時とても仲の良かった友達が「私立の学校に行く」と言い出した。

恥ずかしい話だが友達からその話を聞いて段々と僕も私立の学校に行きたくなった。

「友達が行くから行きたい」なんて本当のことを言うのはバツが悪かった。

適当な理由をいくつか見繕って母を口説いた。

恰好悪いのは嫌なのだが、かえって格好が悪いのが若気の至らぬ点だと思う。

「また私立か……、お金用意しなきゃね」

自分で言うのもなんだが僕はこれでも勉学には自信があったので、受験は何も問題なかった。

勉学に一番必要な素質である「勉強をする」ということが抜けている点は割愛したい。

僕は当たり前のように「がんばるからさ」と軽い気持ちと軽い言葉を口にし、受験をして合格した。

僕は再び「私立」の高校生になった。

新しい学校で「知っている友達がいる」というのはとても心強い。

すぐに俗に言う「悪いグループ」の中心にいた。

悪いと言っても前述の通り、タバコを吸って、ケンカの話をして――。

学生生活の大半はそんな他愛のないものだった。

ところが行った高校は校則の厳しい「私立」だった。

1学期のたった2か月で僕は得意の優等生っぷりを発揮し、学校からはすでに「無期停学」を頂戴していた。

そうして僕は少し早く夏休みに入った。

遊ぶお金欲しさにバイトをして、遊びに行って高校1年生の夏は去年と特に変わりもなかった。

休みが明けて学校に行くと仲の良かった友達が全員いなくなっていた。

この日に僕の「学生」は終わった。

蛇足になるが、後になって学年の事情通に友達がいなくなった理由を聞いた。

悪友たちは僕と同じように無期停学を受けたり、目をつけられて教師から毎日難癖をつけられていた。

これが窮屈になって学校を去っていったそうだ。

登校すればすぐに教員室に呼ばれ、放課後になればまた教員室に呼ばれる。

これが毎日繰り返される。

友達と時間を共有することの大部分を取り上げられる。

これを「学生生活」と呼ぶのにはとても無理があると思う。

反論がある人はぜひ同じ生活を3か月続けていただければご納得頂けると思う。

1学期だけで500人近く居た学年は、僕も含めて30人近くが学校を去って行ったらしい。

1年後には1クラスが潰れたそうだ。

大変お厳しい学校だった。

さすがに異常と感じたのか僕らの1つ下の学年は大変甘かったとのことだった。

話を戻して新学期の最初の日、学校から帰宅した僕は母に学校を辞めたいと話した。

リビングに座っていた母は少し黙って考えて僕に言った。

「あそこの学校はあんたにはちょっと厳しすぎるのかもね。自分の人生なんだから自分で決めなさい」

あれほど先生方の言うことも聞かずに僕が悪いと断定していた母から、予想外の言葉が出てきた。

きっかけは先生様方のおっしゃってたことに多々虚言があったと、母が気づいたことだそうだ。

確かに僕は目に付く学生だったのだろう。

しかしそれでもやって良いことと悪いことの分別はある。

僕の行った学校の先生様方はそれの分別がつかない人たちだった。

だいぶ後になって母はこのことを「あの時にあんたを信じてやれなかったのは悔しいよ」と言っていた。

僕は母に話した次の日に学校を辞めた。

1学期はほとんど学校なんて行ってなかったから持ち帰るような荷物も特になかった。

朝のショートホームルームが始まる前にクラスの人たちとたくさん写真を撮った。

27枚撮りの使い捨てカメラはすぐにいっぱいになってしまった。

ホームルームが終わり、僕は先生に退学届と生徒証を渡して家に帰った。

「受け取れない!おうちの方と連絡を――。」と先生はおっしゃっていた。

だから僕はクラスの全員を証人にして「渡しました」と笑顔で学校を去った。

学校を辞めてからは日々バイトをして、次にやることを考えていた。

11月になってバイト先のお姉さんから公立の夜間学校の話を聞いた。

学校を辞めたところでやることも特になかった僕は教えてもらった学校に通うことにした。

今度は自分のお金で受験費用も入学費用も賄った。

約半年バイトをしながら再度受験生になり、春に僕は晴れて「学生」に戻った。



そして同じ春に母が体調を崩して入院した。

これが母と病いとの長い闘いの始まりだった。



4.教官


母が入院をしても僕は自分のこと――、新しい学校や新しい環境に忙しかった。

さらに病院へのお見舞いなんていつものことだったから、母のことをたいして気にも留めてなかった。

思い返してみても母が何の原因で入院してたのかさえ覚えていないくらいだ。

手元の記録によると「中期のうつ病」。

この1年はいろんな事が変化した年だった。

母は夏に再び脳梗塞で入院した。

この時は軽度だったらしく、身体には大した障害も残らずに1週間ほどで家に戻ってきた。

秋にはくそったれの父方の姓から母と僕と妹弟の苗字が変わった。

いつからか父と母の仲は良くなかったし、子どもである僕から見ても要因は様々だった。

父はずっと家に帰って来なかった。

帰ってくるとしても家に誰もいないような昼の時間に着替えをするためにだけ。

離婚した直接の原因は父の浮気だったが、恐らく原因はそこかしこに転がっていたと思う。

父だけが悪いとも思えないような母だったのだが、それでも僕は父を許していない。

母と結婚してから家に生活費も入れずに「仕事」に逃げる父。

離婚した後は弟に1か月に1回は会うと約束したのにも関わらず、1度も会っていない父。

調停の時に自分の弁護士に「あんた慰謝料はともかく生活費と養育費は払わないといけないだろう」と言われた父。

事業の借金を全て払わずに母に押し付けて逃げた父。

今後父を僕が許すことはない。

僕は母が女々しいのが嫌いだった。

いつものように激情に身を任せながら相手を罵倒している母がいると勝手に思っていた。

ところが母はこの件をひどく落ち込み、毎日のように夜を哭いた。

自分の口から出た言葉や過ごした過去を悔やみ、自分のことを呪っていた。

その時の母に対して僕には出来ることなんてなかったと思う。

だから「振り向くな、泣きながらでも先に行くんだ」と言葉と責任を渡した。

冬に母は3度目となる入院をした。

今でこそ多少耳にするようになったが「パニック障害」という、当時は聞きなれない病気だった。

発作が起きると手足を動かしたりするのが非常に困難になる。

どこか病因となる部位があるわけでもないが本当に苦しそうだった。

手足が痺れ、酷い時には痛みがあったそうだ。

出血など身体の表面に変化が現れることはなく、病院で様々な検査をしても何も見つからなかった。

この1年間で嫌いだった母は心身ともに滅法弱くなった。

その弱った母は僕らの生活を支えなければいけないという責任感は強かった。

入院から帰ってくるたびに「働くこと」を第一に考えていた。

翌年の春を迎え、お金もないのに母は僕に車の免許を取るように勧めてきた。

僕は「お金がないから」と1度は断った。

でも歩けない弟の移動や通学を考えると、持っていた方が良いと思い返した。

何度目かの母の説得に同意して、家の貯蓄を前借して免許を取りに合宿に行かしてもらった。

弟は生まれつき障害があるため自らの力で歩くことは出来ず、小学校から自宅から車で1時間ほど離れた擁護学校に通っていた。

母は毎日仕事の合間に車で送り迎えをしていた。

僕はその負担が少しは軽くなるように。という少しの親切心と、車に乗って友達と遊びに行けるという大きな好奇心を持ち合わせて免許合宿に行った。

夏を迎える前に母が2度目の脳梗塞で入院した。

母が入院した病院は家から程近く、バイト先との中間地点にあったのでよくお見舞いに行った。

お見舞いに行くと必ず僕は母を車椅子に乗せて外に連れ出した。

病院の中に居ると気分が滅入ってしまうと思っていたし、何よりタバコが吸えないから。

2人で病院の外に抜け出して2人でタバコを吸う。

「おごってやるよ」

「いいわよ、あたしがおごってあげるわよ」

たかが120円のジュースの奢り合いをしたのを覚えている。

僕は母の見舞いに行くのは楽しかったのだと思う。

早くに終わらせてしまった学生生活の延長みたいな気がしていたから。

ウォークマンのイヤホンを片方ずつつけて、今の流行りのバンドの話なんかをしていた。

そこでも母は必ずビートルズとジョン・レノンの話をしていた。

病室で聞いていた母のカセットテープはビートルズの曲ばかりが入っていた。

幸いこの時の脳梗塞も重い障害は残らず、リハビリは順調だった。

軽度の歩行難と左手のしびれをお土産にして母は家に戻った。

「やっぱり家が良い」と何度も母は言っていた。

そして嬉しそうに僕に「あたしは左手一本でこの家をもらったのよ」と言っていた。

家の住宅ローンは母が障害を持ったことによって保険が適用され、支払いをしなくて済むようになったのだ。

あとは父が残していった借金だけ払えばよくなったと本当に喜んでいた。

「歩けない弟のために、住む場所を残してあげられる」と。

無事に免許合宿を卒業していた僕は、夏休みのとても暑い日に免許を取った。

その夏、僕は夜間学校の先生と相談して学校を卒業するのを諦めて大検を取ることにした。

夏休みの後半は夜毎に母と出掛け、車の運転を練習した。

教習所と違い、助手席に座っていたのはやたらと悲鳴を上げる教官だった。

僕は野球のボールの投げ方も、高校のときソフトボール部で活躍した母仕込みだった。

綺麗な字の書き方、読書の面白さ、ロックの素晴らしさも全部母仕込み。

僕が幼いころからくそったれ親父は家に寄り付かなかった。

学校から帰ってきた僕の遊び相手は友達と、母の持っていた沢山の本だった。

幸い母の実家が僕の家のすぐ近くにあったので、食べることに困ることはなかった。

典型的な鍵っ子だった。

新学期が始まると僕は教官を乗せて弟を送り迎えした。

学校までの道のりを覚えるまで、僕が教官から合格の印を覚えるまで一緒に送り迎えをした。

教官は僕の運転が日に日に上手くなるので、車の中でビートルズを流しながら居眠りをした。

弟の学校の近くには小さな川沿いに立ち並ぶ桜の並木があった。

「春になると綺麗だから絶対見なさいよ」と教官は教えてくれた。

しばらくして教官はまた具合が悪くなった。

11月に小さな脳梗塞があったことが通院していた病院の検査でわかった。

影響が少なかったこともあり入院はせずに家で療養していた。

教官は11月の僕の誕生日に紫色のしっぽの形をしたふさふさのキーホルダーをくれた。

どこで買ってきたのかもわからないが、苦笑いと感謝の意を表して受け取った。

「誕生日おめでとう、こんなものでごめんね」と教官は言った。

母の誕生日は翌月の12月20日だった。

11月の脳梗塞からまた少し具合が悪くなったというので母は12月の初めに病院に検査に行った。

検査結果が出たのは母の誕生日の日だった。

結果を持ち帰った母は少し暗かった。

聞けば「脳のところに影があるので年始になったらすぐに精密検査をする」という。

母はとても素敵な誕生日プレゼントを病院からもらって帰ってきた。



5.ア メリーメリークリスマス アンド ア ハッピーニューイヤー


12月はアルバイトと友達との遊びに大忙しの師走だった。

母がクリスマスイブに免許の更新に行くから免許センターまで車で送ってくれと言ってきた。

忙しい僕にとっては面倒なことだったが仕方ないと思い引き受けた。

元生徒と元教官の免許センターまでの短いドライブ。

道中交通事故に遭うこともなかったし、センターについてものの数分で母の免許更新も終わった。

母は「私はこんなに老けてない」とセンターで撮った免許の写真にいつものように文句を言っていた。

張り切って時代錯誤の化粧をしていたのを知っていたが優しい僕は口に出さなかった。

帰りに「おごってやる」と誘われファミリーレストランで食事をした。

お金もないのに見え張るなと冗談めかして言うと、元教官は見くびるなと張り切っていた。

僕が注文した1人前を食べ終わると母は「もっと食べなさい」と薦めてきた。

年頃の男の子が食の勧めを断る。というのは格好悪いと思っていた。

なので僕は後から注文したもう1つの料理を平らげ、少し身動きの取りにくくなった身体を休めた。

未来を知るということは人間である以上は誰にでも出来ない。

ある程度の近未来に対して予測は出来るかもしれない。

しかし、この時の僕には予測さえも出来なかった。

若さというのは希望に満ち溢れ、未来が輝いていて素晴らしいものだと思う。

その反面で悲しいものだと思う。

妙齢故、経験少なに予測というものも下手である。

何しろ、今この時の瞬間のことしか上手に考えることが出来ないのだ。

何が言いたいのか――。

この時の僕はこれが母と一緒にする最後の食事だとは知らなかった。

神様も憎いことしてくれると思う、皮肉にもこの日はクリスマスイブだった。

毎年街が華やぐ度に思い出す。

この日以来、僕はクリスマスイブに誰かと食事することをしなくなった。

追悼の意、故人を偲ぶなんて柄ではない。

ただ華やいだ気分になれなくなった。

それを人に気遣われるのも嫌だし、ならば独りで居たいと思うようになった。

元生徒は無事故で運転を終え家に帰った。

家の廊下で突然母が「こっちに来い」と言い出した。

僕は母と10年以上も付き合ってきた。

培われた直感からいつもの悪ふざけだと確信していた。

友達との遊びの約束があったため「急いでいるから、また帰って来たらね」と母に言う。

いつもであれば母は納得がいかない顔をして「可愛げのない」と口を尖らし、悪態をつきながらリビングに向かっていたと思う。

ところがその日だけは様相が違った。

母はいつになく真剣な顔をして「いいから」と少しだけ怒気交じりの強い口調を使った。

少しの疑問と、不思議な雰囲気に飲まれつつ母に近づいていく。

僕の直観と言うものの信頼性を示すように母は予想通り抱きついてきた。

世の中の母達に言いたい――。

子どもに抱きついて喜ぶのは10歳までだ。

僕は面倒臭いなと思い「もう行かなきゃいけないから」と母を振り解こうとした。

母はそんな息子に「今日はありがとう。大好きだよ」と言った。

僕はなんだか照れくさくなって「わかった、わかった」と母の肩を叩き、家を後にした。

母の具合がまた悪くなったと知らせを受け取ったのは翌日のクリスマスの夜に友達の家にいたときだった。

祖母から電話があり、母がまた入院するかもしれないと言われた。

「今から病院に行く、どこにいるんだ?」と所在確認が入り、僕はそれに応答した。

友達の家は僕の家からだいぶ離れていたため「また連絡をする」と祖母からお達しを受ける。

僕は入院することや、母の具合が悪くなることなんていつものことだと高を括っていた。

ほんの数日前の検査で再度精密検査が必要なことは知っていたが、その場で入院はしなかった。

それも僕の理想を崩す一角にはならなかったから。

それが証拠に僕は呑気に友達の家で次のニュースを待っていた。

母が病院から戻り、祖母から最新の情報が入ってきた。

「入院はできなかったんだけど、具合が悪そうだから明日また別の病院に行く」とのことだった。

僕は帰宅を促され同意し、「別の病院に行くなら一緒に行く」と伝えた。

翌日、母を乗せた救急車に僕も一緒に乗った。

親戚の顔の利く病院で見てもらい、担当してくれた医師から驚くべき言葉を頂戴した。

母はすでに病室に運ばれており、そのまま入院することになった。

僕と祖母だけが医師のいる診療室に残った。


「どうして入院させなかったのですか?」

僕は驚きから目を丸くした。

そして別の病院で検査した結果と、年始に精密検査予定だったことを説明する。

医師は丁寧に別の病院で撮った検査の写真のある部位を指差し、それが告げていることを説明してくれた。

「もしかしたら呼吸に異常が出るかもしれません。

ここの病院の設備では呼吸停止の際に対応できないので、

もしものときに搬送する病院を教えておいてください」

僕は医師の言っていたことはよくわからなかった。

いや、わかりたくなかったと言った方が正しいのかもしれない。

あの母に限ってそんな”万が一”になるわけないと信じていた。

何度も脳梗塞を起こしたけれど、あんなに軽かった。

リハビリも上手くいって、まだ若い。

”万が一”を否定する材料を探すのには苦労しなかった。

逆に医師の背を軽くたたいて「心配させんなよ」と、明るく笑顔を見せたかったくらいだった。

入院した母の見舞いには1日ごとに行った。

年末は忙しなく過ぎていき、初めて母のいない我が家の年が明けた。

今まで入院は繰り返していたが、年明けには家にいた。

何度も入院したが母は無事に退院して家に帰ってきた。

病院食はまずかったと少し痩せた身体も、家にいればすぐに元通りになった。

僕の部屋に来て、僕のタバコをかすめ取ってビートルズと大学の話をした。

僕が遊びに行くために外に出ようとすると「放蕩息子め」と悪態をついた。

この年のお正月はそんな母がいなかった。

僕はバイトをしていたので元旦だけはお見舞いに行くことができなかった。

翌日には「あけましておめでとう」を言いにバイトが終った夜に病室に向かった。

親戚の顔が利く病院はバイト先から近く歩いて向かった。

夜だと言うのに初詣の参拝客とすれ違う。

世間は楽しい嬉しいお正月だった。

吐く息は白く、冬の夜に帯となって伸びていく。

街の明かりは澄んだ空気に触れてどこまでも伸びていく。

足音さえも静かに響き伸びていった。

病室に入り、いつものように母を見舞う。

母は少し苦しそうにしていた。

でもやっぱりいつものようにぱっと顔が明るくなった。

僕はその顔を見て、医師が教えてくれたことを否定する材料を1つ増やした。

けれど母の様子がみるみる変わっていった。

寝ているだけなのに肩で呼吸をするようになった。

苦しそうに、そして強く僕に「姉を呼んで」と言った。

僕は叔母に電話を掛けるのと同時に看護士を呼び、母に酸素マスクをつけてもらうようにお願いした。


大部屋なのに誰もいない病室の夜は、僕と母を残して更けていった。



6.ちくしょう


冷たい病院の廊下に足早な音がカンカンと鳴る。

探る様にリズムを刻んでいた音は僕らの病室の前で整えられる。

揃いだした音たちが4カウントで最高潮を始めようとしていた。

ワン、ツー、スリー、フォー……

母は5人兄弟の4番目で姉が2人いた。

1番上の姉は僕が小さい頃に脳腫瘍で亡くなった。

母がこの時に呼んだ姉は、2番目の姉。

2番目の姉である叔母は家の近所に住んでいる。

母とこの叔母はとても仲が良くて、母は叔母が大好きだった。

叔母も癇癪持ちの面倒な妹が大好きだった。

喧嘩することもあったけど2人は小さい頃からずっと一緒だった。

叔母は僕が産まれた時から姉御肌だった。

料理も何一つできずに男勝りで商売人な人。

そして何よりも家族が大事な人だ。

母の子である僕ら兄妹も自分の子どものように面倒を見てくれる。

僕もそんな叔母が大好きだ。

僕の字の書き方や、ロックンロールが母仕込みなら、僕の侠は叔母仕込みだ。

そして僕に前向きな楽天主義を仕込んだ叔母に悲しいシーンなんて似合わない。

母は叔母に言う。

「私はもうだめみたい。姉さん後を頼みます」

叔母は少し強めの口調で返す。

「何言ってんの! あんたはまだまだ若いんだからゆっくり休んで早く良くなりなさいよ」

そんな叔母の激励を母は吸い込みながら続ける。

銀行の通帳や大事な物の保管場所を叔母に伝える。

僕には目の前で起こっている出来事に対して現実味を感じることは出来なかった。

細いボーカルの声は観客のいない病室ではよく聞こえる。

「ごめんなさい。でも自分の体は自分がよくわかるの。私はもうだめ。この子達をお願いします」

母から自分の姉への最後の言葉が贈られた。

次に僕の名前を呼んだ。

「姉さんの言うことよく聞いて、良い子でいてね。弟のことお願いね」と。

「できれば大学に行って欲しいな、ギターは一生続けてね」と続く。

3人のセッションは細くなったボーカルのフェードアウトで幕を閉じようとしていた。

「まるで別れ際の会話だ。まったく面倒な母は僕たちを馬鹿にしている。冗談もいい加減にしろ」と。

僕は積み上げた否定材料を背に母の言葉を半分以上まともに受け取らなかった。

だけどこれが、僕と母が交わした最後の会話だった。

「また明日来るから安心して寝なさい」と叔母が伝える。

僕は母が流した涙を拭いて叔母と2人で病室を後にした。


「大丈夫だよ」

病院からの帰り道は重苦しいというよりは叔母と同じく怒り心頭だった。

僕の口から叔母に向かって出ていた言葉は材料の中から作られていた自信作だった。

叔母は鼻声で僕の自信作に言う。

「何だってこんなことになったんだろう……」

叔母の言葉に返せる言葉もなく、足音だけが夜に響き吸い込まれていく。


夜は優しい。

冬の澄み切った夜空は一層に優しく、悲しさも寂しさも正体も聞かずに平等に吸い込んでくれた。

抱き込むように包み込むように。

だけど僕は吸い込まれた音や何かがどこに行くのは知らない。

知らなくていい。

だから夜は優しい。

叔母と別れ家に帰り、ひとり自分の部屋でタバコに火をつける。

タバコというのは吸い始めのひとくちは軽い。

その代わりに吐き出す肺に入らない煙が目に入った。

煙が鼻をツンと刺激するから涙がこぼれた。

ポツポツと膝を濡らす涙は鬱陶しい。

鬱陶しいからほおっておく。

僕はベッドに横になる。

そうしたら膝を濡らす雫が鬱陶しくならないだろうと思った。

瞼を閉じる。

母の言葉が気になっていたけど疲れからか眠りに入る。

夜は優しく、静寂が興奮に満ちていた旋律を吸い込んでくれた。


翌朝――。

僕がバイト先で開店の支度をしているとマナーモードの携帯電話が震えた。

携帯電話の画面を見て従兄弟からの着信だと知る。

年始の挨拶に加えて余計な冗談を言われるのかと予測することが出来た。

そろそろバイトが始まるのに。と気だるい気分のまま携帯電話を耳に当てる。

――バイト先の人に事情を話す。

バイト先の店長は僕の家の事情を知ってくれていた。

「すぐに行きなさい。今日はいいから」と言ってもらい僕は病院まで走り出した。

口の中は一瞬で乾き、心臓の音が首筋まで鳴っていた。

外は1月の真冬だというのに僕の身体からは汗が吹き出していた。

震えている。

何もかもが震えていた。

声も、手も、身体も、そして世界も。

鮮明には覚えていない。

冬独特のとても清々しい気持ちのいい朝。

広々とした気持ちのいい青空が広がっていたと思う。

肌を突き刺すような北風が、僕をほんの少しだけ冷静にさせてくれた。

僕は走りながら、きっと誰かがついた嘘だろうと考え始めた。

そう思えば思うほど足には力が宿ったし、信じたくないものを受け入れずに済んだ。

「ちくしょう」

僕が持っていた材料は全て無に帰した。

「ちくしょう」

昨日の夜、もっと病室に居たら違ったのか。

「ちくしょう、ちくしょう」と何度も叫び出したかった。


僕の足は病院の階段を全速で駆け上がり、既に集まっていた親戚の輪の中に入った。

やがて母の呼吸が停止していて、意識のない危篤状態であることを把握した。


祖母が泣いている。

叔母も泣いている。

従兄弟も、妹も弟も誰もが泣いている。

自分が泣いていたのかは覚えていない、というのもここがどこの世界なのかわからなかった。

現実味がなかった。

滲んだ両目の視界を何度も拭き、なんとか視界を保つ。

自分の唇に滑り込む塩味が、乱れてる呼吸と共に世界に留まらせてくれていた。

今日は正月の3日目で世の中はとてもめでたい。

神様は僕たちにお年玉をくれた。

それはとてもじゃないけど正月の3日では消化しきれない程のお年玉だった。

母の入院していた病院では心肺停止などの場合の措置が出来ず、措置の出来る病院を探した。

搬送するための救急車はもうとっくに到着していて、制服を着た隊員の方々も準備万端で待っていた。

医師が僕らの前で説明を開始した。

「教えていただいた担当の病院ですが受け入れを拒否されました」

「どこか別の病院に搬送します。どちらがよろしいですか?」

耳を疑った。

あんなに何度も入退院を繰り返していた担当の病院。

母の誕生日には異変のあった医療写真と検査の予約をプレゼントしてくれたはずなのに。

その病院が受け入れを拒否。

兎にも角にも母と一緒に行ったことのある病院を全てリストアップして医師に伝える。

しかし非情にも、どの病院も母を受け入れてくれなかった。

その内に親戚が知り合いの医師に直接電話をしてくれ、話をつけてくれたおかげで母の搬送は開始された。

この時点で母の胸が自発的に上下しなくなってから40分は経っていた。

医師が心臓マッサージを繰り返しながら一緒に救急車に乗ってくれるとのことだった。

僕らはすぐにタクシーを捕まえ、母が向かう病院へと先回りした。

「大丈夫だ」と周りに言うため、自分に言い聞かせるための材料を必死に探した。

だけど何を探っても、何処を探しても、何も見つからない。

病院を出て約30分後には搬送先の病院へと到着した。

すぐに母の救命作業は始まった。

とても長い間待った――。

こんな場合はどんな顔をしていればいいのだろう。

どんな顔をしていたのだろう。

もう2度とないけど、とにかく座っていられなかった。

何時間経ったのだろう。

何も考えられずにただ視界の滲む僕らの前に医師が来た。

医師は「一時的に一命は取り留めました」と報告してくれた。

さらに医師は続けて、母は処置室から集中治療室に移っていて、そこで「逢える」と教えてくれた。

今は準備をしているので待っていてくださいと。

去って行った医師の背を目に僕の中にふつふつと母への怒りが込み上げてきた。

正月のこの忙しい時になんてことをしてくれたんだと。

直接会って文句のひとつでも言ってやらなければ気が済まないと。

僕ら家族しかいない待合室に看護士さんが少し小走り気味に僕らを呼びに来た。

「お待たせしました――」

集中治療室で母の顔を見たときには言葉が出なかった。

あれ程泣いたというのに次から次に涙があふれ、人目も気にせず泣いてしまった。

目の前には喉に穴を開け、そこにつけた人工呼吸器でかろうじて生かされている母。

僕の頭の中にはいつも勝気で、自分が間違っていても「なによ」と逆切れして怒鳴っていた母。

目の前には薬の副作用で顔が目一杯に腫れている母。

僕の頭の中には父と離婚した後、家族4人で幸せになろうと約束した母。

目の前には自分で体を動かすことができず、寝かされている母。

僕の頭の中には僕の部屋で、一緒にタバコ吸って、音楽の話をしている母。


――もうどうしようもなかった。

どう受け止めたらいいのかわからなった。

きっと嘘なんだろうとか。

またお得意の空気の読めない冗談だろうと。

だから僕は言った。

母が聞き漏らさないようにできるだけ大きい声で言った。

それはまるで叫びにも近かったのかもしれない。

今まで待合室で待っていたため長い間声を出すことなかったから調節ができなかったと思う。

僕は病院全体に響き渡るくらいの声で言った。


「冗談じゃねーぞ! 俺たちはこれから幸せになるって約束したんだろ!」

「何やってんだよ! 早く起きろよ! 早く帰るぞ!」


あの時は乱暴な言葉を使ってしまい申し訳なかったと思う。

それから親戚みんなが母に顔を合わせてくれて、また明日来るねと母に伝えて病院を後にした。

僕は着替えとかまた用意して持って来なければと考えていた。

冬だから雨なんか降ってくれやしない。

乾燥しているというのに目の前が曇っていた。

何度も目をこすって前を見ようとしたのだけど、やっぱり曇ってしまった。


この日から僕は母の言葉を聞くことが出来なくなった。

空気の読めない冗談も、感情に任せた怒鳴り声も、耳にタコのビートルズの話も。



7.突発性横断性延髄炎


母の病は名を「突発性横断性延髄炎」と言った。

ろくに学校に行っていない僕にはもちろんわからなかった。

いや、学校に行っていようが行っていまいがあまり関係はなかっただろう。

説明してくれた医師は非常に珍しい病気だと言っていた。

毎年医師の集まる学会があり、その学会では珍しい病気について報告が行われるらしい。

その発表の中で年間発症症例が1人か2人程度に報告される病だそうだ。

この病は高齢者に発症することが多く、発症するとほぼ即死だそうだ。

医師はこの病が発症して患者が生きているのは聞いたことがないと言っていた。

さらに母の場合は心肺停止を1時間近くしていたため、低酸素脳症を併発していた。

脳に酸素が届かずに脳細胞の多くが死滅してしまった。

「突発性横断性延髄炎、および低酸素脳症」

これが母に下された診断だった。

医師は本人がお若いから持ったのでしょう、と説明を続けてくれた。

この珍しい病は進行型の病ではなく、いわば交通事故に遭うようなものだと僕にもわかりやすく説明してくれた。

そして母が退院して家に帰るためには人工呼吸器が外れないと帰れないことを教えてくれた。

だが母から人工呼吸器が外れることはもう2度とないこと、この病院では入院は3か月しか出来ないことも教えてくれる。

医師は僕らに長期療養型の病院を探して欲しいと伝えてくれた。


僕は母の病院には毎日通った。

聞こえているのかわからなかったけど、僕は母とたくさん話をした。

親戚のみんなも暇を見つけては母のお見舞いに来てくれた。

母はもうしゃべることもできず、動くこともできなかった。

寝ているのか、意識があるのかないのかもわからなかった。

自分の力で瞼を閉じることができず、目を保護するためガーゼをつけて、いつも涙を流していた。

口からものを食べることが出来ないから点滴で生きていくための栄養を入れた。

喉に穴が開き人工呼吸器無しでは生きることを維持できなかった。

人工呼吸器がたまに聞き慣れない音を発する度に僕は胸が締め付けられるような思いがした。

こうして僕がゆっくり落ち着いて寝られることはなくなった。

――それでも母は生きている。

非日常が毎日続けば自然とそれが日常になる。

母の怒鳴り声が聞こえなくなることが日常になる。

ビートルズの話を聞かなくなって、病室に彼らの曲が流れるのも日常になる。

僕は病院と妙な縁がある。

僕にとっての日常が誰かを見舞いに病院に通うことなのか、僕にとっての非日常が家でドタバタすることだったのか。

どっちがどっちなのか僕にはわからなかった。

――母の容体が急変してから2か月が過ぎようとしている頃に奇跡は起きた。

母の呼吸機能が戻ってきていると医師に教えてもらった。

人工呼吸器は母の喉に開いた穴から酸素を送っている。

退院するまでに何度か人工呼吸器を外して様子を見る。

母が自分で呼吸をするようになって、家に帰っても喉の穴は塞げない。

唾液を気管に飲み込みかねない、それは窒息を招くことになる。

死んでしまう可能性を持つ患者を退院させることは病院としては出来ないということだった。

ところが母の呼吸機能が戻ったということは、病院を退院して家に帰ることが出来る。

母が家に帰れる――。

この事実が僕ら兄妹や親戚の希望になったのは間違いない真実だ。

母はとてもプライドの高い人だった。

人の世話をするのが好きだったけど自分が世話されるのは嫌いだった。

だから本当は病院に入院してたかったと思う。

反面で家にも居たかったと思うし、家に帰りたかったと思う。

自分の左腕の自由と引き換えに手に入れたと喜んでいた自分の家に。



母が家に帰るためにはたくさん準備が必要だった。

僕らが母の世話をするために必要な介護の技術を看護婦さんに教えてもらうこと。

人間は生きていくための栄養を摂らないといけない。

家では点滴ができないので胃に直接穴をあけて管を通すこと。

介護用のベッドの手配や、ガーゼとおしめと見たこともないような備品の準備。

公的機関からの補助のための役所手続き。

――実はこれが僕には精神的に一番堪えたことだった。

母が寝たきりになり、妹や弟は学生だったので生活の援助をお願いできないかと役所に聞いたこともあった。

答えは非情にも「親戚の誰かを頼りなさい」だった。

親戚には現状も頼り切っているし、これ以上お願いできないと考えたから相談をしたつもりだった。

当時18歳だった僕に家を支えることは難しいと判断し、立派な弱音を吐いたつもりだった。

苦肉にも役所の冷たさから僕のやるべきことは決まった。

家族のために生きようと。

準備のための1ヶ月は忙しく、あっという間に過ぎて春に母が家に帰ってきた。

2時間毎に寝ている母の身体の向きを変える。

叔母、僕、妹の3人で協力して交代に面倒を見る。

叔母は僕の家の近くに住んでいたので協力を買って出てくれた。

ホームヘルパーさんや看護士の方々も母の面倒を見に日々来てくれる。

寝たきりの人を介護するのに一番辛いのは夜と朝だ。

それでも僕らがやらなければ母は死んでしまうので一生懸命やった。

母は僕が話しかけると顔が笑う。

医療的な裏付などなく僕が勝手に思っていたこと。

母が笑ってくれるのが嬉しいから、僕は独り言が多くなった。

「おはよう」から「また明日」の言葉まで僕は世話をする間は母に話しかけた。

僕はいつでも明るく楽しく振る舞うのは得意だった。

――どこの家庭でも家族の想い出をホームビデオで撮ることがあると思う。

家族旅行の場面、子どもの成長記録、そんなものを記録にしていると思う。

僕の家にも当然のようにあった。

8ミリのフィルムを映す映写機がカタカタと音を立てる。

暗くした部屋の白い壁に叔母と母が祖母の家で食事をしているシーンが映し出される。

カメラマンは5歳くらいの小さな僕に視点を移す。

母は相変わらずに意地悪な質問を幼子に投げ掛ける。

「結婚はしないよね?」

幼子は素直に「うん」と返事をする。

「じゃあ、お母さんの老後の面倒を見てくれる?」

「うん」

「おしめを替えないといけないんだよ? できる?」

「うん」

僕は嘘が嫌いだ。

だから母のおしめを替えた、毎日毎日。

僕の毎日は単純だった。

朝には母の世話をして、弟を車で養護学校に送って行っていく。

仕事のため会社に行き昼休憩のときに母の世話のため家に戻る。

母の世話が終わり昼食をすぐに済ませ、また仕事に戻り、夕方に弟を迎えに車に乗り込む。

帰ってきてから母の世話をして夜間学校に行き、寝る前に母の世話をする。

この頃の仕事は事情を知っている親戚の会社で内勤をした。

日課は母を笑わせる独り言を考えること。

日曜日だけは丸一日ヘルパーの方が来てくれていたから出掛けることが出来た。

あまり遠くへは行けなかったけど、この日曜日に友達と遊んだりした。

何度も母の世話のことで叔母や妹と言い合いになったりしたけど、それも日常だった。

不自由だとは思わなかったし、自分が不幸だと思わなかった。

世の中の大部分は不幸で構成されていることは知ることが出来た。

だから不幸に向かってどうやって立ち向かえばいいのかが大事だと知った。

僕にとってはこんな単純な日常。

あっという間に4年の月日が過ぎ、僕は22歳となった。

途中、成人式に最早仕事着となったスーツで参加し、家に帰って寝ている母に晴れ姿を見せた。

いつも昼休憩の時に見ているからあまり特別感はなかっただろうけど。


――7月。がなるように暑い夏が訪れた。



8.覚悟の準備


その年はいつもより蝉の鳴き声が少なかったのを覚えている。

毎日が暑く、40度を超える日が何日も続いていた。

そんな蒸し暑い夏が始まって間もなく、それは突然やってきた。

出来事というものは自分が望まない限り、こちらの都合を気にせずお構いなしにやってくる。

というよりも、出来事側の都合が優先されることが多いのかもしれない。

僕たちは人生の多くを出来事側の都合に合わせて生きているような気もする。

――母の様子がおかしいと思った。

僕が勘違いしていただけなのかもしれないし、その時は仕事が忙しかったから僕が正常ではなかったからなのかもしれない。

僕の中に少しずつ違和感というものが芽生え、そしてそれが始まったことは確かだった。

僕がいつも冗談を言っていたということもあって、意識の無い寝たきりの母は僕が話しかけると顔を歪めて笑うことが多かった。

医学的に母が意思疎通できることは認められていない。

だけど医師や看護士の方々は、母が僕らと意思疎通できているでしょうと僕らの脚本に巻き込まれてくれた。

医療機関の者ではなく、個人的に優しい言葉を沢山いただいた。

ところが母があまり笑わなくなり、目は宙を泳ぎ、焦点が定まらないことが多くなった。

叔母は気のせいだと言っていたが僕には様子が違って見えた。

僕は家族に病院に連れて行くことを提案して、お願いをした。

思い違いであれば僕が間違っていたと謝罪すれば良い。

何かがあってからではあの時のように何もできずに流されることしかできない。

寝たきりだった母を病院に連れて行くのはひと苦労だった。

急病人と断定することはできないので救急車を呼ぶわけにもいかなかった。

訪問看護の方に教えてもらった寝台車サービスを使うことにした。

狭い家の中で母をベッドから担架に乗せて運び、ベッドのついた寝台車に乗せる。

寝台車の中は狭いので僕は一緒に乗ることは出来ない。

母の乗った寝台車を追いかけるように車で病院に向かう。

病院では言葉を口にすることのできない母の代わりに僕が違和感を医師に説明した。

当然のように母は病院でさまざまな検査を受けて、そのまま入院することになった。

僕はまた毎日母のお見舞いに病院に行くようになった。

数日の期間をおいて検査の結果を伝えたいと担当の医師から呼び出しがあった。



どうやら母はまた脳梗塞を起こしていたらしい、そして――。

脳梗塞とは別のことを医師に説明された。

医師は僕に母の脳を輪切りにした写真を見せてくれた。

背景が黒く、ところどころが白くなっている写真。

4年間にも渡る短くない母の闘病生活の中で僕はこの写真を何度か見たことはあった。

医師は続けてこう言った。


「お母さんの脳の年齢は現在推定で100歳を超える方と同じ状態です」

僕という人間は勉強が好きではなかったが、かなり悪知恵の働く人間だった。

頭の回転は悪くない方だった。

だから医師が言葉を選んでいるのがなんとなくわかってしまった。

自分の頭の中で整理整頓して明確に言葉にすることができた。

この時の母の年齢は54歳で母の脳年齢は100歳。

1ヶ月で10歳から20歳分、歳を重ねている。

僕は早々に1つの結論を見出していた。


100歳を超えて生きている人はいるが、150歳を超えて生きている人はいない。

僕と母と家族に「覚悟」が必要になる時期がついにやってきたのだ。

余命――。

こんな言い方をするのも不謹慎かもしれない。

僕は母との日常がずっと続いていくことに安心感を覚えていた。

介護することは簡単ではなかったが、家族全員で協力してやることもできた。

母がいるから家があったし、家族がいた。

けれど、その反面で日常は続いていくのか?という疑問点もあった。

いつか終わりがくるのではないか?

その問いにいつも答えは用意できなかった。

母は家で寝ていて苦しい顔をする時もあった。

痛いのだろう、苦しいのだろう、悔しいのだろう。

母は家で寝ていて安らかな顔をする時もあった。

幸せだったのだろうか。

母が言葉を使うことができたら教えてくれたのか……。

「幸せ」だと。


母は秋の始めに家に戻ってきたのだけど、秋の終わりにまた病院に入院することになった。

母はもう、僕の独り言に笑ってくれなくなった。

自然と僕の独り言は少なくなった。

母のいない家は寂しかった。

家に誰もいないときを見計らって枕元のCDデッキでビートルズを流し、母のベッドに寝てみたことがあった。

ベッドに寝てみるとそこはいろんな薬品の匂いがして、天井が見えた。

母になったつもりで顔を動かさずに視線だけを僕らが座っているソファに向けてみた。

急に涙がぽつり、ぽつりと滴となって溢れてきた。

母になったつもりの僕は涙をぬぐうことはできなかった。

成人式から帰ってきた僕の姿をここから見ていたのだろう。

産まれてすぐに医者に「一生歩けない」と言われた弟が、自分の足で学校に行く姿をここから見ていたのだろう。

妹や弟が学校を卒業してきた姿をここから見ていたのだろう。

僕ら兄妹の些細な喧嘩も、友人の来訪もここから――。

どの場面もどんな言葉を伝えたかったのだろうか。

母になったつもりの僕は本当に悔しかった。

12月になって母の54回目の誕生日を病室で祝った。

モノはあげたりできないから、僕はマッサージをプレゼントしてあげた。

数日後のクリスマスも病室で祝った。

この頃になると毎日寝る前に携帯電話が鳴るのが怖かった。

突然起こる出来事に対処するため、できるだけ眠っておきたかったが3時間ほどで起きてしまう。

僕はずいぶんと燃費のいい体を手に入れたものだと前向きに考えることにしていた。

年が明け、1月も半ばが過ぎた頃。

いつまでも病院に居ても仕方ないから母を家に連れて帰ろうと家族の総意が決まった。

今後、どのような容態の変化があっても自然の成り行きに任せるという総意を僕が代表して医師に伝えた。

医師は「その方が良いと思います」と笑顔で答えてくれた。

僕らはまた母が家に帰るための準備をした。

母は2月に家に帰ってきた。

12月に入院してから約2ヶ月ぶりの家だ。

この頃になると母は反応することが少なかったが、病院から家に着くと深く息を吸い込んだ。

そんな母を見て僕はやっぱり家が1番良いのかなと思った。

――「束の間の休息」という言葉が当てはまると思う。

残酷なことに母はすぐにまた入院することになった。

大好きな家には母は3日程しか居られなかった。

僕は会社を一時的に休んだ。

こんな機会はもう2度とないから、ずっと母と一緒にいようと思った。

母が1人だと寂しいと思うから、妹と交代で母の病室に泊まった。

病室は個室で広い部屋でもない。

窓のすぐ近くで簡易ベッドを広げて寝るので吹き付けられる隙間風が寒かったのを覚えている。

母は4年前とは違って人工呼吸器をつけていなかった。

もうあの音に悩まされることもないのでゆっくり寝られると思っていたのに、全然眠れなかった。

だから僕は静かな病室で母の隣で独り言をつぶやいて夜が更けていくのを母と楽しんだ。

持っていたウォークマンでビートルズの曲を流しながら、母がしてくれたビートルズ談義を持ち出して。

僕らの耳にはいつもエレキギターとベースとドラムの音が鳴り響いていた。

静かな病室には代わりに酸素ボンベのシューという音が響いていた。


冬の澄み渡る空気のような静かな夜が更けていった。

あの時の夜とは違って穏やかに。



9.イマジン


2月26日――。


母の病院に妹が昼から行っているということで、僕は久しぶりに友達と逢っていた。

「今日は行かなくていいよ、あんたも気晴らししてきなさい」という叔母の言葉もあった。

久しぶりに逢う友達は僕の母の事情を知ってくれていた。

かといって長居も出来ないので、友人と2人して喫茶店でタバコふかしてコーヒーを飲みながら会話をする。

友人は母のことをとても心配してくれていた。

2、3時間会話に耽り、友達と別れ家路に着こうとした時に、ふと母のことが気になった。

何の根拠もないし、何のきっかけもない。

正に「ふと」という表現がこの時の現象には説明が合う。

気になるがどうしようもないし、母の顔を見れば何かが変わるかもしれないと仮定して病院へと向かった。

僕はいつも通りに母の病室を訪れると、看護士さん達がバタバタと忙しく出入りしていた。

病室は個室のため母に用事がある以外は出入りがあることはない。

入り口に近づき様子を尋ねた。

病室は広くないので「ちょっと待っていてくださいね」という返答で僕は入り口で待つことにした。

ポケットに入っていた携帯電話を取り出す。

車の運転中だったので着信に気がつかなかったが、何件も家から電話が入っていた。

ちょうど先ほど病院から電話があり、家から僕の携帯電話へ連絡をしたそうだ。

僕は自分がもう既に病院にいることを説明し、覚悟を決めた。

最後の最後まで母と一緒に居ると。

電話を切って病室に戻る。

医師が母の病室に訪れ、今の母の状態を丁寧に教えてくれた。

ほどなくして親戚が到着し、みんなが母に言葉をかけてくれた。

母の兄である叔父は「辛かったな、泣くなよ」と。

従兄弟たちは母の名前を呼んでくれて「長い間お疲れ様」と。

狭い病室には親戚全員が残ることができないので祖母と叔母2人、僕と妹と弟が残ることとなった。

他の人たちは一度帰って母を家で迎えてくれるとのことだった。

それからの時間はまるで何かの物語のように1ページずつ静かに、静かに更けていった。

叔母2人と母はベッドの脇で、姉妹同士の思い出話に華を咲かせていた。

3姉妹の懐かしい話が病室を飾る。

「姉さんが向こうにいるから、あんたは寂しくないね」

「あたし達が行ったときはよろしく頼むよ」

祖母はずっと目を閉じていた。

悲しいことから目を背けるわけでもない。

今になってみればその時の人の気持ちを振り返れる。

だけど自分の子供を見送らなければならない気持ち――、これ以上の悲痛が世の中のどこにあるだろうか。

母が涙らしきものを零す度に祖母は震える手でそれを拭おうとしてくれた。

「この子は可哀想だ」と祖母が口にした言葉は全てだと思う。

妹は母が無口になる前に母と大喧嘩をしたそうだ。

「もうあんたの顔なんて見たくもないよ」と母の残した言葉が耳に残っていると言う。

何故あの時にもっと優しくしてやれなかったのか。

何故あの時にもっと言うことを聞いてやれなかったのか。

何もかも気づくのが遅かったと言う妹だったが、「ならば今こそ優しくしてやりな」と言っておいた。

弟は小さい頃に医者に「歩けない」と言われた。

幼稚園の友達と一緒の小学校に行くことができずに友達と決別した。

彼は9歳の時に父親と決別し、今度は母と決別する。

神様という存在は彼に何を与えたのだろう。

言葉少なに、弟はずっと泣いていた。

僕は彼が萎れないように、飲み物を買ってきては渡してあげた。


母はとても寂しがりで、とても強がりだった。

だから僕はできるだけ母の傍にいた。

もう独り言は言えないけど隣に居れば母が寂しくないと思った。

産まれてくるものはいつか必ず死に、産まれたところに帰っていく。

そうして世の中の摂理が成り立っていると、どこかの誰かが書いた本にあったような気がする。

僕はまだ死んだことがないから、言葉の意味はよくわからない。

でも、そのループのように夜が明けようとしていた。

段々と母の心拍数を捕らえる機械の音が減っていき、

呼吸の度に動く胸の上下は浅くなっていった。


――6時25分。

朝日が昇るまぶしい空に母は帰っていった。

「お疲れ様」と勇ましく母の功績を誇りだと伝え、笑顔で別れを迎えたかった。

充分に覚悟もしていた。


だけど、やっぱり――。


やっぱり僕は泣いた。

声を出して泣いた。

何度も何度も泣いた。


もし母が元気でいたら、家族旅行とかに連れて行ってあげられたのかもしれない。

おいしいものもたくさん食べさせてあげられただろう。

きっと大好きだったロックスター達の来日公演にも一緒に行っただろう。

弟の学校の近くの川べりに、満ちるほどに咲く綺麗なピンク色を教官と一緒に見に行ったのだろう。

僕の結婚式に大泣きして笑っているのだろう。

僕に子供ができたら得意気な顔をして「貸してみなさいよ」と言って、あやすのだろう。

そして奥さんや子供に、いかに僕が悪ガキだったかを語っていると思う。


――早過ぎる。


涙は尽きることなく頬を濡らしていて、僕は半ば放心状態のままに病室の母の荷物を片付け始めた。

やがて家に連れて帰れる車が到着して病院を出た。

暖かかかった母の体温が段々と、段々とその身体から抜けていくが、まだ母は寝ているみたいだった。

病院の駐車場では今までお世話になった医師の方々や看護士さん達がお別れの挨拶を言いに来てくれた。

母と一緒に乗る車が家路を辿る。

一向に涙は止まらなかった。


家に着いて母のベッドに母を寝かせる。

母のベッドなのだから当たり前のことだ。


それから先はあまり覚えていない。

自分の部屋に帰ってから大声で子供のように泣きじゃくったことは覚えているが、断片的にしか覚えていない。

母がいなくなっても、僕の心にはいつでも母はいる。

目を閉じればいつでも母に会える。

青春時代を母の世話に費やしてきたが、最後まで面倒を見ることが出来て僕は本当に幸せだと思う。

だけどあと一つだけ、僕の「孝行」が残っている。

母の骨をイギリスのリバプールにある孤児院のストロベリーフィールズの庭にまいてくることだ。

今は修道施設になっているらしい。

火葬場で母の身体とお別れをするのは最も辛かった。

その後、生前に母が洗礼を受けた教会でお別れ会をした。

教会に来てくれた人たちが母のために祈ってくれた。



『All my loving』by Beatls.


Close your eyes and I'll kiss you

Tomorrow I'll miss you

Remember I'll always be true

目を閉じて、キスをするから

きっと明日もあなたが恋しくなる

私はいつも本気だから忘れないで


And then while I'm away

I'll write home every day

And I'll send all my loving to you

たとえ遠く離れたとしてもいつもあなたに手紙を書くつもりです

全ての愛を込めて


I'll pretend that I'm kissing

The lips I am missing

And hope that my dreams will come true

あなたとのキスを考えるとあなたがもっと恋しくなる

早くそれが本当になるように祈ってる


All my loving I will send to you

All my loving, darling I'll be true

全ての愛をあなたに込めて、あなたを愛しています




ビートルズの曲が、天井の高い荘厳な教会にいつまでも響いていた。

母の好きだったビートルズの中で、母の好きだった曲。


僕は母が大嫌いで大好きだった。

だけど、とびきり母を愛していたし、愛していると思う。

母から教わったことは沢山あった。

綺麗な字、ボールの投げ方、車の運転、ロックンロールとビートルズ――。

そして愛するということ。


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