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オフ・リミッツ  作者: 霜前七七五
第一部
8/28

3-2


     2


 揺唄から連絡があったのは、夕方五時に差し掛かる頃合いだった。読んでいた中原中也に貸し出しカードを挟んだまま、僕は図書館の隅に移動した。正面にある擦りガラスは、一面真っ赤に染まっている。

『今日はほんっと、ありがとね』

「いや。気にすんな。言ったろ。丁度出かけるトコだったんだ」

『ウソばっかり』

「嘘じゃないよ」

 小さく笑声を洩らす揺唄。

『ゆで卵お湯につけたまま、出かけないでしょ』

「……ふぬはっ」

 照れ隠しに変な声を出してみた。そういえば、卵は二つ茹でたんだったな。んで一つ目を食ってるときに電話掛かってきたから……むう。

『お水は結構もらったよ。それからパンも。パン食べたら少し落ち着いたみたいだったし。四人いたから、コップも五個出てて助かったよ。さすがハルちゃんだね』

「おだてたって何も出ないよ」

『ハルちゃんが出たじゃない。家から』

 いまいち理解しがたいセンスだった。

 揺唄の周囲からは《犯罪未遂者》の疑惑がかけられている僕だったが、揺唄自身の対応はこのようにあっけらかんとしたものである。警戒もなく韜晦もなく、以前と同じに接してくれる。割合マイペースな奴なのだ。

 ちらと後ろを振り向く。まだ注意されないが、本来館内で携帯電話はご法度だ。

「じゃあ、もう帰っていいんだよな? 今図書館なんだけど」

『あ、うん』

 揺唄は答えてから、

『その……今日の事情なんだけど』

「僕からは聞かねえよ」

 おずおずと切り出されたその言葉を、僕は押し留めた。思わずべらんめぇな口調になってしまったが。

「家を貸したからって、別に義理立てするつもりはない。言いにくけりゃ言わなくていいし。あんまり僕の手に負えない話だと、話されても困惑するだけだしな。男に言いにくいことだってあるだろ」

『…………』

 あれ。

 なんか白けましたか、揺唄さん?

『なんか微妙に誤解を受けてそうだから、やっぱり話すよ。図書館だったら……チャリで十分くらい?』

「んっと。歩きだから二十分ちょい」

『じゃあ、まあ、説明するから。なんとしても』

「分かったよ……。じゃあ切る」

『ん。ひとまず』

 互いにそんな挨拶をして、僕は携帯電話を切った。

 何をそんなにむきになっているのやら分からなかったが、それは道々考えることにして、僕は図書館を出た。

 道中八割を来てようやくたどり着いた結論は、『男に言いにくいことだってあるだろうし』の部分がまずかった、ということだ。僕としては女同士での会話のことを言ったつもりだったんだが、取り様によっては、その、乱暴されたことを示唆していると見ることも、出来なくはないだろう。白昼堂々、友達連れでいるときに狙われたりはしないのかもしれないけれど、女の子がショックを受ける理由としては、何番目かに挙げられるものではある。僕がそれを想定したのではないかと、揺唄はそう判断したのかもしれなかった。とすれば、揺唄が「なんとしても」とまで言って説明にこだわるのは、友人の名誉のためということか。

「なぁる……」

 思考が完結した満足感を吐き出して、家のドアを開ける。

 と。

「――おかえり。ハルちゃん」

 リビングダイニングの扉を開けて顔を出したのは、揺唄だった。

「ゆり、うた……」

「…………。んん? あれ? なんでびびってるのよ? え、もしかしてあたしがいたのがそんなに驚き? なんで? 留守番任してって言ったじゃん」

「あー……、いや、そんなことない。いや少しびびった。うん。びびったびびった。ちょーびびった。まじびびった。めっちゃびびった」

「アヤシイなぁ……。なんなのよ?」

「いやなんでもないよ。びびっただけ。いやーびびっちゃったなーぼく」

 言い聞かせるようにそう繰り返して、揺唄の小さなスニーカーを避けるようにして自分の靴を脱ぐ。自室に荷物を置いてくる旨を告げて、階段を上る。

 上りながら、はぁと溜め息。

 不覚と言うか精進が足りないというか。

「……言えないよなぁ」

 お前が家族に見えた、なーんてよ。

 僕の住む明馬家において、僕が『おかえり』と言われることはまずあり得ない。それはそうだ。住んでいるのは母子二人で、母が留守がちとあっては、必然、僕が『おかえり』と言われる機会は極々限られたものになる。

 だからかどうかは分からない。

 やや時代錯誤的な考えなことも分かっている。

 けれど僕は――もしも奥さんを迎えるなら、その女性には外へ働きに出ることなく、家にいて欲しいと思うのだ。

『将来はお嫁さんになりたい』程度の……淡い願いだけれど。

 そんなこんなで、こんなそんなだ。

「……ふぅ」

 嘆息して自室を出る。

 階下の居間に戻ると、揺唄は椅子に座って水をあおっていた。襟ぐりや袖の開いた、風通しの良さそうなブラウス。ミニスカート。小さい体で行儀良く座っているので、ちょこんという擬音がよく似合う。

「おかえりー」

「ただいま」

 今度はちゃんと返して、揺唄の向かい側に座る。少し室内を見渡すと、ゴミ箱の中身は増えていたが、これといって汚くなった様子はなかった。

 使っていないコップを尋ねて、水を注ぐ。ポットの中の石がからからと音を立てた。このナンタラという石には、水を浄化する働きがあるらしい。母さんの趣味だ。僕は一口飲んでから、

「しかしお前、僕んちに溶け込んでるよな」

「んー、まあね」と、揺唄は自分のコップに目を落とす。「ハルちゃんには感謝してる。ハルちゃんがいたら、ニッコ、嫌がったかも知んないから。一応『友達の家』としか言ってないし。でもハルちゃん、いいの、こういうの?」

「別にいいよ。お前に限って、預金通帳とか漁ったりするまい。それで漁られたら僕の人を見る眼が甘かったってことさ」

「お人好しだね」

「信頼と言え」

 ひどい言い草だった。

「そ。ならまあ、いっか」

 苦笑ともはにかみともつかぬ微笑を浮かべてから、

「それで……話なんだけど、」と少し言い淀むようにして、それでも揺唄は言った。「最近、この辺りで動物が殺されてるの、知ってる?」

「聞いたことはある」

 これはセンリに聞いた話だったか。なんでも最近、野良犬や野良猫が殺されては、血を抜き取られているんだとか。それも単純な殺し方じゃなくて、四肢を切り取ったり腹を割いたりばらばらにしたりと、手の込んだやり方なのらしい。なんとも胸の悪くなる話だ。

 ともあれ、そこまで言えば先の話は大体分かる。

「つまり、月山さんのペットが殺された、と」

「うん……。ミモザっていう、三毛猫の雌だったんだけどね。何日か前からいなくなってたんだって。最初は心配してなかったらしいんだけど、ニッコが生まれたときにもらってきた子だったから、もうそんなに出歩かなくなってたの。それで今日、暇な人で集まって探したら……」

 揺唄が目を伏せる。瞳がちらちらと震えているのが見えた。

「――ってわけか」

 それ以上言わせたくなくて、僕はそう切り上げた。その先語られる陰惨であろう光景が、揺唄の口を汚すような気がしたからだ。無論汚いのは動物じゃない。

「それは……確かに辛いかもな」

 月山が生まれた頃にもらってきたということは、人生全てのシーンで共に暮らしていたということだ。動物好きに加えてその歴史……いや、むしろ正しくはその歴史に加えて動物好き、の順か。遺骸を発見したのが月山さんだったとするなら、――、無理はないかもしれない。

「……、……? ん?」

 気付けば。

 揺唄が覗き込むような上目遣いでこちらを見ていた。

「――ハルちゃんてさ」

 やけにじれったい言い草で、揺唄は言う。

「感受性豊かだよね。敏感肌って言うか」

「肌は違う」

「でも、割と人の不幸とか気にするタチでしょ?」

「……さあ。どうかな」

 言って、なんとなく揺唄の視線から逃れるためにコップをあおる。ちびちびと。その動作がお気に召さなかったのか、「いいけどさ。ハルちゃんだし」と軽く尖った調子で揺唄は言った。


「んじゃ、あたし、そろそろ帰ろっかな」

 しばらくして、揺唄はそう言った。片付け手伝うよ、と菓子パンの袋を集め始める。

「そっか、頼む」

 僕はコップを三つ持って立つ。

「ゴミどこ?」

「あそこ」

 プラスチック用ゴミ箱を顎で示す。この町は分別に厳しいのだ。カウンターキッチンを迂回して、持っていたコップを流しへ置き、取って返す。同じくコップを持った揺唄とすれ違う。

「流しに入れといて」

「ん」

 僕は手拭きを広げて、軽くテーブルを拭く。畳んで手拭き置きも持って台所へ行こうとして――揺唄がぼーっとしているのに気付いた。流しのなかの、タライ辺りを見下ろして。

「どうした? 顔赤いぞ?」

「うっ? ううん、なんでもないなんでもない!」

「……?」

 よく分からなかった。保留にして台所への歩みを開始すると、

「……なんだよ」

「え、えっ? なにが?」

「なにがじゃない。なんで微妙に身を離す」

 揺唄は壁際に引っ付くようにして僕の道を開けていた。それだけならまだしも、体が緊張している。声も上擦っているし、顔も強張って、かつまだ赤い。視線は定まらず忙しない。

「なんでもないよ、なんでもない。なんでもないからっ。ホンットーになんでもないからっ」

「……。まあいいけどよ」

 なんか釈然としないなぁ。僕が何かしたか? 実は表に出さないだけで、揺唄自身も、僕があのとき何かしたと思ってたとか? んで今更ながらに二人きりという事実に気付いて慄然としたとか? ……だとしたら、気まずいなぁ。僕の釈明はなんら意味を成さないし。

「文句あったら何でも言えよ。お前とは友達でいたいしな」

「へ? あー、うん、そうだよね、あたしもそう思ってた。ハルちゃんとは友達でいたいなーっ。あは、あはは……」

 ……なんだかなぁ。

 心持ち横歩きですれ違う揺唄を横目に見ながら、僕はガラスの手拭き置きをタライに入れる。五つのコップが先に入っていて、そのうち二つが重なっていた。僕は食器をタワーにするという行為が好きで、皿洗いのときなんかはよくやっているので、これにはなんとなく、親しみみたいなものを感じる。色形から察するに、下にあるのが僕が使った奴だ。上は――揺唄のだったか、確か。サイズ的には、これ以外に重ねられる組み合わせはなさそうではある。ふむ。

 と、不意に室内に着信メロディが流れる。洋楽。目を上げると、揺唄がケータイを取り出していた。「メールだ」と言うでもなく言って、返信を始める。

 僕はタライに目を戻す。……ふむ。タライの中身を見る限りは、問題になりそうなものはないのだけれど。

「あー。ハルちゃんハルちゃん」

 ケータイをかちかちやりながら、揺唄が言った。

「もう一個言うこと思い出した。ちょと待って」

 視線はケータイ、指は高速で動いている。にも関わらずこっちに話しかけるって……器用だなぁ。女の子ってみんなこうなんだろうか。

 僕が食卓の椅子にどっかと腰を下ろして一分。

「お待たせ。でね、これなんのやけどー」

 出し抜けに似非関西弁になって、揺唄はケータイの画面を、びしっとこっちに突きつけた。見れば画面はスケジュール帳。五月七日付で《ハルちゃんと『たつべい』。夕方》と書いてある。そういや確かにそんな約束をしたっけ。『たつべい』ってのはラーメン屋の名だろう。

「あたし、こんな約束したっけ?」

 少し屈みこんで来て、揺唄は言った。

 屈みこんでっていうか……。

「……」

 花柄。

 じゃなくてっ。

「……? はっ! ……ほほ~ぉ」

 しかし時既に遅し。揺唄が僕の視線に気付いて、視線の先を追っていた。その先には胸元の開いたブラウスがあり……。

「ハルちゃぁん、どぉこ見てるのかなぁ?」

「…………えっと」

「鉄・拳・制・裁!」

 ぐーで殴られた。

 男の習性を修正された。

 花柄の次はお花畑が見えた。

「い、いいパンチだ……ごふっ」

「次見たら、いくらあたしでも本気でぶっ飛ばすかんね? ……ったくもう、このスケベすけべ助平! オトコノコってなんでみんなそーなのよ。友達でいたいんなら自制心発揮しろっつーの。ていうか、さっきの『友達で~』ってのも、よく考えたら恥ずい台詞よね。言われたときは流しちゃったけど」

「だな……ごめんなさい」

 寒い台詞と偶然に謝る僕だった。悪いことしてないのに。

「それはともかく、こっちに戻る!」揺唄はのけぞっている僕を引き起こし、再度ケータイを突きつける。「あたしって、ハルちゃんとこんな約束したっけ?」

「したっけって……」

 ああ、そうか。これも『僕の胸の傷』に関連してるってことか? ん、いや待て、関係あるのか、これ。あ、いやいや、あるのか。そもそもの話、僕から金を巻き上げたのが戸波さん絡みなのだから、その消費の話も一繋ぎってことか。ふむ。随分と遠縁ではあるけれど。となると――次に考えなくちゃいけないのは、ここをどう切り抜けるか、だな。

 で。

 どう切り抜けよう?

「全っ然心当たりないのよね、これ。編集した時間とか残ってるんだけど、金曜の朝? そのとき何してたかもよく覚えてないし。あとからニッコに聞いたら、すっごく驚かれて。それから『明馬、殺す』って叫んでたけど。コロスは殺さない、とか言って。うふん。それで、どうなの、ハルちゃん?」

「ボケが古い」

「えー?」

「それから――」

 まだ少し迷いがあったが、

「僕もそんなの知らないぞ?」

「えぇ? うそぉ?」

 僕は結局、シラを切ることにした。

「ほんとほんと。僕のケータイにだって、そんな用事入ってないし。見る?」

「ハルちゃんはスケジュール機能使わないでしょーが」

「よくご存知で」

「使ってても真っ白でしょうが」

「暇人なもんで」

「芯を残して茹でるのは?」

「アルデンテ」

「トマトケチャップメーカー」

「デルモンテ?」

「…………。まさか当てるとは」

 顔を引きつらせる揺唄だった。なんだそれ。

「誰かの悪戯って線はないのかよ」

「あたしとハルちゃんをくっつけようとする人? いないいない。そんなことして得する人はいないでしょー」

「いーや分からんぜ? お前と彼氏を遠ざける策戦かもしれない」

「彼氏とかいないし」

「じゃあ、揺唄に片思いしてる奴に妬かせて凶行に走らせる策戦かもな」

「ややこしいなぁ……そんな人いないと思うけど……」

「そんな人ってどっち」

「策戦を実行する人も、妬く人も。ねえハルちゃん、ほんっとに知らないの?」

「本当に知らないよ」

「ほんっとにほんっっとーに知らないの?」

「本当に本当に本当に知らないって。神に誓ってもいいよ。この左手にも誓っても」

「左手に誓われてもなー……」渋い顔をする揺唄。「不履行があったときにハルちゃんの左手貰っても、全然嬉しくないし」

「頼むから紀元前の法典みたいなことを言わないでくれ。恐いから。……第一、お前が覚えていないんなら、僕が『あった』って言ったって信憑性薄いんじゃないか? ここでもし僕が『あった』って言い張ってたとしても、どっちにしろ僕は疑われてただろ」

「そりゃそうかもしれないけど……」揺唄は鹿爪らしく腕を組む。理解はしているが納得行かないという顔だ。

「謎の約束だし、なんならナシってことでいいんだよ。世の中解決できることばかりとは限らない。そのために緋色の研究があるんだから。はい、この話は終わり終わり」

 と多少強引にまとめようとした僕。

「まだ終わんない」

 だが、押し留められてしまった。

「そういうことじゃなくて。あたしが解決したいのは、この約束じゃなくて、この約束がどうしてここにあるのかってことなの。ぶっちゃけ、それが分かれば約束なんてどっちでもいいのよ。ハルちゃんさえ良ければ」

 あ、そ。

「誰かの悪戯って線も、一応攻めてみるけれど……なんか釈然としないなぁ」

 揺唄は腕を組んだまま、う~ん、う~ん、としばらく唸ってから、「まあ、いいか」と一人頷いた。「一応、行くだけ行こう、ハルちゃん。これも何かの縁だし。このラーメン屋美味しいから」

「そうか。なら行くか」

 同じことを言われて誘われたんだが……憶えてない、よな。なんとなく、乾いた笑みになってしまう。

「あ、ただし」

 そんな僕には気付かない様子で、ぽん、と手を打って揺唄は言った。

「会計は、割り勘でね」

「そうだな。――割り勘で」

 僕は頷いた。

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