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帰りのショート・ホームルームが終わった。
まばらに散ってゆくクラスメイトたちが僕に向ける、『女子トイレに入った変態野郎』もしくは『ヤバイ趣味持つ人』という視線が滅茶苦茶痛い。
担任が何か言ったわけではないが、五時間目頭に僕が教務室に呼び出されていたことを知らないクラスメイトはいない。そのくせ、本当の事情を知っているのは口の堅い女子数人だというのだからタチが悪い。男子は嘲笑いに話しかけてきて、それでも言い訳の機会を与えてくれたのだが、女子連中にはそうはいかないのだった。カマドウマでも見るみたいな視線を遠巻きに向けてくる上に、月山さんの蛇睨みが物理的殺意を持って飛んでくるんだから。
ひとまず人が減るのを待ちながらうだーとしていたら、
「災難だったな」
背後から二次関数、もとい、センリの声が飛んできた。
「あー、まったくだよ……」
僕は振り向いて溜め息を漏らす。うむ、自分で聞いても切なげな響きだ。――刹那げ、ね。刹那主義ではないんだがなぁ。
「僕は巻き込まれただけだってのにさぁ、けど言っても信じてくれないだろうし。女子の言い分って強いし。嗚呼、センリ。僕を理解してくれるのはお前しかいないよ」
ここでざっと教室を見渡して、本人がいないことを確認する僕。確か昼間の四人と連れ立って、揺唄をガードしながら帰っていったのだったか。それでも多少声を潜めて、
(ったくよぅ。月山さんの男嫌い、聞いたことあるだろ。あそこまでとは思わなかったよ。あれは何でなのかね? 人の事情を探ろうとは思わないけどさ、向けられる方の身にもなって欲しいよ)
(……、さあな。父親で苦労でもしているんじゃないのか? もしくは飼い猫が行方不明とかな)
肩をすくめるセンリ。
(なのかねぇ。言っちゃ悪いが、それって八つ当たりじゃんかよ)
(さあな。人間そういうこともあるだろう。知らないが)
「ふぅん……よっと」
なんとなく掛け声と共に、僕は立ち上がる。『知らないが』というのはセンリの口癖で、話題に興味を失くしたときなんかのサインなのだ。
父親――ね。
僕なんかは顔も覚えていないからなんとも思わないが、いたらいたでそれなりに苦労もあるってことなんだろうか。
「…………」
しかし、はぁ、今日は精も根も消耗が激しい。明日はゆっくりしているべきだろうか。土曜だし。ピタゴラスイッチのDVDでも見て癒されようかな……あの仕掛け最高だよな……などと平和なことを考え始めたときに、携帯電話が震えた。着信番号には見覚えがなく、名前も出ていなかったが、ワン切りでもない。センリに断って、先生がいないことを確認してから出てみた。
『出るんじゃないわよ』
鼓膜に刺突。
もとい、戸波さんの声だった。
えぇー……。掛けてきたのに。散々鳴らしてたのに。出るんじゃないわよって。
『通知。五月三日の午後、あなたの家に行くわ。家族は誰かいるかしら? ならやめるけど』
「いえ、いません」
唐突……、とは言えないだろう。三姫さんからも予告めいたものがあったし。しかし戸波さん、僕の家の場所を知らないはずだが。
『そう。ついては、明馬春詠。三日の午後一時、校門へ来なさい。わたしを案内して』
「やはりそう来ますか……」
『当然よ。その程度のサービスは期待していいでしょう? ――あなたの知りたかったことを教えてあげるのだから』
「……」
了解ですよ、と僕は答えた。それを出されちゃ――頷かないわけにはいかない。すると、『じゃあ、また明日』と一方的に告げられて、ぶちっと切られた。 着信を電話帳に登録しながら、マイペースな人だよなぁと適当な感想を持つ僕だった。
それを終えてセンリに向き直り、
「じゃ、行くか……って」
きつく眇められているセンリの瞳に出会った。
「……? どうした、センリ?」
「春詠……、今のは――今のが――……っ」
尋問。詰問。まるでそのどちらかを今から始めるかのように厳しく強張ったセンリの表情。しかし――言いさした言葉の全てを自制し飲み込んで、センリは真顔に戻り、「なんでもない」と首を振った。
「おい、ちょっと、待て。今のでなんでもないってことあるかよ。明らかに嘘じゃないか」
「大丈夫だ。ないと言ったらないんだ」
「おいってば。お前のあんな表情なんて、初めて見たぞ。何なんだ? 僕の話が何かやばかったか?」
「いや……そういうわけじゃないが」
「じゃ何なんだよ。気になるな」
「…………」
言いにくそうに顔を背けるセンリ。僕が戸波さんと交わした会話が、どうしてそこまでセンリの琴線に触れる? 分からない。今の数言で、いったい何が引っ掛かった? けれど……黙りこくることを決めたセンリは、すでにオオシャコガイ並みの強靭な貝である。BJ先生でも苦戦したあの貝を開けるすべを、僕は持っていない。
センリとはそれなりに長い付き合いだ。深い付き合いではないが、気心は知れている。対応も、ある程度は心得ている。
「じゃあ、まあいいか」と僕は気楽な風に言った。「聞かないよ、いつも通りにな」
「……、助かる」
としかセンリは応えなかった。それから、ん、と顔を上げ、
「……、ああ。それから。用事を思い出してしまったので、僕は一人で帰る。じゃあな」
「そうか。じゃあな」
センリはカバンを持って、覚束ない足取りで教室を出て行った。
謎ですねぇ、こりゃ。追わないけどさ。
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影を追うような話。雲を掴むような話。曖昧模糊としていて確証がない。信用ならないことこの上ない。
あの胡散臭い紳士。
それでも、来てしまった。
「お待ちしていた」
それでも――現れた。
町の郊外。月明かりに浮かび上がる水田に挟まれた道路に、白い紳士は再び現れた。昨日と同じ時間、同じ場所に、忽然と。まばたきの合間を縫ったかのように。そして自分の白い時計を見て、満足そうに頷いて、含むところなく言う。
「時間を守る人間は好きだ」
「……」
「自らの目的に邁進する人間もね」
少年は何も言わなかった。紳士は首を振って、
「残念ながら、あなたはわたくしを好きではないようだが」
「……他人の情報を売ろうというのに、上機嫌な人間はいない」
唸るように広江千里は言う。知り合いの知り合いとはいえ、人を売ることで自分の利益を買おうとしている自分に引け目を感じていた。そうと分かっていながら実行する自分も重ねて、二重の嫌悪感。紳士の紳士的過ぎる言動が、更に神経を逆撫でしていた。
「あんたの言う《時神刹那》と思しき人物を見つけた。――市立十世高校二年二組、戸波節菜。使っているのはおそらく偽名だろう。知らないが」
「ふむ。それは結構だ」
「ならば――」
「――が」
たった一文字と空気だけで、紳士は千里を止めた。千里の全身から脂汗が滲み出る。不安と不審と、意味不明な感情の壁に阻まれて、言い迫ることができない。
「情報はいただいたが、それがわたくしの探し人であるとは限らない。その戸波節菜という人物が違っていた場合、取り引きは成立しないことになる。よって、わたくしがその人物を特定し、照合するまで、〈耳〉の封印は保留にしていただきたいのだ」
「それは――……」
千里は反駁できなかった。理性的に考えれば、その要求は至極妥当と言える。それに今、この場にある主導権は男が握っているのだ。男に手向かえば自分は千載一遇かもしれない機会を失うことになる。それは――避けたかった。
すでに、飲まれていた。
「…………」
「物分りが良くて助かる」
「……一つ。条件が、ある」
「なにかな?」
首を傾げる男。千里は喘ぐように言う。
「もしそうだったとして――その、今回の人間が戸波節菜、あんたの探し人だったとして――あんたが、いったい何をするかなんてどうでもいいんだ、けど……その人物の周りにいる、明馬春詠という男にだけは、何もしないでくれないか――手を出さないで、くれないか」
自分は何を頼んでいるのだろうか、と千里は思う。見も知らぬ怪しげな男に。信用できるかどうかすら分からないのに。思いながらも、言わずにはいられなかった。この男の得体の知れない目的に春詠が巻き込まれる可能性を、少しでも減らしたかった。
「頼む」
「……ほう」
男は思案げに息をついた。悦の混じった吐息だった。
「了承した。仲間を大切にする人間も、わたくしは好きだ。それは実に共感できる。我々も――そう、我々も、〈仲間〉を大切にしなくてはならない、したがる者たちだからな。これは無駄話になるが……」
男はふいと夜空に視線を上げる。
「人間は元来寂しがり屋なのだと、わたくしなどは考えている。集団生活云々と言うわけではないのだ。ただ、人間は進歩し過ぎてしまったがゆえに、自分を理解してくれる人間を捜し求める傾向にあるのではないか、とね。獣のままならば単純な協力関係、敵対関係で済んだものを、より高次に昇った人類はそれ以上を求めるようになってしまった。協力ではなく理解を。それが不可能ならば屈服を。屈服が叶わねば滅ぼし尽くすことを。……愚かなものだよ。人は本来、願いを叶える力を備えているというのに」
「……聞きたくない、あんたの高説など」
「そうだな。これは失敬」苦笑を浮かべて、男は帽子の鍔に手を掛け、引き下げた。「お詫びというわけではないが、信頼の証に」
「……っ。あんたは……」
千里はぴくりと頬を引きつらせる。〈耳〉が捕らえる〈声〉が、男の言葉と共に半分に減ったのだ。
「あんたは……何者なんだ。何故こんなことができる。〈志術〉とはなんだ。〈媒介師団〉とはいったいなんなんだ」
「わたくしの専門は《封印》である。〈志術〉とは志を叶える力。〈媒介師団〉は必要悪。それ以外は申し訳ないが、言えない。我々も秘匿を旨とする者ゆえに」
鍔を引き下げたままで、紳士は言う。
「では、またお会いしよう」
「待っ……!」
千里の叫びが届く前に、男の姿は掻き消えた。何かのスイッチを切ったように、あっさりと、跡形もなく。
「――っ、くそ……」
伸ばしかけた手を脱力させて、千里は毒づいた。
消えた紳士は呟く。
「見つけましたよ。妹君」
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