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オフ・リミッツ  作者: 霜前七七五
第一部
5/28

2-2

(章分けと分割投稿の練習になっている模様)

     2


 りりりりりりりりりりりりりりり――。

 目が覚めたらベッドの上だった。

「…………」

 部屋の天井が目に入る。上体を起こすと本棚が目に入る。目覚ましがけたたましく鳴り響く今の時間は朝六時のはずだ。朝陽がカーテンから差し込んで、室内を薄く照らしている。

 夢オチ、か?

 絆創膏に触れる。

 ……ない。

 と思ったら、剥げて布団の隅に落ちていて、シーツに血がついていた。

 …………。

「古かったからな……」

 半分寝たままの頭で制服を持って、自室を出て階下へ降りる。すでに体に習慣付いているこれらの動きは寝てても出来る。母さんの弁当のメニューを考えるのも半分起きてりゃ出来るってもんだ。さーて、女性の変死体でも起こしにいきますか。あれがどう化けたら、債権者人気抜群の凄腕証券ウーマンになるのかね。


 登校するのも知り合いに挨拶するのも、半分起きてりゃできる。それに幸い僕には、一緒に登下校するような知り合いも幼馴染みもいないのだ。そんなこんなで半分寝たまま歩いていた僕だったが、学校前の橋が見えてきたという段になって、厄介な奴に出会ってしまった。

「おはよー、ハルちゃーん」

 側方からきんきん声。

 ……あー。耳から入って頭が痛い。

 朝から元気な揺唄は、寝起きの悪い僕にとってはやや難敵である。ということで僕が聞こえなかったフリを決め込もうとすると、揺唄はご丁寧に傍まで寄ってきて、

「お・は・よー、ハ・ル・ちゃ・ん」

 わざわざ下から覗きこむ形で挨拶してくれやがった。観念するしかない。

「おはよ」

「うわ。ハルちゃんが冷たい。今のハルちゃんと掛けて死人と解く感じ」

「そのココロは」

「どちらも冷たくて不健康」

 こいつのは毎回上手いのか下手なのか判らん。

「別に僕は元から冷たくも温かくもねえよ。体温で言うなら低めらしいぜ。暖めてもらいたいならお天道様に頼め」

 上を指差して溜め息をつく僕。それを見て、うわー黒馬モードだーなんて声を出す揺唄。放っといてくれって感じだ。特に朝は。

「前にも言っただろ。僕ぁ朝は弱いんだ。メートル下げろ」

「そうだっけ? そうだっけ。心なし命令口調混じってるし。口調乱れてるし。でも、ここまで弱いっけ?」

「そういや……お前と登校中に話したことって、なかったよな」

「ん。そうだっけ? そうかな」

「いやそうだろ。いつも何人かに囲まれて学校来てただろ。今日はそいつらどうした」

「ちょっとハルちゃんに話があったんだよ」

 僕が辺りを見回そうとする前に、揺唄は言った。

 話? と聞き返す僕に、何故か多少上目遣いで揺唄は答える。

「ラーメン、どうかな?」

「二単語疑問形で言われても判らん」

「だからー」やや拗ねた風に言う揺唄。「ラーメン食べに行かない? ってことよ。美味しいお店知ってるんだけど、連れてってあげようかなって」

「……。なんで?」

 ここで揺唄は、恥ずかしそうに目を伏せ、「あのね……」などとしおらしく切り出した。なんだか今日は表情豊かだな、お前。

「こないだハルちゃんから千円巻き上げちゃったでしょ? けど、別に大した労働してないし、なんか悪いなーと思ってさ。だから、千円は返さないけど、いいラーメン屋教えるってことで。どお?」

 ああ。成程。

 僕は揺唄の顔をじっと見る。

「お前……意外にいい奴だな」

「意外にって、別にそんなぁ」

 べし、と僕の肩を叩きながら、まんざらでもない様子で頬を染める揺唄。なんか面白い。顔が赤くて面赤い……とは言わないか。しかし、本当に今日は表情豊かな揺唄だ。なんか良いことでもあったのだろうか。それとも何か、あれか、悪い日なんだろうか。

 ……。

「お前は本当良い奴だなぁ」

 もう一押しいじめてみることにした。

「巻き上げたことを懺悔して、逆にラーメン奢ってくれるなんて」

「ううん。割り勘」

 にっこり撃沈された。

「そこはちょっと譲れないなぁ。それとこれとは別ってことで。ごめんね」

「へぇ……」

 ちょっと感心。

「ん? どうしたの?」

「随分きっぱり断ったなーと思って」

「なーんだ、そんなこと。まあ、その辺はちゃんと自己主張しないと駄目だと思ってるからね。あんまり押しに弱いのも考え物だし?」

 含み笑いと共に、アグレッシブなコメントを返す揺唄だった。ま、学校の成績はともかくとしても、五付揺唄、頭の回転は割と良いのである。しかし、こうでなくては友達百人は出来ないのかもしれないが。

「ふむ。女傑だな」

「ニョケツってなに?」

「……。女性のお尻のこと」

「朝イチからソレ?」

「豆知識だ」

「ウッソだぁ」

「ホントだよ」

「ぜぇったいウ・ソ」

「ホントだって」

 なんか引けなくなった。

「ニョケツっていうのは、《女性のお尻》って言う意味の雅語だよ。雅語っていうのは俳句とか短歌に使われる上品な言葉で、まあ揺唄が知らないのも無理ないと思うけどな。ちなみに《男性のお尻》って意味の単語はゴウケツって言うんだよ。凄いだろ」

「ハルちゃん……朝からそんな戯言を力説しないでよ。周りの視線が痛いから」

 はっ……!

 言われて見れば、なんか周囲の十世高生がこちらを窺ってひそひそ話をしていた。

「嘘一個に悪ノリし過ぎ!」

 結構大声で言う揺唄だった。そのデシベルには、周囲の人間への〈これはジョークですよ〉的なアピールもあったのかもしれない。が、そこまで勘繰るのは考えすぎかもしれない。それが自然に出来るのが揺唄という女子だ。

「…………すまん、揺唄」

「分かればよろしい。頭下げて」

 ん、僕は頭を下げ、揺唄が背伸びして軽く叩く。甘んじて受けるしかなかった。

「じゃあ話戻すけど、いつ空いてる? ラーメン」

「そうだな……」

 僕は考えこむ。四月いっぱいは出来れば避けたい。母さんの仕事が忙しいので、家事全般を僕がこなすことになっている。かといって、母さんがいつもは家事をしているかと言えば、そんなことはないのだけれど。

「じゃあ五月のー、七日でいいかな?」

「いいんじゃないか」

 僕は同意して、揺唄は嬉々として携帯電話のスケジュール帳を開く。……あ、そうだ。揺唄に用事を思い出した。

「お前、今日の昼空いてる?」

「うん。なに?」

「ちょっと付き合ってくれ」

「ん。別にいいよ。じゃあセーブツのあとにね」

 揺唄は前を見ずに言うのだった。


 四時間目、生物。

 睡魔との全面戦争において劣勢に立たされていた僕は、生物室の机にごく自然にへばりついていた。

 目線の高さにいるヤモリが、何か珍しいものでも見るような顔で笑った……気がしないでもない。今はクリスマスではないが。

 北校舎一階の生物室には、巨大な木製の机と巨大な水槽が並んでいる。

 水槽の中には無論、生物がいる。近辺の自然環境に生息している奴らだ。科学部の精力的な活動により集められてきたものである。水槽ごとに、和名、通称、学名、写真が貼り付けられていて、それらを見ているだけでプチ水族館気分になれるという、お得っぽい施設である。

 ちなみに、僕のお気に入りはフナとヒトデだ。フナはあの間抜けな表情に癒されるし、ヒトデは繊毛の気持ち悪さが逆に面白い。と言いながら、今はヤモリに勝手に親近感を抱いている僕である。だって爬虫類可愛いじゃん。

 揺唄が友達連中の輪を辞して、ノートと筆箱を持ってこちらへ来るのが見える。

「で、ハルちゃん。どこ行くって?」

「ん……、戸波さんって人のトコだ……」

「戸波さん? 二年二組? なんで?」

「やぼよー」

「《野暮用》ね」

「死んだあとの話をするんだ」

「そりゃ《あのよ~》でしょ」

 知らないと思ってたのでちょっと吃驚。

「あたしにコントさせないでよ。なぁによ、まだ眠いの?」

「眠くない」

 などと答えて欠伸をするのだから、僕もなかなか素直じゃない。

 昨夜のてけてけ後――。事情説明を詰め寄った僕に、戸波さんと三姫さんは言った。

『これから? 莫迦言わないで。夜の学校で長話なんてしたくないわ』

『あたしも右に同じー。明日のお昼に、揺唄ちゃんも連れてきてね~』

 あとに残ったのは、左腕に切り傷のある男子生徒つまり僕だけでしたとさ、というわけだ。何故揺唄が必要なのかは分からないが。

 さて。二年の教室は全て二階にあるので、北校舎一階にあるこの教室からは渡り廊下を行って、階段を一階ぶん上らなくてはならない。

「……そいえばさー。ハルちゃん、なんであの人にこだわってるの?」

 教室を出たところで、揺唄が言った。

「胸に怪我させられたってのはまあ、信じてるんだけど、でも、あの人じゃなかったんでしょ?」

 予想より遥かに遅いタイミングでの質問だった。ていうかもう聞かれないのかとすら思っていた。だが、事情を話して本当に良いものかどうか。悩む、というよりは、迷う。

 さてどうする?

 1、ぼかす。なんとなくだよ。

 2、偽白状する。実は一目惚れした。

 3、ボケる。それは聞かない約束でしょ☆

 4、言える範囲で事情を説明。

 とりあえず3を選んでみた。

「男の子が星とか飛ばさないでよ……」

 極寒の目で見られた。そういえばこいつは山下より福山派だったな。その辺で話が合った覚えがある。土曜夜は起きているのが大変だと意気投合したものだ。

 とすると……次か。どうする。

「もしかして」

 すると、呟くような音量で、揺唄が言った。

「戸波節菜さんのこと、好きだったり、する?」

「…………」

 その問いに、僕は――

「なんだよ。どうしたんだ揺唄? お前今日、なんか変だぞ」

「へん?」

「ああ。朝絡んできたり、メシ食いに誘ったり、今だって僕を問い詰めようとしたりな。そんなに戸波さんと僕をくっつけたいのか? そうなるんなら、僕とてやぶさかじゃないけどさ。あの人、結構綺麗だし。なんだか解らんけど、今朝呼ばれただけだよ。お前と一緒にってな」

 ――僕は、第五の選択肢を選んでしまった。

 話題のすり替え、つまりは八つ当たり。

 言いながらも自己嫌悪している僕がいる。なんで逆に揺唄を責めなくちゃいけないのか、と。そうは思いつつも、やはり疑問は疑問として口から出て行って、止めるのもやはり今更な気がした。

 揺唄は目を明後日へ向けて、

「べつに……怒らなくてもいいじゃん」

 憎々しげに――苦々しげに呟いた。

 僕も謝るべき、なのだろうか。胸の片隅がそう思う。けれど、そこまで酷いことを言ったわけでも、ないはずだ。事実を言ったまでなんだから。

 微妙な雰囲気のまま、二年二組の前に来た。

「…………」

 どうでもいいけど、上級生が周りにいるとびびるのは僕だけか。やはりヘタレか。

 丁度教室を出てきた眼鏡を掛けた女子生徒に「戸波節菜さんっていますか?」と揺唄が尋ね、その人が教室内にいた戸波さんを呼んでくれる。『巴』と呼んだので、この人は女子野球部なんだろうという推測が立った。友人方と談笑していた戸波さんはこちらを向き、僕の姿を見留めて瞳を――『来やがった』といった風に僕には見えた――細めてから、友人方に何か述べて、購買のパンを片手に持ちながら席を辞して来た。

 この間、僕は壁に寄りかかってぼーっと見ていた。やはりヘタレだ。

「じゃ、あたしはこれで」

「ありがとうございました」

 揺唄と僕のお礼に、眼鏡さんは軽く手を上げて去っていった。

 入れ替わりに出てきた戸波さんは、

「こんにちは。五付さん、明馬くん。わたしから訪ねようと思っていたのだけれど、来てくれてありがとう」

 ――笑顔だった。

 それはもう笑顔だった。

 戦慄するくらい笑顔だった。

 人当たりの良すぎる笑顔だった。

 五回は繰り返したいくらい笑顔だった。

「今三姫さんを呼ぶから、少し待っててね」と言われ、僕と揺唄は直立不動で頷く。

「前の授業どこでやったかしら?」と聞かれ、僕と揺唄は同時に生物室ですと答える。

 戸波さんが教室内へ引っ込んだあとに、僕と揺唄は顔を見合わせた。そして、

「あれ……笑顔だったよね」

「ああ……笑顔だったよな」

 どちらからともなく呟く。

 あんなに恐怖を掻き立てられる笑顔がこの世にあったのか……。絶対何か変なオーラ出てたぞ。


 菓子パンを食べ終えた戸波さんは携帯電話を取り出して(多分三姫さんと)二言三言話し、すぐに教室を出てきて、言った。

「生物室に行きましょう」

 ――ということで、舞台は生物室に戻る。

 到着した僕たちを迎えたのは、

「やあやあこんにちは。節菜に春詠くんに揺唄ちゃん」

 机に腰掛けた、岡佐倉三姫さんだった。

 授業後そのまま来たらしく、筆箱と教科書、ノートらしきものが傍に置かれている。

 すたすたと入っていく戸波さんはおそらく目礼したのだろう。僕も「どうも」と会釈。揺唄は一度首を傾げてから、「初めまして」と言った。初対面らしい。

 ――さて。

「それで今日は――」

「待ちなさい。その前に」

 切り出した僕を、戸波さんが止めた。ちょっとずっこける僕。

「三姫さん。お願い」

「はいはい。ちょっと。揺唄ちゃん、こっち来て」

 戸波さんの頼みを受けて、三姫さんがちょいちょいと指を動かす。

「はい?」

 言われた通りにする揺唄。

「この椅子に座って」

 言われた通りにする揺唄。

「目を閉じて」

「な、何するんですか?」

「いーから目を閉じて」

 言われた通りにする揺唄。

 若干不安そうだが、明確な理由なく上級生に逆らうほどの反骨心はないと見える。

「――明馬春詠」小声で呼んだのは戸波さんだった。「五付が目覚めたら、こう言いなさい。『なに居眠りしてるんだよ、みんなとっくに教室行ったぞ』、いいわね?」

「え、なんで――」

「言いなさい」

 戸波さんの爪が首に当てられ、ちくりと痛みが走った。戸波さんが指を離すと――爪の先に赤。マジかよ。本気ですか。

 三姫さんが何かを呟くのが聞こえて、そちらを見る。すると、三姫さんがお札のようなものを揺唄の頭に当てていた。

「我の命じる記憶を閉じよ、無効三限牢と成り、以下に命じる条件を封ず。《明馬春詠の胸の傷》。――四音令、『記憶篭絡』」

 僕の胸の傷? 全く意味が分からない。が……、それが終わった途端、お札からかすかな光が揺唄の頭に垂れて――消えた。

「おっとっと」

 くたっとなった揺唄の体を三姫さんが抱きとめ、机に寄りかからせる。

「……何をしたんですか。揺唄に」

「そう恐い声出さないでよ。すぐに説明するから」

 三姫さんは右手のお札っぽい紙を、丁寧に折って、ポケットにしまう。

「う、ぅ……」

 ほぼ同時に、揺唄が小さく唸った。身を起こし、眠そうに目をこする。

「おい、揺唄? 大丈夫か?」

「え……ハルちゃん? なんであたし、ここに……?」

 眠そうに答える揺唄。

 横からの圧力を感じてちらと見遣ると、戸波さんが僕を睥睨していた。ええい、ままよ。

「なに居眠りしてるんだよ、みんなとっくに教室行ったぞ」

「え……え? うそ?」

「本当よ」横から割り込んできたのは、戸波さんだった。とんでもなく優しげな声で、「さっきの授業、生物だったんでしょう、一年生さん? 知り合いかと思って、購買にいたこの彼に話しかけてみたんだけど。どうやらビンゴだったみたいね」

「あー。それはそれは」

 申し訳なさそうに立ち上がって、「ありがとうございました」とぺこりと頭を下げる揺唄だった。

「ハルちゃんも、ありがと」

「お、おお……どういたしましてだ」

「うん、じゃあね」

 そう言って、揺唄はてとてとと小走りで生物室を出て行った。

「上手くいったようね」

「当然じゃない」

 と揺唄を見送る二人。

 僕は当惑しつつ、首の傷を確かめるために指を当てる。しかし、痛くない。指を放して見ると、そこについていたのは――これはおそらく――口紅!

「ようやく気付いた? 化粧はしないんだけど、持っててみるものね」

 僕が気付いたことに気付いたか、戸波さんが言った。

 首を軽く振る。

 もう、なんか、事情が飲み込めません。

「んふふ。今のはね、『明馬春詠の胸の傷』に関する揺唄ちゃんの記憶を封印したの。つまり彼女は、あたしと節菜のことも、ここに来た理由も覚えてないってこと。その時に春詠くんが協力してくれなきゃ、画竜点睛を欠くでしょ?」

 三姫さんは、魔女のように魅力的な笑みを浮かべて、言った。

「君の左手に宿っているチカラと同じものだよ」


「――ようやく、聞かせてもらえるんですか? このチカラの正体」

 努めて、冷静に。

 左手を持ち上げて、僕は言う。しかし、

「勘違いしないで頂戴」

 と、戸波さんが言った。

「あなたに聞かせるわけじゃない。あなたから聞きたいのよ。どうしてあなたがそのチカラを持っているのか」

 なる。

 主導権はそちらにあり、だな。

「――取引しましょう」

 僕は言う。

「情報交換でどうですか? 僕はこのチカラが身についた心当たりを教えます。代わりにあなた方も、僕に教えて下さい。このチカラの正体を」

「勘違いするなと言ったはずよ」語尾を強める戸波さん。「力関係を見極めることね。わたし達に痛みも痒みもない取引に何の意味があるのかしら。あなたが自分の情報を開示してからわたし達に情報を請うというならともかく、それではまったくのちぐはぐだわ。いいからさっさと教えなさい。なんなら日を改めても――」

「意地の問題なんです、これは」

 遮って、僕は言った。戸波さんの険がさらに濃くなるが頓着しない。

「そうです、確かに僕に有利な要素は一つもありません。あなたにしてみれば、子供のわがままみたいな言い分でしょうね。実際、そうです。僕だって、このまま自分が知っていることを全部話して、あなたの優位に委ねる方が、利口な方法だと思っています。……けど、それって、言いなりって、なんか弱いじゃないですか」

「うるさい」

 ぐ、と喉が押されて、小さな痛みが感じられた。戸波さんがかんざしを抜いて、歩いてきて、それを突きつけたのだ。そして彼女は空いている左手の指をかんざしの先端に触れてから、僕の眼前に掲げる。

 赤。

 今度は口紅じゃないだろう。

「節菜、それはちょっとやりすぎ……」

「三姫さんは黙ってて。身のほど知らずには教え込まなければいけないの。――明馬春詠。あなたこれ以上言うと刺すわよ。いいからとっとと教えなさい」

「ですから」

 ここで僕を殺したら戸波さんにはとんでもない不利条件だろうか、いや案外どうにか隠蔽するかもな、などと考えながら、僕は反駁する。

「ですから、僕の意志の表現として、《言いなり》になるのは避けたいんです。偉い人に任せたまま放っておく、どうせ結果が同じだからって何もしない、それは出来れば嫌なんですよ」

 我ながら面倒な物言いだとは思う。自分でもちゃちな我意だとは思う。

 けれど――引けない。

「情報交換が一方向でも、双方向でも、少なくとも僕が失うものはありません、得るものがあるかないかですから。そして僕はその得るものを、とても重視しています。だから少なくとも――このメッセージ、伝わっていますか? 理解してもらえたでしょうかね?」

 一呼吸置いて、

「――殺すと脅されたぐらいじゃ僕は手を引いたりしませんよ、と」

 僕は言う。

 戸波さんは、何故か深く俯いていた。僕の台詞の中盤頃から。ほどけた髪が肩から流れ落ち、顔は隠れて、見えない。

「ま……子供のわがままと言うよりは、座り込みに近い主張の仕方だと、自分では思ってるんですけどね。でもやらないよりは、はるかに――」

「――やめなさいッ!」

 三姫さんの制止。

 僕は言葉を止めた。

 けれど僕の言葉が止まったのはそれが理由ではなかったし――三姫さんはそもそも僕を止めたのではなかった。

 かんざしが。

 血色が付着した唐紅のかんざしが――僕の左視界を塞いでいた。

 持ち方は逆手。斜めの角度からかんざしを振りかぶって、眼球目掛けて振り下ろしたら丁度そうなるというような形。距離が近すぎてぼやけている先端部分が、残り数ミリで角膜を貫き通せるような位置。

 反応どころか――何も見えなかった。

 そしてそれ以上に、見たくなかった。

 戸波さんの表情を。

 激痛をこらえるように歯を食いしばり、凄まじい睨眼を僕に向けているその表情が――あまりにも、痛々しくて。それは僕に向けた憎悪じゃないことが、なんとなく理解できて。その表情に恐怖を覚えることはあっても、威圧感というものが全くないのだ。いつもの戸波さんが発しているような重々しく、場合によっては刺々しい気配が、微塵も感じられない。洗練された重圧とは似ても似つかない。だからおそらく、この憎悪はきっと――

 全部が全部、自分に向いているんじゃないかと思った。

「抑えなさい節菜」

 溜め息交じりに、三姫さん。

「やりすぎ。別にあなたのことを言ったわけじゃない。だから、それを納めて、抑えなさい」

「……」

 戸波さんはかんざしを振り下ろした。

 一歩、引いてから。

 睨む視線を床に落とし、一度きつく閉じてから、荒く抑えた息を二・三度吐く。こくん、と唾を飲み込んで、ひゅんひゅんひゅんと風切り音を立ててかんざしで髪をまとめると、

「どいて」

「え……」

「どいてって言ってる……!」

 呟くが早いか、戸波さんは僕を突き飛ばして生物室を出て行った。僕は――尻餅をついて、立ち上がることもせず、ひるがえったスカートの残像を見留めたまま、自分の聞こえた声を確認していた。

 涙声だった。

 あの――戸波さんが。

「大丈夫?」

 気付けば、三姫さんが傍にしゃがみこんでいた。

「あ。だ、だっ、だいじょぶです」

「そう。でもすこーしじっとしててね」

 そして気恥ずかしいことに、ハンカチで喉の血を拭いてくれていた。自分でやれよと言う話なのだが、今更拒否できるわけもない。というか考えてみれば、僕は基本的生活習慣がなってないのでハンカチもティッシュも持っていなかった。

「追わなくて……いいんですか」

 手持ち無沙汰になった人間の常として、僕は口を動かす。

「うん、いいの。あの子は強いからね、基本的に。人に弱みを見せるのを嫌うのよ」

「泣いてました……よね」

「そうだね。流してはいなかったと思うけど。だからなおさら追えない。多分追っかけて行っても逃げるだろうね。下手すると迎撃されるかも。っはは」

 軽く笑う三姫さんだった。どこから取り出したのか、絆創膏をぺたりと張って、「よし、完了」と腰を上げる。スカートの裾が目線に来て、僕も慌てて立ち上がった。絆創膏は、これで左腕に次いで二枚目だ。

「ごめんねぇ」

 別に彼女は悪くないだろうに、三姫さんは謝った。

「詳しいことは個人のプライバシーだから話さないけど……、っていうかあたしも、詳しくは知らないんだけれどね。節菜も今、『偉い人に任せたまま放って』おいてある、『どうせ結果が同じだからって』何もしていない事柄があるのよ。まあ、そっちの場合は、節菜にとってとっっっても、大事な人に関わることだから、同じに並べては言えないんだけどね。失うものがあるってこと」

「……」

「でも……ね、あの子って、態度によらず責任感強いからねぇ」苦笑する三姫さん。「そのせいで、ああいう言葉には反応しちゃうのよ。その上、案外脆くて、崩れやすい。だからこうして不意を打たれると、こんなこともあるってわけ。あれが本来の節菜じゃないけれど、あれもまた節菜ではある。要するに堅物なのね」

「無神経なこと言いましたね……僕」

「きみが気にしても仕方ないよ、知らなかったんだし」

 けれど……ね。

「『殺すと脅されたぐらいじゃ僕は手を引いたりしませんよ』なんて、いくらなんでもカッコつけすぎでしたよ」

 自嘲的に響くのを自覚しながら、僕は膝を叩く。拳で。情けない根性を。叩き直す。

「だって、震えてたんですよ、膝? あんな生意気なこと言いながら、そのくせビビりまくってたんですからね。本当、ヘタレったらありませんよ」

「そんなことないと思うけどねぇ。普通の人は、足どころか喉まで竦むはずだもの。節菜に睨み効かされたら。なんだかんだ言っても、根性あると思うよ、きみは。節菜だって、それに気付かないはずないんだから。――ま、とにもかくにも」

 ぽんぽん、と肩を叩かれる。

「きみが知りたがってることについては、近く節菜が話してくれると思うよ。今回ので節菜の眼鏡にも適ったと思うし、何より、あの子のプライドがそうさせると思う。今回はきみの勝ちってこと」

「……後味の悪い勝ち方です。女の子泣かすなんて。母さんに知れたらただじゃ済まなそうですよ」

「んん?」

 と三姫さん、怪訝顔。

「…………。あー。母さん関係ないっすね。忘れてください」

 やはりというか、結構動転していたらしい。何故ここで母さんが出てくる。いや女の子は泣かすなといつも言われているのは事実だが。それで自分が嘘泣きするんだからなぁ、あの人。

「うん、分かった。忘れるね、マザコンくん」

「……忘れる気ぃ全然ねえっすね」

 素敵な笑顔のお姉さまだった。

「まあまあ。女の子との秘密は多く持つに限るって。秘密の花園ってやつ?」

「多分違います」

「ま、あたしだってお父さん好きだけどね。だから、今日の節菜のことも人に言っちゃ駄目よ?」

「ええ。了解してます」

 ありがとう、と。

 やはり彼女が言うことじゃないだろうに、三姫さんは言った。

「それじゃあ、あたしはこれで。節菜を探さなきゃ」

「追わないんじゃないんですか?」

「ん、ちょっと伝達事項があるらしくてね。聞かなきゃいけないと思うし。あ、そうそう、連絡先教えてくれる? ケータイでも家の電話でもいいんだけど」

 僕はケータイの番号を教えて、三姫さんと別れた。

 なんだか全身に疲れを覚えながら僕は教室へ戻って、

「……たじっ」

 思わず声に出してたじろいだ。



Intersect2.1


 これは自分の弱点だと、戸波節菜は自覚していた。自制するくせに感情的。理性に上塗りしてしまう昂奮。冷静なつもりで突っ走る。どこまで態度を辛くしても、最後のところで詰めが甘い。あらゆる要素を予想して行動してはいるが、それでもなおカバーしきれない出来事にこうして突き当たったときには、簡単に取り乱してしまう。

 その結果が、こうして自己嫌悪だ。

 ここまで完膚無きほどに崩れたのは、久しぶりだったが。

(はやて)……」

 両手で包むように持っていたかんざしを、さらにぎゅっと胸に押し付ける。

 あれはだから、自分の負けだ。予想外の抵抗に動転し、無様にも醜態を晒した自分の負け。失態だ。冷静さを失った時点で、すでに自分は負けなのだ。三姫の制止がなくても止まってはいただろうが、そのあとすぐに紅雛を降ろすまでには至らなかったかもしれない。そういう意味で、やはり三姫には感謝すべきだった。

 それにこうして、束の間たりとも一人にさせてくれたのだから。

「ここにいたのね。探すのにちょっと苦労したり」

「ごめんなさい。でも……」

「分かってるよ。あなたは自分を責めすぎる。もっと気楽に構えればいいのに。あたしみたいにね」

「…………」

 んしょ、という気合と共に、三姫は体を持ち上げて登ってきた。下からゴミ箱らしき音。どうやらそれを踏み台に登ってきたらしい。

 節菜が膝を抱えていたのは、屋上に上がる階段の更に上、給水塔の傍だ。角度的に屋上のどこからも見えない位置だが、グラウンド、延いては町をも一望できる。ここから初夏の青空を見上げながら、節菜は物思いに耽っていたのだった。

 それを探しあてた三姫に感心の念も覚えるが、煙と何某は高いところが好き、という言葉も思い出して、節菜は少し気が沈んだ。

「ふーっ。いい眺め」

 三姫は立ち上がり、手でひさしを作って下界を見渡す。二条に結われた髪が微風に流れた。

 この辺りの土地は起伏に乏しいため、地上三十メートル程度の屋上からでも地平線が見通せる。遠くに浮かぶ雲から視線を降ろして注視すれば、うっすらと海も見える。青と白の、胸がすくようなコントラストだった。

 ひゅんひゅんひゅん、と音。三姫が見ると、節菜が髪をまとめ上げていた。

「もういいの?」

「そう思ったから来たんでしょう? ええ。大丈夫。正直、彼があそこまで言うとは思わなかったから」

「誤算だったね」

「まったく。もっと軟弱で意志薄弱で意気地なしで弱虫で薄志弱行な興味本位の男だと思ってたのに。舐めてかかってたわ」

「その台詞を本人の前で言ったらへたれそうだけどね。青菜に塩って感じに」

「抜くべきところと詰めるべきところの区別がついているのかしらね」

「評価高いじゃない」

「ええ……まあ。だから、彼には色々話すことにしたわ。わたしが。都合のつく日にでも」

「そう思って、ケータイの電話番号聞いてきたよ」

「さすが。気が利く」

「まあね~ん」

 三姫は携帯電話を取り出して、電話帳に登録しておいた十一桁を読み上げた。節菜はそれを受け、自身の携帯電話に新たに登録する。

「それで――本題だけれど」

 携帯電話をポケットにしまって、節菜は言った。

「昨日、本部から通知が来たわ。内容は、『低確率で周辺地域に〈媒介師団〉師団員の存在が確認される。警戒せよ』。詳細は不明、判明次第追って連絡するとなっていたわ。おそらく期待できないでしょうけれど」

「ふむん」

「それからもう一つ、最近この辺りで頻発している野良動物殺し。あれ、どうも胡散臭いわ。わたしも日に幾つか潰しているけれど、魂牢系の志術式の痕跡がある。……まあ、今回も悪ふざけの類だと思うわ。そのうち飽きるでしょう」

「油断禁物」

「……そうね、気を引き締めなくては」

「常に最悪を想定」

「出来ればしたくないけれど……そうね」

 唄うようにたしなめる三姫に、柔らかい微苦笑で節菜が応じる。

「ありがとう、三姫さん」

 その時、不意に節菜の携帯電話が鳴った。

Intersect2.1out



「たじっ」

 思わず声に出してたじろいだ。

 教室のドアのレールをまたごうとしたまさにそのとき――つまり教室内の人間達から見れば、僕が姿を見せた途端に――教室内の空気が、がらりと変わったのだ。二十四くらいの瞳が、白眼視なんてものじゃない、極寒の温度でこちらを見ていた。例えていうなら犯罪者を見るような目つき。つまり教室は犯罪者を迎える法廷。教室内の彼彼女らが突撃槍を持っていたとしたら、一本残らず僕の方に向けられているだろう。そして串刺し死刑確定。そんな空気。

 一体全体、なんなんだ……。

 とりあえず出直した方が良さそうだと判断し後退しようとした僕に、

「……明馬くん」

 海から伸びる手のような声が僕を絡めとった。月山さん――揺唄とよくつるんでいるクラスメイトだった。黒縁の眼鏡をかけていて、言葉を選ばずに言えば……黒魔法使いのような雰囲気の。その瞳が、魔女裁判中の魔女を見るような色を帯びていた。

 月山さんは隣の中学だったけれど、入学してからのいくつかで人となりはある程度把握している。動物好きで自然に動物が寄ってくること、自宅には沢山のペットを飼っていること。それと反比例するように男を毛嫌いしていること。そして思い込みが激しいこと。

「ちょっと、お話が、あるの」

 月山さんの後ろには揺唄がいて、大失敗を犯したような表情を浮かべていた。台詞で言うと『あっちゃあ』あたり。

「ねぇニッコちゃん、だから誤解だって……」

「ユリちゃんはそこにいてね」振り向いた月山さん――月山仁津子さんは、揺唄に対してだけは笑顔だった。「すぐ終わるから」

「だから……ああぅ」

 揺唄にすらも有無を言わせず、月山さんは罪人(僕)の胸を押して押して押してくる。静かな黒いオーラ。無論僕だってなにも言えない。今この場では、おそらく僕の一言が一升の油だ。

 そして入ったのは――女子トイレ、だった。見慣れないピンク色のタイル、並んだ個室。綺麗に掃除されてはいるものの、床と抱擁は交わしたくない場所。興味がないと言えば嘘になるかもしれないが、僕にそんな倒錯した趣味嗜好があるわけでもなく……なんだか、僕の中のとても大切なものが喪失された気がした。

 月山さんはそのまま僕を押し続け、どん、と僕をかなり強く突き飛ばした。奥の壁、窓の下あたりに尻餅をつく。

「な、何なのさ、一体」

 僕が目を上げると、月山さんは乱れた長い黒髪の内側からじぃっとこちらを見つめていた。怖くなった僕は思わず視線を迷わせる。スカートの裾が近くて目のやり場に困るとか考えている場合じゃないらしい。待て……この雰囲気、本当に魔女裁判とか始まるんじゃないだろうな。女子トイレで。女子から。魔女裁判って。洒落にならなくないか?

「単刀直入に聞くわよ。……明馬くん、あなたユリちゃんに何をしたの」

「……は?」

「『は?』じゃなくて。とぼけないほうがいいよ?」

 にたり。口が横に避ける。それは僕に恐怖感をかきたてるに十分な仕草だった。自分の頬が引きつっているのが分かる。え、えっ、月山さんってこんな怖かったっけ? こんなキャラだっけ? ただの根暗さんじゃなかったっけ?

「洗いざらい喋った方がいいと思うよ? 分かってるんだから、あなたのしたこと。生物のあと、あなたとユリちゃん、一緒にどこか行ったよね。それでユリちゃんだけ戻ってきたでしょ? あたし気になったからユリちゃんに聞いてみたの。どうしたのかなって。そしたらユリちゃん、『よく覚えてない』って。居眠りしてた気がするって。でもユリちゃん、居眠りなんてしてなかったでしょう? 見てたんだよ、あたし。明馬くんがユリちゃんと一緒に生物室へ戻るところ。ねぇ、明馬くん。ユリちゃんになにかしたんでしょ? だからユリちゃん、嘘ついてるんでしょ? 正直に言って? ね? ユリちゃんに謝って?」

 早口に小さな声でまくし立てる月山さんのオーラが僕の背筋を凍らせた。

 そりゃ確かに、〈何か〉したけどさぁ! でもそれ僕じゃないしさぁ! 濡れ衣だよ濡れ衣! 揺唄証言してくれよ!

 ――と叫びたいのは山々だったが、そんなこと言ったら目の前の彼女がどんな手段に訴えるか分かったものじゃない。そのうえ揺唄は証言できないからこんな事態になっているのだった。言えねぇ……。失うものありまくりですよ。やっぱ本当にナマ言ってごめんなさい戸波さん。

 後ろから追ってきていた揺唄が控えめに言う。「ニッコ……もうやめてよ、あたしなら大丈夫だから。みんなもやめてってば。言ったじゃないホラ、服も乱れてないし、気持ち悪くもないし、どこも痛くないし」

「ならユリちゃん? あなた、自分の行動に筋道通った説明できるの? 言っておくけど、全部間違いでしたっていうごまかしは聞かないよ?」こっちを見下ろしたまま、月山さんが言う。まるで生類憐れみの令を破ったことによって捕まった哀れな男を見る目だった。

「えっと、それは……」と口ごもる揺唄は基本的に正直者だ。なので、こういう時はとことん具合が悪い。

 僕はふるふると震えている。きっと小動物あたりがこんなことしたら月山さんは絶対にほうっておかないんだろうけれど、僕がやったって、いたぶられるだけに決まっていた。

「いつから計画していたの? 少しユリちゃんがいい顔したからって、勘違いして調子に乗らないで? 別にあなたに気があるわけじゃないんだから。ねえユリ?」

「う……う、うん……」

 あ、ないんだ……。こちらとしても揺唄はただの友達だが、やっぱりちょっとショック。安達裕美が結婚しちゃったときくらいショック。ていうか万事休すだ。揺唄の今の答えで更に窮したぞ。なにか手はないのか。助けてアンパンマン! それでも僕はやってない! 誰か僕の無実を証明してくれる人は――

「――いた」

「いた? 痛い? ユリちゃんはもっと痛い思いしたんだよ?」

「違う違うそうじゃなくて!」そうだ、あの人がいるじゃないか! どうして思い当たらなかったんだよ! あの人なら話を合わせてくれるはずだ!「戸波さん、戸波さんだ! 二年生の戸波節菜さんって人に聞いてもらえれば分かる!」

「とっ……」

 鳩が豆鉄砲食ったよう、というのはこんな顔のことを言うのだろうか。紙鉄砲を眼前で鳴らされたように月山さんはのけぞった。しかしすぐに形相を一変させ、僕の胸倉を掴んでがくがくと揺さぶる。

「巴さん……? なんで明馬くんが巴さんのこと知ってるの?」

 え……巴さん? ってことは……月山さん、女子野球部だったのか。人を見た目で判断するつもりはないけれど、少なくとも外見から連想できるものではなかった。

「……」

 答えは期待できないと悟ったか、彼女は僕から目を離した。それからケータイを取り出し、ボタンを何度かプッシュして、

「あ、先輩ですか? あの、実は、明馬春詠っていう男子が、さっきまで何をしてたのか、知りたいんです。はい、先輩に聞けば分かると……はい、それで――」

「……………………」

 尊敬の念が滲み出ている豹変ぶりに、僕は絶句していた。口調が丁寧。物腰穏やか。声が高くて明るい。全幅の信頼を寄せているのがよく分かる。人は人を尊敬することで、ここまで変われるものなのか……。

 やがて――。

「……多分なにもしてないだろうって、一応、巴さんが」

 あぁ、よかった……。

 どうやら節菜さんは僕を裏切らなかったらしい。

「はぁ……」

 溜め息。どうやら容疑は完全に晴れた……

「明馬くん」

 わけではなかったらしい。

 ぐい、と額がぶつかるところまで顔を寄せられる。焦点の合っていない虚ろな目が僕を井戸の底へと引きずり込む。

「巴さん、ね。ユリちゃんが寝てたのを起こしたってことしか知らなかったの。ユリちゃんがなんで寝てたかまでは知らないって。そう言ってたの。……あなたがクスリか何か使ったってことも考えられるから、ね? 次に下手なことしたらこれだけじゃすまさない、よ?」

 そう言い残して月山さんは出て行った。あとに残ったのは揺唄一人。天井の蛍光灯を見上げて、大きく嘆息。ああ……やっと本当に人心地だ。

「ご、ごめんねハルちゃん。なんか巻き込んじゃったみたいで」

 かなり気まずそうに言う揺唄だった。

「いや……別にいい。結果的には、魔女裁判でリンチは受けなかったわけだしな。結果オーライだ」

「うん、ありがと」

 苦笑しつつ、揺唄は腕を組む。

「ううん……。教室に帰ってから気付いたんだけど、自分が何したんだか、よく覚えてなかったんだよね。ハルちゃんと何か約束してた……ような気がした……までは覚えてたから、それを言ったら、ニッコがあんなんなっちゃって。もっと強く止めるべきだったね」

「まあ、いいだろ。あの様子じゃ、止まったかどうかは微妙だ」

「ニッコは男子嫌いだからねぇ。なんでか知らないけど」

「代わりに女子が好きなんじゃないか? 揺唄、随分気に入られているみたいじゃないか。名前通りか?」

「……。今だから許すけど、それ、あんまり言わないでね。センス悪い冗談にしか聞こえないから」

「友達想いだな。ああ、大丈夫。二度と言わねぇよ。……はあ、しかし、助かったぁ」

「良かったね、その、トモエさんだっけ、その人が助けてくれて。それってもしかして、あたしを起こしてくれたかんざしの人?」

「そう、かんざしの人だ」

 頷いて僕は答える。そうか……『僕の胸の傷』に関連する記憶が消えているんだったっけ。とすると、揺唄ははたしてどこまで覚えていることになるのだろうか。

「ん?」と揺唄が小首を傾げた。「ハルちゃん、その絆創膏は?」

「絆創膏? ああ、これか」と首に指を当ててみる。しかし正直に話すこともできず、「さっき、ちょっとな」などと適当に誤魔化さなくてはならない。

「ふぅん……」

 じとっとした目になる揺唄。

「ま、ハルちゃんが学校で何してようと、あたしにはカンケーないけどね」

「……?」

 何故そんな、棘のある言い方をする?

 ――と、思考を巡らせようとしたとき、僕は重大な事実に突き当たった。

 否、それは《突き当たった》という自動形ではなく《突き当てられた》《突きつけられた》という他動形で表現されるものであり……、今更揺唄もそれに気付いたか、ぴく、と反応して振り向いた。

 入り口に人。

 女子トイレなので、無論女子。

 見も知らぬ彼女の口が、悲鳴の形にゆっくりとあんぐりと空気を吸い込みながら開いていく。今朝の星座占いは見なかったが、きっと女難の相が出てたんだろうと今頃になって思った。



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